第二十四章『無極(一)』
昏倒する正剛を成虎に託した龍珠は急いで大広間を後にした。
『氷鏡廊』の外に出てみると辺りは暗くなっており、先に出た成虎の姿はすでに無かったが、小さな足跡らしきものが数十丈ほどの間隔で東の方角へ続いているのが見えた。これには龍珠は舌を巻いた。
(人ひとり担いだ大男が、柔らかい雪原に足跡をほとんど残さず長距離を跳躍している……。さすが拓飛おじさんの師父だ、内功も軽功の腕も超一流だな……! 岳ご先輩に任せておけば、きっと父さまも大丈夫だ)
視線を移せば、玄武派の門人たちが乗ってきた犬艝も消えてしまっていた。
(……崔玄舟が、残っていた玄武派の門人を脅して艝を引かせたんだな。ということは————)
艝の跡は西の方角へと伸びている。
(————この跡を辿って行けば、玄武派の本拠『宝亀楼』へと辿り着けるはずだ……!)
軽功を用いるため龍珠が全身に氣を巡らそうとした時、上空から聞き覚えのある嘶きが響いてきた。
「————星河!」
見上げた先には、蹄から炎を吹く白馬が夜空に縫い止められているように浮かんでいた。凰蘭が近くの鎮に残していたのだが、夜になったことで飛んで迎えに来てくれたようである。
龍珠は軽やかに跳躍して星河の背に飛び乗った。
「ありがとう、星河。凰蘭を助けに行きたいんだけど、力を貸してくれるか?」
もう一人の主人の名を聞いた星河はブルルと鼻を鳴らして返事をする。
「よし、行こう!」
龍珠が声を掛けると、星河は大きく嘶いて空を駆け出した。
————艝の跡を追って夜空を飛行していると、雪に覆われた山間地帯へと差し掛かった。
(————アレか……)
目線の先には成虎の言っていた通り盆地のように開けた場所があり、数十の楼閣がポツポツと灯りを放っている。真っ暗な山間部に突如現れたそれは、狼の群れが放つ眼光のような不気味さを醸し出していた。
(……『宝亀楼』とはよく言ったものだ。まるで亀の甲羅のように、楼閣が規則正しく配置されている)
宝亀楼の上空に到着した龍珠は手綱を引いて、星河を御した。上空から眼を凝らして見ると、宝亀楼の大門に玄舟が乗っていたとみられる犬艝が乗り捨てられており、門番らしき者たちが氷漬けになっていた。
(玄舟め……! やっぱり此処へ戻って来たんだな……‼︎)
視線を大門から内部に移していくと、侵入した玄舟を止めに入ったとみられる玄武派の門人たちがやはり相次いで凍らされていた。
(……なんて奴だ……! いくら抜けたとは言え、以前は同じ釜の飯を食い、共に切磋琢磨した同門の士もいただろうに……!)
義憤に駆られた龍珠は歯噛みして、玄舟の残した痕跡を追った。玄武派の門人たちの氷像は中心部へと連なるように立っており、その先にある一際背の高い楼閣が眼を引いた。
(————あの中心に建つ楼閣が掌門の住居だな。奴はあの中だ……!)
気を落ち着けた龍珠は星河の首筋をポンポンと叩いた。
「星河。明るくなる前に終わらせるから、ここで待っていてくれないか?」
龍珠の声に星河は低く鼻を鳴らして応える。龍珠はうっすらと笑みを浮かべた後、静かに眼を閉じた。
(……凛明姉さん、玄狼師兄、俺に力を貸してください……!)
祈りを終えた龍珠は眼を見開き、星河の背を蹴った。
————楼閣の最上階・玄武派掌門の間には、いくつもの氷像が兵馬俑のように佇立していた。
その中に、凍りついていない人間の影は三つ————。
「————し、司玄……貴様……ッ」
威厳ある口髭を生やした小太りの男が震える声で言うと、司玄と呼ばれた男はニタリと歯を見せる。
「……理玄師兄、第七世代筆頭であったワシを追い出して手に入れた掌門の椅子の座り心地は如何ですかな……?」
司玄道人————もとい、崔玄舟に問われた玄武派掌門・理玄道長はやはり震える指を弟弟子に突きつけた。
「黙れッ! 貴様が禁じられた『玄冥氷掌』の秘伝書を持ち去ったのが原因だろう! そうでなければ師父は貴様に衣鉢を継がせるおつもりだったのだ!」
「……フン、今更玄武派の掌門などに収まるワシではないわ。まずは玄武派を足掛かりに青龍・朱雀・白虎の三派を併呑し、その後には四方から皇居に攻め入る……ワシが座るに相応しいのは皇帝の玉座だけよ……‼︎」
玄舟の歪んだ野望を聞いた理玄道長は信じられないといった表情を浮かべる。
「き、貴様……正気か……ッ⁉︎」
「もちろん正気だとも。……さて、師兄の声も聞き飽きた。そろそろ物言わぬ氷像となっていただこうか……!」
「ま、待て————」
玄舟の魔性の手で触れられた理玄道長は、口と眼を開いた形相のままで凍りついた。
「…………」
兄弟子を氷漬けにした玄舟が何事か思案していた時、背後から少女の声が響いてきた。
「————なんてことを……ッ! その人はあなたの兄弟子なんでしょう……⁉︎」
非難の声を上げたのは、両親の氷像に寄り添うように立つ凰蘭であった。
「……閉じられていた啞穴(声を封じる経穴)が開いたか。煩い小娘だ、もう一度黙らせてやる」
「黙らせたいなら、私も凍らせればいいでしょう! やってみなさいよ‼︎」
怖いもの知らずの凰蘭が啖呵を切るが、玄舟は冷笑を浮かべるばかりである。
「そうはいかん。お前にはまだ、やってもらわねばならんことがある」
「……どういうこと……⁉︎」
「今はまだだが、完全に力を取り戻した暁には、お前の眼の前で父親と母親を粉々に砕いてくれる……‼︎」
「な…………ッ」
あまりに残酷な企みに凰蘭は言葉を失った。
「お前の父親は一時とはいえ、このワシに恐怖を与えた。その代償として、娘であるお前に最高の絶望を与えて殺してやる……‼︎」
「……狂ってる……、あなたは狂っているわ……‼︎」
「ハハハ……ッ。文句があるなら、九泉でお前の父親に言うが良いわ」
「————先に九泉に行くのは貴様だ、崔玄舟‼︎」
二人は同時に声のした方へ顔を向けた。
その視線の先には楼閣の欄干に立ち、玄舟を見据える龍珠の姿があった。




