⑧お子ちゃん先生と大西さん
ある日、職員の松本保彦(三十歳)が施設長室に入ってきた。
「お子ちゃん先生、私は納得できません」
理由を聞くと、挨拶しても知らんぷり、仕事も適当にしている職員がいるという。一人の職員の意見だけに耳を傾けるわけにはいかず、全職員に聞いてみた。すると、全員同じ回答。お子ちゃん先生はどうしたものかと考えた。
その問題になっている職員、大西美鈴(二十四歳)を施設長室に呼んだ。
単刀直入に言うのも、大西を傷つける可能性があるので、やんわりと話した。
「仕事をしていて不安な事、悩み事はない?」
そうすると、大西は少し考えて答えた。
「私、低血圧で朝は苦手なんです。気分がすぐれません」
そうか、大西は低血圧なのか。しかし、お子ちゃん先生は考えた。挨拶されても「おはよう」と返せない原因は何か? 低血圧の身体的な理由なのか? それともただの性格の問題なのか?
困った案件だ。低血圧で目覚めが悪いと思うのだが、遅刻した事はない。彼女なりに頑張っているのだ。性格は大人しく協調性には乏しい。
これを他職員にどう伝えたらいいのか悩んだ。
お子ちゃん先生は、大西が出社すると大きな声で「おはよう」と出迎えた。
毎日、出迎えた。
そうすると、大西から小さな声で「おはようございます」と上履きを履きながら、挨拶を返してくれるようになった。
お子ちゃん先生は嬉しかった。
「おはよう、今日も一日頑張ろう」と付け加えた。すると、「はい。今日も一日がんばります」と彼女も笑顔をのぞかせた。
ある日、松本に「その後どう? 大西さんは挨拶してくれる?」と聞いてみた。
すると、「そうなんですよ。大西さんから挨拶してくれるんですよ。みんなびっくりしています」と答えが返ってきた。
あれから一か月。出社すると、皆の元気な声が聞こえる。
「おはよう」の声が聞こえる。
挨拶は大切な事である。出勤して朝から元気に挨拶してくれると気持ちがすっきりする。言葉で伝える事は簡単そうで、実際は難しい事なのかもしれない。
お子ちゃん先生も振り返ると、出勤前に当日の勤務者をチェックした事があった。
「ウワ~、今日は○○さんと一緒かぁ。きついな~」などと、通勤時の車中、重苦しい気持ちで現場に向かった事があった。苦手な職員との勤務は本当にしんどい。職員間のコミュニケーション不足が離職の原因の一つにもなるのだ。人間関係は本当に難しい。