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あちらの世界と俺

 それは閻魔様と羅門が帰って数日後のことだった。


 いつもは虎之介が朝食の準備をしてくれているため、まな板を叩く包丁の音やみそ汁の出汁の匂いで目が覚める。しかし、この日に限って午前6時30分を回っても、いつもの気配がない。


 不思議に思って台所へ行くと、虎之介と龍さんの姿はなかった。

 居間はもちろん、彼らの寝床に行っても。


「虎之介ー、龍さんー?」


 当然、声をかけても返事は返って来ない。念のため、住居の1階にある店にも行ってみたが、不気味なほど静まり返った店内には誰もいなかった。


 その時、店の外から異様な気配を察知する。

 全身に鳥肌が立ち、独特な甘い匂いが鼻をかすめた。俺は妖怪と人間を区別する時に匂いで判別できる特異体質を持っているが、この匂いはまさに妖怪のもの。漂う匂いはかなり強烈なもので、思わず服の袖で鼻を覆ってしまった。ただ事ではないと思ったが、店の外に出る勇気もない。


「ど、どうしたら……そうだ、才雲さんに連絡してみよう。才雲さんならきっとこの現象の理由を知ってるはず……ん? あれ? な、なんで!?」


 ポケットからスマホを取り出して才雲さんに電話をしようとするも、圏外であることに気付く。近くに基地局があるため電波がなくなることはないのに、外から感じる異様な気配が電波をも妨害しているのでは、と思った。


「……こうなったら、寺まで助けを求めに行くしかないか」


 恐怖からなのか心臓の鼓動が速くなり、額に汗が滲み始める。深呼吸をした俺は心を落ち着かせ、外に出る決心をした。寺に行けば、才雲さんやてっちゃん、ヤマさんもいる。あそこならきっと安全なはずだ。


 覚悟を決めて店の戸を開けると、目の前の光景に愕然とする。

 店の通りには、生気なく辺りを彷徨う無数の妖怪たちの姿があった。この世ならざる光景と、一層強くなった匂いに眩暈を感じた時、ヤツらの視線は俺を捉えた。その目は白く濁っており、まるで何かに操られているかのよう。恐怖を感じながらゆっくり辺りを見回すと、妖怪たちの中に一際デカい図体のアイツを見つけた。なぜか人間の姿のままだったが、安堵した俺は思わず駆け寄る。


「おーい、虎之介! よかった、無事だったんだな。一体これどうなってんだよ。人の姿が見当たらないんだけど、この町の人は———」


 俺の問いかけに、ようやくこちらを向いた虎之介。

 しかし、その目は他の妖怪同様に白く濁り、随分と顔色が悪い。


「お、おい、大丈夫か……?」


 その瞬間、牙を剥き出しにした虎之介は、奇声を上げながらこちらに襲い掛かってきた。


「ヴアァァァァァァァァァッ」


 ——— 俺、死ぬかも。

 死を悟った時、目の前の出来事に対して時の流れは鈍くなる。以前、悪意のある妖怪に襲われた時もそうだった。体格差のある虎之介に敵うはずもなく、ゆっくり動いているかのように見える虎之介から逃げることもできない。俺はただ、この状況を受け入れるしかないのだ。


 ああ、こんな形で一生が終わってしまうとは、俺の人生はなんだったんだ。

 なあ、虎之介。俺たちで世界平和を目指すって約束したじゃないか。

 なんでだよ、虎之介。俺たち家族だろう?


 そんなことを思いながら、目頭が熱くなった。その瞬間———。


「こっちだ! 走れ!」

「……ッ!?」


 突然、右手を掴まれた俺は、誰かが力強く引っ張る方向に足が赴く。もつれそうになりながらも自然と歩が進み、掴まれた手の先を確認すると、よく見知った人物がいた。


「さ、才雲さん!」

「決して振り返るんじゃない、走り続けなさい!」

「は、はい……!」


 言われるがまま走って行った先には寺があり、門の前で待っていたてっちゃんは俺たちを急かすように中へと招き入れた。すぐに閉門したのも束の間、外からは呻き声と門をけたたましく叩く音が響き渡る。


「はあ、はあ……助かりました」

「ご無事でよかったです、大史さん」

「間一髪だったな」


 あれだけ全力疾走だったというのに才雲さんの呼吸は一切乱れていない。対して俺は息を吸うのに必死で、その場にへたり込んでしまった。


「大丈夫かい?」

「は、はい。あの、才雲さん、この状況は一体……」

「大史くん。落ち着いて聞いてくれ。この世界はもう、我々の知る世界ではない。陰の気が満ちたことによって人間に紛れていた妖怪たちは正気を失い、人間を襲うようになってしまったんだ。うちの蛇才だっさいも同様だ。人間から本来の姿である八岐大蛇やまたのおろちに変化し、私たちに襲い掛かってこようとした。生憎、この敷地内には結界を張っているから、蛇才は思うように動けず逃げるようにここを去って行ったんだ。大史くん、この世はもう人と妖怪が共存できる世界ではなくなったのだよ」

