第三章『玄冥氷掌(二)』
放たれた掌打は、奇怪かつ悪辣な手ばかりだった先ほどまでとは打って変わって、真っ直ぐな軌道で向かって来る。
普段の拓飛であれば冷静に捌いて返す手で反撃するところだったが、この何の変哲も無い掌打には、血気盛んだった頃の負けん気がムラムラと湧いてきた。
拓飛は迫り来る右掌に対して左掌を打ち出した。
これは相手と掌を真っ正面から合わせる形になってしまい、未知な使い手に対してはあまり望ましい展開とは言えないが、内功にも自信を持つ拓飛は掌打ごと玄舟を吹き飛ばす肚である。
二つの掌が鏡のようにピタリと合わせられ、真氣を送り出そうとした刹那、拓飛は奇妙な事実を感じ取った。
————掌から感じられるはずの温もりが、全く無いのである。
それは、まるで死人のようであった————。
拓飛が驚きで眼を丸くしていると、合わさった左掌から骨の髄まで滲み入るような寒気が伝わって来た。
(————コイツは何かヤベえッ!)
危険を察知した拓飛は左腕を引き剥がそうとしたが、玄舟の掌は磁石で吸い付いたように離れない。瞬時に拓飛は前蹴りを放ち、玄舟が防御した隙に反動を利用して後方へトンボ返りして難を逃れた。
着地した拓飛は左腕に違和感を感じ、眼を向けた。
「————なっ、なんだこりゃあ‼︎」
見れば左手首の先まで凍りついて全く動かせないのである。
眼を細めてその様子を見ていた玄舟は、長年の研究が結実したかのように満面の笑みを浮かべた。
「……クックック、惜しいことだ。今少し『寒氷真氣』が流れ込んでいれば、虎の氷細工が出来上がっていたものを」
「てめえ、いったい何しやがった……!」
額に脂汗を浮かべる拓飛とは対照的に、涼しい表情で玄舟が口を開いた。
「————これぞ絶招『玄冥氷掌』……‼︎」
「————凰華おばさん! 拓飛おじさんの腕が!」
拓飛の異変をその眼に収めた龍珠が血相を変えて、凰華の裾を引っ張った。
「……分かっているわ。龍珠」
しかし、凰華は眼の前の相手から片時も視線を逸らすことは出来ない。
いくら己よりも腕は劣るとは言え、眼前に立つ痩せた狼の如き男————玄狼はよそ見をしながら勝てるような生易しい相手ではない。油断などしようものなら、即座に喉笛に食らいついて来ることだろう。
「悪いけれど、本気で行かせてもらうわよ……!」
「師父の命は絶対だ。こちらとしても負けられん……!」
凰華が静かに力強く宣言すると、呼応するように玄狼もうなずいた。
「————『玄冥氷掌』だと……⁉︎」
凍りついた左腕を押さえながら拓飛が繰り返した。
「……そうだ。我が掌に触れられれば、その箇所が瞬時に凍りつくぞ……!」
勝利を確信したかのように、玄舟の声は愉悦に震えていた。
「…………」
「止すがいい。下手に力を込めれば砕け落ちるぞ。もっとも放っておけば、その左腕は壊死するだろうがな」
拓飛が残る右手で凍りついた左腕をさすっていると玄舟が声を掛けてきたが、拓飛は構わず右手を動かしている。
「無駄なことは————」
緩やかな動きだった右手が止まったと思うと、次第に虫の羽音らしき異音が聞こえて来たと同時に拓飛の右腕が凄まじい速さで振動を始めた。
すると、肉が焼けるような音と共に左腕から蒸気が迸り出し、霧の煙幕となって拓飛の身体を覆い尽くす。
「————なっ⁉︎」
数秒の後、霧が晴れると、感覚を確かめるように左腕をプラプラと振る拓飛の姿があった。
「き……貴様ぁ……ッ!」
「ヘッ、触れられたらヤベえのは、てめえの掌だけじゃねえぜ!」
拓飛の『烈震熱濤掌』によって、自慢の『玄冥氷掌』を無効化された玄舟の顔からは歪んだ笑みが消え失せたが、すぐに口角を持ち上げた。
「……フッフフ、面白い男だ。だが全身を氷漬けにされても、まだそんな芸当が出来るものかな……⁉︎」
「ハッ、その前にてめえを丸焦げにして、文字通り『黒亀』にしてやるぜ……!」
拓飛がとびきりの笑顔をぶつけると、玄舟はギリリと歯噛みして地面を蹴った。
————ヒリヒリするような緊張感の中、拓飛の心中には歓喜にも似た感情が駆け巡っていた。
自身の腕前が上がれば上がるほど、満足に打ち合える対手に巡り合う機会は減っていき、この数年ほどは本気を出せた記憶が無いほどだった。
しかし、いま向かい合っている相手は違う。本気で打ち出した拳を外して、即座に反撃の手を返して来る。
鍛え上げた技を存分に振るえる喜びで、命のやり取りの真っ只中だというのに、拓飛の顔には満面の笑みが貼り付いていた。
一方、玄舟の額には脂汗が浮かび、その表情は苦悶に満ちていた。
十年前に玄武派を離脱して以降、苦心に苦心を重ねて会得した魔技『玄冥氷掌』————。
平静を装っていたものの、それを無効化された衝撃はやはり大きく、精神の動揺はその他の技のキレに影を落としていた。
意気消沈気味の己とは対照的に、眼の前の虎は意気揚々といった様子で次々と苛烈な攻撃を打ち込んで来る。
元々、接近戦は拓飛が一枚上なこともあり、玄舟は徐々に窮地に追い込まれて行った。
————龍珠は凰華の背にかばわれながらも、拓飛と玄舟の闘いに眼を奪われていた。
二年前に拓飛と凰華夫妻に預けられてからというもの、人に仇なす妖怪や野盗などを拓飛が退治する場面を何度か目撃していたが、相手との実力差があり過ぎていたため伯父の本気を見る前に全てが終わっていた。
いま瞳の中に映っているこの闘いこそが、伯父の本気の姿なのだ。それは嬉しそうな拓飛の表情が雄弁に物語っていた。
難しい技の駆け引きなどは龍珠には分からない。
ただ、自分が諦めたはずの武術を生き生きとした様子で振るう拓飛の姿から、どうしても眼を離すことが出来なかった。
まるで自分が目指すべき目標が、そこにあるかのように————。




