第二十三章『隻腕の大男(一)』
香が燃え尽きるほどの刻が過ぎた頃、龍珠はようやく起き上がった。
わずかに痺れと倦怠感が身体に残るものの、絶望的であった先ほどまでの寒気と比べれば天国のような心地である。
「…………」
龍珠は無言で上着を脱いで、粉々に砕けた氷塊に手を伸ばした。
「…………ッ」
それをどうしても直視することが出来ず、龍珠は顔を背けて氷塊を自らの上着に包んでいく。
「…………」
大粒の涙を流しながら包み終えると、龍珠はふらりと立ち上がった。
「……行こう、姉さん……」
力ない足取りで龍珠は大広間を後にした。
————龍珠は凛明の使っていた部屋へ辿り着いた。
卓と椅子と寝台が置いてあるだけの殺風景なものだった自分の部屋とは違って、凛明のそれは鏡台などの様々な家具が趣向を凝らした配置で取り揃えられていた。
さらに壁や天井には美しい文様が描かれており、寝台もただ単に氷をくり抜いただけで無く、縁や天蓋に見事な装飾が刻まれていた。女性らしく手先が器用だった凛明は、無色透明の世界である氷の牢獄にこうして彩りを加えていたのである。
「…………」
龍珠は氷の鏡台に置いてある小箱を何気なく開けた。
その中には、同じく氷から削り出された首輪や指輪などの装飾品や櫛などが綺麗に収納されていた。それを見た龍珠は思わず独りごちる。
「……姉さん、こんな物まで造れるなんて凄いよ……!」
『————コラ! 勝手に女性の部屋に入るなんて駄目よ!』
聞き覚えのある声に驚いて龍珠は振り返った。
————しかし、部屋の入り口には誰もいなかった。
「…………」
再び流れ落ちる涙を拭った龍珠は、真氣を込めた手で氷の床に穴を掘り始めた。
出来上がった墓穴に上着ごと氷塊を収めると、凛明の装飾品と一緒に自分の龍面を上に置いた。
「ごめん、姉さん……。いま贈れる物は、こんな物だけなんだ」
名残惜しそうに墓穴を塞いだ龍珠は、今度は壁の氷を削り出し墓石を立てた。
「…………」
龍珠は少し悩んだ後、墓石に『最愛の義姉、甘氏、ここに眠る』と刻んだ。
深く念を込めるように墓に叩頭した龍珠は、ゆっくりと顔を上げた。
「……もう行くよ、姉さん。あなたにもらった十日は無駄にはしない……!」
立ち上がった龍珠は部屋の入り口を破壊し、永遠に誰も入って来られないようにすると、その場を後にした。
————氷漬けにされた正剛を残して行くわけにいかず、龍珠は大広間へと戻って来た。
「————!」
その視線の先には、正剛の氷塊に手を触れる男の後ろ姿があった。
その男は、並の男よりも頭ひとつ大きい正剛をさらに超える巨漢だが、右袖が肩口から揺らめいていた。どうやら隻腕のようである。
「柳兄に触れるな!」
凛明と正剛を失い感情が昂っている龍珠は、誰何の声も掛けずに大男に襲い掛かった。
しかし、大男は龍珠の遠慮の無い攻撃を振り返ることもなく見事に捌いていく。これには、据わっていた龍珠の眼が大きく見開かれた。
(————なんだ、この男は……⁉︎ 両腕の俺の攻撃を見もせずに受け流すなんて……! それも、『空洞になった右袖で』……‼︎)
大男の右袖は意思を持った生き物のように自由自在に動き防御に回っていたが、突如その動きが変わり反撃に打って出た。
圧倒的な巨躯である男の袖は恐ろしく長く、槍のように凄まじい突きを繰り出したかと思えば、突然鞭のようにしなり出す。槍法と鞭法が入り乱れる男の反撃に、今度は龍珠が防御にてんてこ舞いになった。
(袖に雄渾な真氣が込められている……! この男は只者じゃない……! でも、だからと言って背を向けた片腕の男に負けるわけには行かない!)
負けん気が湧いて来た龍珠は全身に氣を巡らし、大男の攻撃に集中した。次第にその双眸が金色に変わってゆき、最初は受けてしまっていた大男の攻撃を徐々に外せるようになっていった。
この様子に大男は少し驚いたようで、首をわずかに後ろに動かすと、右袖の動きが苛烈さを増した。先ほどまでの攻撃でも龍珠にとっては恐ろしいものであったが、どうやら手心を加えていたらしい。
だが、龍珠は見切ったように大男の攻撃を綺麗に外すと同時に、渾身の掌打を繰り出した。
(————もらった!)
直撃を確信した龍珠だったが、男は大きな身体を信じられぬほど素早く捻り、こちらも綺麗に外してしまった。
これには呆気に取られた龍珠だが、ここまで来ると、もう男に対する敵意は消え失せる代わりに敬意のような気持ちが芽生えていた。そして、どうしても男を振り向かせたくもなった。
「先ほどの非礼はお詫びします。しかし、その氷に閉じ込められた人は俺の大切な身内なんです。徒らに触れるのは止してもらえないでしょうか?」
「…………」
龍珠は包拳して懇願したが、男は背を向けたまま答えない。
「……ご先輩、ではこうしませんか。俺が貴方に一撃でも加えられたら、手を離すと約束————」
「————せっかちな兄ちゃんだなあ。ちょいとオジサマに集中させてくれねえかい」
この時、男が初めて口を開いた。
「……どういう————」
男の言葉の意味が分からず、龍珠が訊き返した時、正剛を取り囲む氷から水蒸気が上がり始めた。
「なっ————ッ‼︎」
龍珠が驚愕の声を上げると、水蒸気は急激に勢いを増して、たちまち氷は霧散してしまった。
「————柳兄!」
倒れ込んだ正剛に駆け寄った龍珠は、抱きかかえて脈を取った。正剛の眼は固く閉じられ、脈も弱々しいものであったが、その身体にはわずかに体温が残っていた。
「……良かった……!」
ホッとして歓喜の表情を浮かべた龍珠は、瞬時に男に向かって叩頭した。
「————ご先輩! 柳兄を救ってくださっているとは気付かず、誠に申し訳ございませんでした!」
「気にすんねい。久しぶりに面白え手合わせだったぜ、兄ちゃん。もういいから顔ぁ上げな」
「はい」
龍珠が顔を上げると、男は少し驚いた表情を浮かべた。




