第三章『玄冥氷掌(一)』
突如強まった雪の勢いによって中庭にいる全員の視界が一瞬奪われ、再び視界が開けた時、新たに一人の男が幽鬼のように佇んでいるのが眼に入った。
男は玄狼たちと同じ漆黒の衣装を身に纏っており、その顔には深いシワが幾重にも刻まれ、正確な年齢は読み取れない。不思議なことに、男の肌に触れた雪は溶けること無く次々と積もっていく。
男はちょうど拓飛と玄豺、凰華と龍珠たちの間に立っており、見れば母屋の扉がいつの間にか開いている。さしもの拓飛も男が接近する気配を察知できなかったことに驚きを禁じ得なかったが、表情にはさらけ出さず口を開いた。
「……ヘッ、てめえがコイツらの親玉ってワケかよ。来いや、ついでにてめえもブチのめしてやるぜ」
不敵な表情で手招きする拓飛へ男はゆっくりと顔を向けたが、そのまま視線を下げて、うずくまる玄豺を視界に収めると無表情でつぶやいた。
「……玄豺、倒されたのか……」
「————師父! お気を付け下さい! その男は『凌雲飛虎』です!」
凰華の手が止まった隙に間合いを取った玄狼が男に声を掛けた。
凰華は自分に追い詰められていた時ですら冷静さを失わなかった玄狼の声が幾分か上ずっていることに気がついた。どうやら玄狼は師父に対して畏敬の感情よりも、恐怖のそれが勝っているようだ。
「凌雲飛虎……、誰だ?」
「凌拓飛という侠客です! 玄豺師兄をあしらうほどの手練れで、ここはこの者たちの持ち家だったようです!」
「ほう、凌拓飛……」
弟子が血ヘドを吐いて昏倒している様を見ても無表情だった男が、うっすらと笑みを浮かべて再び拓飛へと視線を送った。
この様子に凰華は違和感を覚えた。
近頃、拓飛はもっぱら『凌雲飛虎』の異名が知れ渡っており、凌拓飛の名は知らずとも異名は耳にしたことがある者が大半で、その逆は極めて少なかったのである。
「懐かしい名だ。いつだったか、白髪赤眼の侠客が朱雀派の門人と婚姻を結ぶと触れがあったな。確か、その男が凌拓飛と言ったような……」
「えっ?」
思わず龍珠が声を発した。一斉に皆の視線が集まり、龍珠はハッとして口を両手で塞いだ。男は構わず言葉を続ける。
「しかし妙なことだ。そこの女は朱雀派の者ではないようだが……。おっと、そうだった。男はいよいよ拝礼という土壇場で突然、言を違えて花嫁を足蹴にして逃げ出したと聞いたな。だが、そこの男は白髪ではないから別人か……」
龍珠は口を塞いだまま拓飛へと視線を送った。拓飛は突然、十数年前の出来事を蒸し返され、珍しく動揺している様子である。
次いで龍珠は恐る恐るそばに立つ凰華を見上げたが、その表情から心中に渦巻く感情は読み取れない。しかし、何故か冷や汗が額を伝ってきてしまうのだった。
「あなたたちは玄武派の門人ね? 道号(道士名)を承ろうかしら」
「…………」
凰華が努めて冷静に問いかけるが、先ほどまで饒舌だった男は再び黙り込んでしまった。
「ここは私の家よ、答えてくれてもいいでしょう?」
「…………」
しかし、やはり男は何も答えない。
「答えたくないというのなら私が言いましょうか。あなたの道号は『司玄』、司玄道長でしょう?」
凰華の言葉に男————司玄道人の眉根がピクリと持ち上がった。
「どうやら当たり、みたいね」
「……何故、ワシが司玄だと……?」
「隠しても仕方ないから正直に言うけれど、ただの当て推量よ。十年ほど前に玄武派の第七世代筆頭が姿を消したという噂を聞いたことがあったからね」
「……ワシは崔玄舟だ……」
「それがあなたの俗名だということかしら?」
「…………」
再び司玄道人もとい、崔玄舟は押し黙った。この場合の沈黙は肯定を意味していた。
「……玄狼」
玄舟は視線を拓飛に向けたまま弟子に呼びかけた。
「ワシが凌拓飛の相手をする。お前はその女を始末しろ」
「は————はッ‼︎」
師父の命に玄狼が姿勢を正して返事をした。
命令を下した玄舟がおもむろに拓飛の前へと歩みを進めると、拓飛が口火を切った。
「てめえ……、玄武派の第七世代筆頭だか崔なんたらだか知らねえが、よくも余計なことをベラベラしゃべってくれたじゃねえか」
「嫁に聞かれてマズかったかな? しかし、貴様は白髪の凌拓飛ではないから構わんだろう?」
「この野郎……!」
珍しく言い負かされた形の拓飛がギラリと玄舟を睨みつけるが、玄舟はどこ吹く風といった様子である。
「ようやく……、ようやく体内の氣が整ったのだ。まず貴様で試しとさせてもらおうか」
この言葉を聞いて拓飛の表情が緩んだ。
「フン。てめえ、この家で内功の鍛錬をしてやがったのか。面白えじゃ————」
拓飛が構えを取る前に玄舟の姿が揺らめき、次の瞬間、二つの刃が拓飛の咽喉と丹田を同時に襲った。
(————疾えッ!)
瞬時に背後へ飛び退った拓飛の喉と下腹部からは薄皮が裂け、一筋の鮮血が滴り落ちた。
「ほう、初見でワシの『陰陽亀蛇』を外すとはどうやら虚名ではないようだな。結構、結構」
指先に付いた血液を舌舐めずりすると、玄舟は地面を蹴った。
玄舟の拳足が猛烈な勢いで襲い来る。その攻撃は拓飛が今まで見たことのない奇怪な手筋で、狙いは全てが両眼・金的・顳顬などの急所である。
拓飛は反撃ができないのか、攻撃を捌くばかりの守勢に回り、再び間合いを外した時には目尻と脇腹に浅い傷を負っていた。しかし、その眼光からはいささかも闘志の衰えは見受けられない。
「よもや、急所狙いは卑怯などと言うまいな?」
「まさかだろ。ただ俺はこう思ってる。『玄武派ってのは慈悲深さを旨として、殺し技は数少ねえって聞いてたが、こりゃどう言うこった?』ってな」
玄舟の口の端が僅かに持ち上がった。
「我は玄武派にあらず……」
「玄武派じゃなけりゃ、なんだってんだよ?」
突如、玄舟の呼吸法が変わり、両腕を身体の前で奇妙に旋回させ始めた。ほどなくして、拓飛は周囲の気温が下がってきたように感じられた。
「……そうだな、『玄冥派』とでも名乗っておこうか……!」
言い終えた玄舟はカッと眼を見開き、恐るべき掌打を放った————。