「そんな……他の人たちは無事なんでしょうか?」

「実はね、この世に残っている人間は私たちだけだ」

「……え、まさか」


 伏し目がちに頷くてっちゃんを見て、才雲さんの言葉が事実であることを悟った。事実であることは理解したが、このような状況が現実であることを未だに受け入れられない。肉屋の松さんや圭太、峯田さん夫妻、常連のお客たち……彼らは既にこの世にはいないということだろうか。


「でも大丈夫だよ。そろそろ迎えに来るだろうから」

「迎え?」


 才雲さんはそう言うと天を見上げ、その先を目で追う。すると、遠くの方から雲をかき分けてこちらに近づいてくる蛇のようなものを捉えた。いや、あれは蛇ではない。長くうねる胴体の先には四方八方に伸びる9つの頭が付いており、頭には立派な角と触覚のようなものが生えていた。金色に輝く鱗はまるで龍のようで……。


「大史! 無事だったか! 」


 その声は脳内に直接響き、地鳴りのように低いものだった。


「も……もしかして、龍さん!?」


 猛スピードでこちらに近づいてきた神々しい物体は、土煙を巻き上げながら境内に降り立った。本堂と同寸であることに圧倒されつつ、見上げた先には9つの顔がこちらを見つめていた。


「龍殿、来てくれてありがとう」

「わあ! 龍さんって本当に九頭龍だったんですね!」

「すごい迫力……かっこいいな」

「ふふんっ! そうだろう? 我はかっこいいのだ!」


 相変わらず聞きなれない声色だが、話し方で龍さんだと確信した途端にほっとする。


「そんなことより! 大変なことになってるのにどこ行ってたんだよ!」

「野暮用だ。あちらに話をつけてきたのだ」

「あちら? あちらってどちら!?」

「時間がない。早く我の背に乗るのだ」


 急かされた俺たちは、ごつごつとした鱗に覆われた背中に跨ると、浮遊感を楽しむ間もなくあっという間に雲の高さまで到達。「しっかり掴まっておれ」という龍さんの言葉のあと、とんでもない速さでどこかへ突進していく。


「ちょ、龍さん! どこ行くの!?」

「地獄だ」

「えっ」

「閻魔がぬしらの面倒をみてくれるそうだ。よかったな」

「えっと、ここより地獄のほうが安全ってこと?」

「まぁ、安全といえば安全だな」

「虎之介たちはどうなっちゃうんだ?」

「あのように正気を失ってしまえば、もう元に戻れぬ。この世界はもう人間がいるところではない。我はぬしらを送り届けたのち、地球もろとも消し炭にするつもりだ」

「は? いや、さすがにやりすぎでは!?」

「何を言う、我は神だ。破壊も創造も我次第。妖怪共を絶滅させ、再び人間が生命を育めるよう新しいものを創ればよい」

「そんな簡単に……だって虎之介たちは———」


「まあまあ、大史くん。そうなる以外、他に道はないのだよ」


 背後から声が聞こえて振り返ると、才雲さんとてっちゃんはなぜか白装束を身に纏い、額には三角形の白い布を付けていた。


「え!? な、なんですか、その格好」

「そんな大史くんこそ、同じ格好をしているじゃないか。これから向かう先はね、この姿が正装なのだよ」

「いや、俺は……ハッ!?」


 先ほどまで寝間着姿だったというのに、いつ間にか白装束を着ていた俺。

 額に手を当ててみると、三角形の布まで付いている。


「ね、ねぇ、龍さん! どういうこと? これ、死に装束じゃん」

「かわいそうに。大史はまだ気づいておらぬのか。ぬしらは既に死んでいる。現世で彷徨っていた魂を地獄へと送り届けるのが我の仕事なのだ」

「はあ!? な、何言ってんだよ。まだ生きてるって! ほら、この通り!」

「案ずるな。我がしっかりと弔ってやる。ほれ、地獄の入り口が見えてきたぞ」


 雲をかき分けて下に見えてきたのは、螺鈿のような光彩を放つ大きな川と、川にかかる赤い橋だった。もしかして、ここは俗にいう三途の川というものなのだろうか。


「我はここまでだ。川を目がけて飛び込むのだぞ」

「え、なんで!? せめて地上まで送り届けてよ! いや、送り届けられても困るけど、こんな高さから飛び込めって正気!?」

「ぬしらは既に死んでおるのだから、失敗しても大丈夫だ」

「いやいや、大丈夫じゃないって! だって俺死んでないもん!」

「世話になったな、大史。達者でな」

「え、ちょっ……! アァァァァァァァァーーーッ!」

 

 躊躇なく川へと飛び込んでいった才雲さんとてっちゃんを見た俺は、恐怖を感じて必死に背中の鱗にしがみついていたが、その抵抗も虚しく振り落とされてしまう。

 

「いやぁぁぁぁぁぁ! まだ死にたくないぃぃぃぃぃ!」


 そんなセリフを残したあと、俺の意識は途絶えた。

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