第十八章『錯綜(一)』
易者の老人と別れた龍珠と凛明は当初の予定通り馬を買い求めていた。
しかし、首尾よく馬を手に入れたというのに凛明は仏頂面である。
「どうしたんだい、姉さん?」
「なんでもないわ」
「なんでもないって顔じゃないよ。言ってごらんよ」
「……あなたが悪いのよ」
「え?」
全く心当たりの無い龍珠が首をひねると、恥ずかしそうな顔で凛明が詰め寄った。
「みんな、あなたの顔を見たら振り返るじゃない! さっきの馬屋の店員もあなたの顔を見てボーッとしてた!」
「…………」
凛明の指摘に龍珠が辺りを見回すと、道ゆく女たちがチラチラとこちらを窺い、頬を染めながら何やらヒソヒソ話をしている。
「……そういうことか。でも困ったな。もう龍面は持ってないし、かと言って別の面を着けても玄武派の奴らの注意を引いてしまう……そうだ!」
何かを思いついた龍珠はしゃがみ込んで泥を手に取ると、自らの顔と買ったばかりの服に塗りたくり始めた。
「————龍珠⁉︎」
「……こんな感じでどうかな」
立ち上がった龍珠の姿は顔から爪先に至るまで盛大に薄汚れており、パッと見ただけでは、この農夫のような風体の少年が瀟洒な二枚目であるとは気付かれないだろう。
「……ごめんなさい、龍珠……!」
自分のつまらない悋気で、美貌の弟弟子を汚してしまった凛明は後悔と恥ずかしさで涙を流した。
「謝らなくていいよ、姉さん。俺も自分の顔をチラチラ見られるのは良い気分じゃなかったんだ。これで大手を振って進めるね」
「…………」
凛明は感謝するようにうなずくと、しゃがみ込んだ。
「————姉さん⁉︎」
凛明は先ほどの龍珠に倣って、せっかく化粧を施した顔と服に泥を擦り始める。
「姉さんまでそんなことしなくていいよ!」
「……あなただけが汚れていては逆に目立ってしまうわ。それに化粧だけじゃ、やっぱり不安だもの」
龍珠が血相を変えて止めるように言うが、凛明は手を止めない。
「俺は男だ。でも、姉さんは————」
「いいの。あなたが私のためにしてくれるなら、私もこんなことくらい何でもないわ」
「……姉さん……!」
自分は顔や服が多少汚れたところでどうと言うことはないが、凛明は女である。服や特に顔が汚れるのは、身を切られるような心地だろうと龍珠は推察した。
立ち上がった凛明は強いて笑顔を見せた。
「————はい、出来たわ。これなら私たち、まるで百姓の————」
何か言い掛けた凛明は慌てて口を覆った。しかし、龍珠は気付く様子もなく同意する。
「そうだね。これなら他人には俺たちが百姓の姉弟に見えるだろうね」
「姉弟…………」
「姉さん……?」
「……いえ、なんでもないわ。行きましょう」
凛明は寂しそうに言うと、手綱を握って先に行ってしまった。龍珠は首をかしげた後、その後を追った。
————『氷鏡廊』を目指す二人はそれから特に誰とも会うことなく馬を飛ばし、陽が落ちる頃、ようやく街道沿いの食堂で手綱を緩めた。
「姉さん、今日はここまでにしよう。馬にも食べ物と水をあげなきゃ」
「ええ、分かったわ」
この店は小さいながらも結構繁盛しているようで、店先には数頭の馬が杭に繋がれていた。
「御免下さい」
龍珠が暖簾をくぐると、その汚れた姿を眼にした店主があからさまに嫌な顔を見せた。
「……今夜はお客が多くてこれ以上は無理だ。悪いが、他を当たってくれ」
空いている席はあったものの、店主は面倒臭そうに手を振った。
「代金は先に払います。饅頭か何かと水と馬の餌をもらえれば店の外で食べます。迷惑は掛けません」
「分かった、分かった。ちょっと待ってろ」
店主は龍珠からカネを引ったくると、厨房へと引っ込んで行った。
食べ物を待つ間、何気なく店内を見回すと見知った集団の姿が眼に入った。
(————玄武派……!)
店の奥では、八人の玄武派の門人が二卓に分かれて食事を取っていた。その内の一人が入り口に立つ龍珠に眼を向けたが、気付く素振りも見せず再び料理へと箸を伸ばした。
「ホラ、とっとと出て行ってくんな」
その時、店主が食べ物と水を乱暴に押し付けてきた。龍珠は素直に受け取って外で待つ凛明の元へ戻った。
「ありがとう、龍珠」
「姉さん、中に玄武派がいる」
「えっ?」
龍珠は口元に指を当てると、残る手で凛明を誘導する。その意図を察した凛明は無言でうなずき、龍珠の後に続いた。
二人は気配を消して店の裏側へ回った。そこは壁を隔てて玄武派の門人たちの真裏である。窓から話し声が聞こえてきた。
「————では、馬兄たちも消息を絶ったというのか……?」
「ああ、玄豹という女を見つけたと連絡があったきりだ。一緒に行動していた田弟たちも見つからん」
「馬兄たちは玄豹にやられたと見るべきだろうな」
「残る玄狼と玄龍とやらはどうだ?」
「蒼州付近の食堂で陳弟たちを倒した後は行方が知れん」
窓の外の龍珠と凛明は顔を見合わせて笑みを漏らした。先ほどの薄汚れた小僧がまさか追いかけている玄龍本人だとは夢にも思っていないようだ。
「————奴らは蒼州に逃げているのだろうか?」
「いや、玄豹はこの近くにいたんだ、少なくとも玄龍も玄州に潜んでいるに違いない」
この言葉に凛明は眉根を寄せた。玄貂は玄武派に自分たちのことを密告した時、何と言ったのだろうか。
「玄冥派の門人は崔玄舟と三人の弟子だけなのだろう? それにしてはやられる者が多過ぎないか?」
「玄冥派の情報を寄越した小男は、弟子は三人だけだと言っていたそうだが……」
「————もしや、その小男も玄冥派なのでは……⁉︎」
「……そうかも知れん」
「人数の問題ではないだろう。それだけ『あの技』が強力だと言うことだ……!」
「……『玄冥氷掌』か…………」
『……………………』
一人の男がつぶやくと、それきり玄武派の門人たちは押し黙ってしまった。彼らも田と湯と同じく玄冥氷掌を手中に収めたいと考えているのかも知れない。
これ以上有益な情報は得られないと悟った龍珠は、再び手真似で凛明にこの場を離れるよう合図した。
————二人は馬を連れて食堂を離れると、街道から少し逸れた場所で腰を下ろした。
「今日はここで休もうか————」
龍珠が口を開いた時、上空から甲高い嘶きが聞こえてきた————。




