第二十一章『氷鏡廊(二)』
逃げ道を塞ぐように戸口に立つ男————崔玄舟は腕を組んで二人の女を視界に捉えていた。
「いつまで突っ立っている、玄豹……」
「————ッ」
凍りつくような声で玄舟が言うと、凛明は突如背中に重石がのし掛かったように、氷の床にひれ伏した。
「…………!」
凛明は耐え難い重圧を感じながらも、上目遣いに師父を見遣った。
十数日ぶりに再会した玄舟の顔からは深く刻まれていたシワが取れ、その髪にまばらに混じっていた白いものも消え失せていた。
(……この短期間の内に二十は若返っているようだわ……! ということは————)
「玄豹、ワシは先ほど何と言った……?」
「……は、そ……それは…………」
凛明が言い淀んでいると、玄舟は拓飛と凰華の氷像にしがみ付いている凰蘭へと眼を向けた。
「……玄豹、この小娘は何だ……?」
「…………この娘は————」
「————私は凌凰蘭! あなたに氷漬けにされた凌拓飛と石夫人の娘よ!」
凰蘭の名乗りを聞いた玄舟はピクリと眉根を寄せた。
「……こやつらの娘だと……⁉︎」
「————!」
玄舟が忌々しげに口を開くと場を包む冷気がより一層激しさを増し、凛明は更なる重圧をその身に受けた。
「そうよ! 父さまと母さまを元に戻してもらうわ!」
しかし、怖いもの知らずの凰蘭には玄舟の重圧は通じないようで、指を突きつけ声を上げた。これには激昂するかと思われた玄舟だったが、予想外の反応を見せる。
「このワシを前にして怯まんとはな……。流石は虎の娘といったところか。いや、結構結構」
玄舟は愉快そうに手を叩きながら笑みを浮かべた。依然としてひれ伏している凛明にとっては、激昂することよりも恐ろしい玄舟の反応である。
ひとしきり笑った玄舟は笑みを収めて、再び凰蘭へと顔を向けた。
「————それで……? 『断る』と言ったら、どうすると言うのだ?」
「決まっているわ! あなたを打ち負かせて言うことを聞かせてみせる!」
「ほう……、力ずくという訳か。……玄豹、お前はどうする……?」
玄舟と凰蘭の視線が同時に凛明に向けられる。
「凛明さん、立って! 二人で力を合わせましょう!」
「…………」
凰蘭は凛明に声を掛けたが、凛明は根が生えたように尚もひれ伏したまま答えない。
「凛明さん、いいの⁉︎ 龍————」
動かない凛明に業を煮やした凰蘭はさらに呼び掛けたが、『龍珠』という言葉が発せられる寸前、その身体が糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
倒れた凰蘭は何故か身体を動かすことも声を発することも出来ない。唯一言うことを聞く眼球を上へと向けると、氷のような表情で己を見下ろす凛明の姿が映った。
(……凛明さん、どうして……⁉︎)
凰蘭は必死に眼で訴えていたが凛明は何も答えず、再び玄舟の方へひざまずいた。
「————師父。お力を取り戻されたご様子、祝着にございます」
「……うむ。まだ完全にとは行かぬがな」
玄舟は軽やかな足取りで凛明の眼前へと歩み寄った。
(……この『芯』が通った足取り……、力が戻って来ているのは間違いなさそうね……!)
凛明は平伏した陰で唇を噛んだ。玄舟は弟子の内心を知ってか知らずか、そのまま通り過ぎ、倒れている凰蘭の顎を持ち上げた。
「玄豹、この小娘は本当に凌拓飛の娘か……?」
「はい、間違いありません。青龍派の元に身を寄せていたそうで、裏は取れております」
「……確かにあの男に面差しが似ているわ……! それにしても青龍派か……。では、黄龍悟の首は獲れたのだな……⁉︎」
青龍派の掌門の名が発せられると、再び玄舟から受ける重圧が増した。
「い……いえ、黄龍悟は……げ、玄龍の手によって氷漬けになり、首を獲ることは叶いませんでした……」
「————本当かッ⁉︎」
この言葉に玄舟は興奮した面持ちで声を上げた。
「は、はい……」
「本当なのだなッ⁉︎」
「————はい! 間違いありません!」
直にその様を目撃した訳ではないが、玄舟のあまりの迫力に凛明は思わず言い切った。
「……そうか、あの小僧が……! あの時、生かしておいた甲斐があったという訳だ……‼︎」
玄舟の声は愉悦で震えていた。玄舟の機嫌が上向いたことを敏感に察知した凛明は顔を上げて懇願する。
「————師父。玄龍は黄龍悟を氷漬けにはしましたが、その際に受けた傷で戻ることが出来ません。そこで私が報告に上がると共に、凌拓飛の娘を騙して引き連れて来たのです」
「……何が言いたい……?」
「はっ! この功に免じて『寒氷真氣』を散らす呼吸法を授けていただきたく存じます!」
「…………」
凛明の願いを聞いた玄舟は考え込む仕草を見せた。二人のやりとりを聞いていた凰蘭は、突然の凛明の裏切りに合点がいった。
(凛明さん……、あなたは龍珠のために……!)
その予想に過たず、凛明が凰蘭と二人だけで抜け出したのは全て龍珠のためである。
玄狼の考えていた通り、いくら力を失っていても玄舟が素直に脅しに応じるとは思えなかった凛明は凰蘭を餌にすることを思いついた。片想いという同じ境遇から凰蘭と心を通わせた凛明だったが、愛する男とは天秤に掛けられるものではない。さらに玄舟は失われた力を取り戻しつつあり、凛明に選択の余地は無かったのである。
しかし、裏切られた格好の凰蘭の胸中には不思議と怒りの感情は沸き起こらなかった。
(……私でも、そうしたかも知れない…………)
『寒氷真氣を散らす呼吸法』とは初耳だが、恐らく龍珠の命に関わることだとは察せられる。そう思うと凰蘭は、凛明を責める気持ちにはとてもなれなかった。
長い沈黙の中、玄舟は不意に顔を入り口の方へ向けた。
「……次は『不速之客』(招かれざる客)で間違いないようだな……!」
玄舟はどこか嬉しそうに口の端を持ち上げた。
———— 第二十二章に続く ————




