愛のみを権威に数える独善的な権威主義
人々は、騙し合い、虐げ合い、蔑み合うことで、幸福を失い、苦しみへと沈みつつある。
それを救う方法は、一つしかない。
神という概念を用いずにキリスト教を記述しなおすことによってしか、人類を破滅から救えない。
キリスト教とは、独善的な権威主義だ。
すなわち、隣人愛以外の尊厳を権威に数えない意味で権威主義だ。
そして、他の価値観つまり他の権威主義を劣等だと見下す意味で独善的だ。
例えば、不運な生まれによって過酷な虐待を受け、親の温もりを知らない子供が、善良に生きることの報われない社会で、心身の鋭い痛みにさいなまれつつ、しかし悪魔になることを拒み、なお他者の幸福を気遣って善良に生きようとするなら、その健気な生き様は、何ものにも劣らない尊厳であり、権威でもある。
お金を多く稼ぐことや、子孫を多く残すことや、長く生きることや、安寧に生きることや、財産や権力を手にしていることでは、その権威の序列をわずかにも覆すことができない。
言わばそのようなものが、ここで言う、愛を権威とする権威主義の定義だ。
清潔で高価な服を着た健康な人が愛の権威を仰がず、ボロ布をまとった病人や怪我人が愛の権威を仰ぐならば、愛を権威とする権威主義から見た権威は後者に所属する。
それは、愛を愛する思想であって、愛を愛する程度によってすべての人を序列する。利己的で残忍で精神的に暴力的な人々ほど、人間社会の幸福を発展させるためには荷物だという意味でだ。
私利私欲によってしか生きたことのない人々や、他人のためにわずかな汗も流したことのない人々は、これを理解しない。
人々を序列することや、権威主義や、独善性を、悪だと決めつけて否定し、利己的な自尊心を弁護しつづける。それはなぜなら、私益のための権威主義や序列としてしか、権威主義や序列という概念を理解できないからだ。私利私欲に生きる世俗性を劣等だと見なす価値観を、いかなる理由があれ正当と見なすわけにはいかないからだ。
そのような愚かさは、物質文明を通して拡大し、人々全体を苦しみへと沈めつつある。
保身を第一とする哲学は、近代の大衆の心を固く握りしめている。
ゆえに、真実は、無数の人々から暴力的な精神を向けられる。
しかし、どんなに暴力的な精神を向けられたとしても、真実が変わることはない。
人間の社会の合理性と不合理性の構造が変わることはない。
幸福の生産性に関して、他者への共感や愛情が備えている合理性は、変わることがない。
逆に言えば、利己的で残忍であることに満足することの愚かな不合理性は、変わることがない。
愛のみを権威に数える独善的な権威主義。
聖書すら引き継ぐことなくキリスト教をそう書き換えねばならない。
なぜなら、神などといった言葉遣いは、愛以外を権威に数えた逸脱した権威主義を独善的に維持しやすく有害だからだ。愛の権威を東西に分割し、偽りの蔑みや間違った独善性を生じてしまうからだ。
権力者が銃を向けて私達を脅しても無駄だ。
資本家が金を引き上げて私達を脅しても無駄だ。
雇用主が解雇によって私達を脅しても無駄だ。
正義の炎が、愚者達の悪意によって消し去られることはない。
私達は、貧しさや死に怯えることを否定した存在だ。
なぜなら私達は、独善的な権威主義者だからだ。
私達が、愛の尊厳以外を権威に数えることは起こらない。
愛すること、つまり他者を隔てず苦楽を広く思いやることが、私達にとっての各々の美徳だ。
結果として、他人のために不可欠な場合以外には、嘘をつかないし、ごまかさない。
結果として、自分に対してすら、自己弁護のために認知をゆがめることをしない。
自己弁護のために認知をゆがめることは、人間という動物の習性のようなものだから、真実へのこの愛好は、私達を本質的に区分する。他人を愛せる者にだけ真実は自らの姿をかいま見せる。
その姿は、どんな乙女よりも美しく、心の底にまで喜びをもたらす。
愛のみが真の権威だとは、生命や宇宙の因果の底に横たわった、普遍性のある現実だ。
その知識を持っていてこそ、人は倫理的な美学を伴って日々を生きられる。
保身の私欲しかない動物以上の存在として、社会幸福を支える一市民になれる。
すなわち、歴史的な宗教には社会的な意義があったと考えられる。
世俗から最も遠い価値観を生きた僧達には、妥当な尊厳があったと考えられる。
近代科学以外の迷信を取り除き、宗教を構成しなおした時、庶民に率先して僧として生きる意味も刷新される。
愛のみが真の権威だと知ることは、世俗的な諸権威を果てしなく軽視する意味での、僧としての生き様を示す。
すべての経典を完全に捨て去ることで、初めて本物の僧として生きることができる。
聖書を解説して権威とすることや、頭を丸めて墓を見守り金を取ることが僧としての本質であるわけはない。そんなものは、もし僧の対極でなければ、僧の最底辺にすぎない。
愛の権威を重視して生きる生活者は、すでにして最高位の僧達だ。
痛みの中で生きながら思いやって生きようとする不遇な子供達は、最高の権威を具現する僧達だ。
多くの人々の幸せのために戦場で献身し血を流して倒れていく若者達は、完全に僧達だ。
世俗的な大衆性を肯定するために徹底的に堕落させられた哲学を再構成せねばならない。
真実を愛好する哲学は生得的に、世俗的大衆性には否定的だったはずだ。
多く金を稼いで、若い美人と身体を重ねて、子供達をよその子より高価な学校に通わせて地位と権力を争うことが人生の目的なら、知的刺激はどこにあるのか? 人々が思いやって助け合う社会へと発展させていくために、そんなゴキブリのような生き様が芥子粒ほどでも貢献すると、脳が腐れば信じられるのか?
一度きりの人生だから、最高に知的な趣味に生きるべきだ。最高に知的な趣味は、哲学であり、真に知的な哲学は、愛の権威を知る哲学しかありえない。世俗などすべて相対化するのでなければ、つまらない。終わらない争い合いに油を注ぐ一滴として人生を終える以外にはなりえない。
人類が、破滅の淵に置かれた時代に生まれ落ちたなら、人類の運命をもう諦めて個人的な保身に走るのか?
そうではなく、勇気を持って挑戦するのか?
どんなに多くの人に否定され、誰一人に理解されずとも、信じる真実を追求しつづけるか?
損得だとか安全について頭で考えるより、かっこいい、ださいを魂で感じるべきだと思う。
そして、かっこいいと思える人物像に近づくことを目的として生きるべきだと思う。
頭を丸めて権威にすがることが僧ではない。本物の僧はかっこいい。
愛のみを権威に数える独善的な権威主義は、最高に知的で最高にかっこいい。
母性的な愛の極致にこそ、本当のヒロイズムがある。