第十九章『結託(三)』
普段と変わらぬ表情で見下ろす玄狼に対し、龍珠は端正な顔を歪めて立ち尽くしていた。
「……何をグズグズしている? 早く『氷鏡廊』へ行きたいんじゃないのか?」
「…………参ります」
龍珠は覚悟を決めたように包拳をして、かつての兄弟子に無造作に歩み寄った。
まるで散歩でもするようにゆっくりと近づいた龍珠だったが、双方の拳が届く間合いに入った瞬間その姿が霧のように揺らめき、玄狼の視界から掻き消えた。
この凄まじい緩急により龍珠は一瞬にして玄狼の左側面を占めた。玄狼は龍珠の動きに全く反応しておらず、顔を向けることはおろか視線を動かすことすら出来ていなかった。
(————師兄、この一打で終わらせます……!)
確信と共に龍珠は拳を突き出した。
玄狼の脇腹に命中するかと思われた拳は服の端に触れた所で留まり、一拍遅れて波のような嫌悪感が龍珠の胸をざわつかせた。
(…………?)
不思議に思い視線を落としてみれば、己の胸に玄狼の左腕が伸びている。嫌悪感の正体が玄狼の攻撃に因るものと理解した刹那、龍珠の身体を強烈な痛みが支配する。
「————カッ……!」
龍珠は慌てて間合いを外し、込み上げてきた胃液を吐き出した。
玄狼は恐ろしく長い腕を下ろしながら静かに口を開く。
「……惜しかったな。良い攻撃だったが、いかんせんお前はまだ身体が出来上がっていない」
「……クッ」
打たれた胸を押さえる龍珠に玄狼は続ける。
「無敵と思われる『霜甲練氣功』だが、攻撃の最中はその限りではない」
「…………」
「どうした……? もう終わりか?」
「————まさかッ!」
龍珠は口元を拭って再び玄狼に打ち掛かった。
先ほどの攻撃は兄弟子で師父とも言える玄狼に対して三分の遠慮があった龍珠だったが、今度は己の前に立ちはだかる敵と言い聞かせて本気で拳を振るう。
————しかし、その拳や蹴りは尽く空を切ってしまう。
「……お前はいずれ俺よりも強くなるだろうが————」
龍珠の渾身の連撃を躱しながら玄狼が悠々とつぶやく。
「現時点では、まだ俺の方に分がある。経験でも体格でもな……」
「…………!」
歯を食いしばった龍珠は手を休めることもなく攻撃を繰り出していたが、玄狼はやはりその軌道を予め理解しているかのように最小限の動きで躱してしまう。
(どうして————)
「————『どうして俺の動きが読まれているんだ』か……?」
「————!」
心の声を読まれた龍珠はトンボを切って玄狼から距離を取った。
息を弾ませ大粒の汗を額に浮かべる龍珠とは対照的に、玄狼は呼吸を乱さず冷や汗ひとつかいていない。
「当然だろう。お前に技を教えたのはこの俺だ。お前のクセや思考は手に取るように分かる」
「…………!」
眉根を寄せる龍珠に対し、玄狼は冷めた表情で顎へ手を当てた。
「……しかし、お前————腕が落ちたな」
「なっ…………」
突然の指摘に龍珠は唖然とする。
「玄龍だった頃のお前は時に俺が寒気を覚えるほどだったというのに、現在はどうだ? つまらん情が心に溢れ技に迷いが生じ、思考を俺に読まれる始末だ。そんなザマで俺に勝てると思っているのか?」
「…………‼︎」
「よしんば俺を倒せたとしても、現在のお前では崔玄舟を倒すことなど夢のまた夢だ。いくら奴が力を失っていると言えどな……!」
「————うるさいッ!」
咆哮を上げて龍珠は飛び掛かった。
「…………馬鹿め」
残念そうに吐き捨てた玄狼は、龍珠の突きに合わせて槍のような右腕を伸ばした。先ほどの交差法のように玄狼の拳が先に到達するかと思われたが、龍珠は既のところで首を捻り、玄狼の拳をいなすと同時に手刀を繰り出した。
「————!」
この打ち合いに玄狼が後退し間合いを空けた。うつむいていた玄狼が顔を上げると、その右頬から一筋の赤い滴がしたたり落ちる。
「————流石だ。一度くらった攻撃は二度もらわない。俺がお前に恐怖を覚えるところはそこなんだ……!」
眼を見開き鮮血を舌舐めずりする玄狼はどこか嬉しそうですらあった。




