第十七章『北嚮(一)』
林から街道へと戻った龍珠と玄豹は闇夜の中を北へと進んでいた。
「姉さん、大丈夫かい?」
「ええ…………」
玄豹は気丈に返事をしたものの、軽功の速度をかなり抑えているにも関わらず、額に汗を浮かべ息を弾ませている。
「この先に小さな鎮があったはずだ。そこで今夜は宿を取ろう」
「平気よ。今は一刻でも早く『氷鏡廊』まで行きましょう」
「駄目だ。さっきの闘いで受けた傷の治療もしないといけないし、食事と睡眠もしっかり取らないと保たないよ」
強めの口調で龍珠が言う。
「でも……」
「姉さんのお陰で時間が延びたんだ。焦らなくても大丈夫さ」
「分かったわ。あなたの言う通りにします」
玄豹がうなずいて言うと、龍珠はニコリと笑みを見せた。
「ありがとう。他にもちょっと手に入れたいものがあるんだ」
————ほどなくして二人は鎮に到着した。
「姉弟で一部屋お願いします」
龍珠が宿の受付で言うと、番頭の男は二人の顔をジロリと見比べた。
歳のほどは姉と弟でおかしくはない。しかし少年の方は女と見紛うばかりの美形で、女も整った顔立ちではあるものの全く似ていない上に、両頬の痘痕が眼を引いた。
「宿代は先に払いますよ」
龍珠が二人分の代金を卓に置くと、番頭はそれ以上の詮索は止め部屋の鍵を寄越した。
龍珠は玄豹を支えて部屋に入り、寝台に腰掛けさせた。
「姉さん、俺は食料とか必要なものを手に入れて来るから、その間内功で胸に受けた傷の治療をしていて」
「……戻って来るわよね……?」
玄豹が確認するように眼を向けると、龍珠は懐からボロボロの書物を取り出した。
「コレを置いて行くよ。それじゃ————」
龍珠は書物を卓に置くと、音も無く窓から出て行った。
この本は龍珠が玄龍だった頃から大切にしていた物である。まさかコレを放り出して姿を消すことは無いと安心した玄豹は気を落ち着けて座禅を組んだ。
————半刻後、内功の循環を終えた玄豹が一息ついたと同時に、聞き慣れた声が室内から聞こえてきた。
「————お疲れ様」
声のした方へ顔を向けると、穏やかな顔つきで龍珠が椅子に腰掛けていた。玄豹は喜びつつも驚いた表情で口を開く。
「いつの間に戻って来てたの? 全く気配を感じなかったわ」
「ついさっきさ。姉さんの邪魔をしたらいけないと思って、終わるのを待ってたんだ」
「……あなたの身のこなしを見ていて思ったんだけど、少し離れていた間にあなた軽功の腕が上がった?」
「ああ、実は朱————」
龍珠はハッとして『朱雀派』という言葉を飲み込んだ。朱雀派の門人に教わったと言えば、玄豹は子雀に悋気を起こすかも知れないと考えたのだ。
「————青龍派に戻った時に手ほどきを受けたんだ。それより、お腹が空かない? 食べ物を買って来たよ」
話題を変えるように龍珠は食料を卓に広げた。
————食事を取り終えた玄豹は、龍珠が大きな包みを持って帰っていることに気が付いた。
「龍珠、その包みは何?」
「ああ、これは————」
言いながら包みを開くと、そこには真新しい男物と女物の衣服があった。
「これは……?」
「ここ玄州は玄武派のお膝元だ。俺たちの名前や特徴は玄武派に伝わっているはずだ。服装くらいは変えとこうと思ってね。後は————」
龍珠は包みの中から化粧道具を取り出した。
「俺は龍面を外しているから大丈夫だと思うけど、……姉さんは嫌かも知れないけど、その……そばかすは隠した方が良いと思うんだ」
「…………」
両頬の痘痕に劣等感を感じている玄豹ではあったが、気位の高い彼女は化粧で痘痕を隠すことは敗北と捉えていたのである。
「…………分かったわ。確かに私が玄武派の奴らに見つかったのも、この頬が原因だったみたいだし……」
「ごめん、姉さん……。後は名前だね。俺はもう玄龍じゃないけど、姉さんはどうしようか……?」
「————凛明」
「え?」
龍珠が訊き返すと、玄豹は少し恥ずかしそうに答える。
「……甘凛明が私の本名よ。これからは玄豹じゃなくて、凛明と呼んで頂戴」
「凛明か……、綺麗な名前だね。うん、分かったよ、凛明姉さん」
龍珠に本名で呼ばれた玄豹————凛明は嬉しそうに頬を赤らめた。
「じゃあ、今日はもう休もうか。俺は床で寝るから、姉さんは寝台を使って良いよ」
「うん……ありがとう」
龍珠は灯りを消すと、壁を背にして眼を閉じた。
「————龍珠、まだ起きてる……?」
「ああ、どうしたの?」
「……青龍派では何があったの……?」
「…………」
長い沈黙の後、龍珠は重い口を開いた。
「父さまを『玄冥氷掌』で氷漬けにしてしまった…………」
「————そう、なのね……」
「無我夢中で腕を振るっていて、気付いたら父さまが氷漬けに……!」
「……お父さまが憎かったの……?」
「……分からない、そうかも知れない————いや……」
龍珠は震える声で言葉を続けた。
「俺は父さまに愛されたかったんだと思う。叱ってもらいたかったし、武術が嫌いだって言っていたけど、本心じゃ稽古だってつけてもらいたかった……」
「…………」
「でも、あんなことをするつもりは無かったんだ……。父さまは凄く強くて、俺なんかが敵う相手じゃなかったのに、どうして…………」
暗闇の中、凛明は寝台から降りて龍珠の前にしゃがみ込み、その手を優しく握りしめた。
「きっと、お父さまはあなたが腕を上げて戻って来てくれたことが嬉しかったのよ。崔玄舟を倒せば、きっとお父さまも喜んで下さるわ……」
「凛明姉さん……」
龍珠は凛明のしなやかな手を強く握り返した。




