第十六章『和解(一)』
————月餅湖で子雀と別れた龍珠は玄州へと進路を取っていた。
その疾走りはかつて無いほど軽やかなもので、風に乗るように駆けていく様は雲間から現れた飛龍の姿を彷彿とさせた。
(————子雀さんに教わった『軽氣功』は凄い……! 以前よりも身体への負担は少ないのに、疾走る速度は格段に上がってる……! これなら『時間切れ』になる前に辿り着けるかも知れない)
目的地は、玄州の最北端に位置する玄冥派の本拠『氷鏡廊』である。
師父と信じ込まされていた仇敵・崔玄舟の元へ舞い戻り、拓飛と凰華の行方を問い質すのである。
(俺の命に代えても、拓飛おじさんと凰華おばさんを助け出すんだ……!)
固い決意を内に秘め、次の跳躍に移ろうとした時、街道から外れた林の中から数人が言い争う声が耳に飛び込んで来た。
(なんだ……? こんな時間に……)
時刻は夜であり、場所を考えても厄介ごとに間違いはないだろうと思われる。いつ発作が起きてもおかしくない身とあって、龍珠は構わず先を進もうと思ったが、すぐに考えを改め脚を止めた。
(……もし困っている人がいたら、きっとおじさんとおばさんは放って置かないはずだ。確認して、ただの喧嘩とかだったら先に進めばいい)
そう自らに言い聞かせて龍珠は林の中へと入って行った。
気配を消して声がする方へと徐々に近づいて行くと、次第に喧騒の声が鮮明に聞こえて来る。どうやら数人の男と一人の女が手を交えているようだった。
(声の感じからして男は三人か。何か事情があるのかも知れないけど、女の人を寄ってたかって攻めるなんて卑怯じゃないか……!)
この時点で女に加勢する気になっていた龍珠だったが、女が叫び声を上げた瞬間、その眼が見開かれた。
(今の声はまさか————!)
龍珠は音も無く跳躍して大木の枝に着地した。朱雀派の軽氣功の基礎はものにしたようで、枝には今にも落ちそうな枯れかけの葉が数枚残っていたが、着地の瞬間に多少揺れたものの落ちることはなかった。
しかし、龍珠は軽功の上達に得意げになるでもなく、視線を眼下へ向けた。声から予想していた通り、三人の男と一人の女が闘っている様子がその瞳に映る。
(————やっぱり、姉さんだ!)
————女は玄冥派の姉弟子・玄豹であった。
玄豹は負傷しているのか、呼吸を荒くして左肩を押さえている。龍珠は助けに入ろうと枝を蹴り掛けたが、すぐに思い留まった。
(……姉さん————いや、玄豹も五年前におじさんたちを襲った玄冥派の一人だ。そればかりか記憶を失っていたことを良いことに、五年間も俺を騙して来たんだ。助ける義理なんて無い……!)
龍珠はブンブンと首を振って、男たちに視線を移した。
男たちは三人とも揃いの黒い道服を身に付けている。それは以前、寂れた食堂で眼にした物と同じであった。
(玄武派か……。恐らく、バッタリ玄豹と遭遇して手を交えたってところだろう)
チラリと傍らに眼をやると、氷漬けにされた男が倒れているのが見えた。
(玄豹の『玄冥氷掌』にやられたな。ただ、玄豹は連続して振るえるほど練度が足りないから、残りの三人に囲まれ四苦八苦しているんだ)
龍珠の分析通り、激情家の一面も持つ玄豹は玄冥派の技の極意を四割ほどしか会得しておらず、集中が途切れると途端に破綻が顔を覗かせてしまうのである。
その間にも玄武派の男たちに矢継ぎ早に攻め立てられ、玄豹は徐々に劣勢に陥っていく。その様子を見ながら龍珠は歯を食いしばり、拳を握り締める。
(……何を考えているんだ、俺は……。玄豹もおじさんたちの仇の一人じゃないか……! もう行こう……)
静かにその場を後にしようとした龍珠だったが、突如脳裏にこの五年間の玄豹との思い出が蘇った。
玄貂の嫌がらせから、いつも庇ってくれていたこと————。
厳しい修行で受けた傷を治療し、傷んだ着物を繕ってくれたこと————。
質素ながらも温かい食事を作ってくれていたこと————。
そして、記憶を失っていた自分をいつも優しく励ましてくれたこと————。
(……確かに玄豹も俺のことを騙してきたけど、あの優しさが全て嘘だったっていうのか……?)
その時、玄豹の「あっ」という叫び声が龍珠の耳を打った。
急いで視線を戻すと玄豹が胸を押さえて、その口から一筋の鮮血が伝っているのが見えた。どうやら胸を痛打されたようで、すでに『霜甲練氣功』も使えない状態らしい。
「————ここまでだな。さあ、口が動く前に崔玄舟の居場所を吐け。話せば命だけは助けてやろう」
首領格と思われる男の言葉に玄豹が冷笑を浴びせる。
「……そんな甘い言葉を信じる訳ないでしょう。私はあんたたちの仲間を手に掛けているのよ……⁉︎」
「玄武派の戒律に『殺生を禁ずる』というものがある。命は取らんと約束しよう。だが……、その魔性の両腕は斬り落とさせてもらう。我が玄武派の禁功は封じねばならん……!」
「…………!」
男の氷のような眼で睨め付けられた玄豹の顔に一抹の怯えの色が見えた。
(……そうか、玄武派が玄舟を狙うのは玄冥氷掌が原因だったのか。きっと玄舟は禁じられた技を会得するために玄武派を抜けたんだ)
龍珠が考えていると、二人目の男が兄弟子をなだめに掛かった。
「待ってくれ、馬兄。両腕を落としては玄冥氷掌の細かな所作が分からなくなるじゃないか」
「何を言っている、田弟……⁉︎ 師父は崔玄舟の一味の両腕を落とせとおっしゃっていただろう!」
田と呼ばれた男は氷漬けになった同門の者を横目にして、口の端を持ち上げた。
「……馬兄、あんたもさっき見ただろう。玄冥氷掌の素晴らしさを……! あの技さえ会得できれば師父を超えられることはおろか、神州一の仙士になることだって夢じゃない……‼︎」
「————田、貴様! 正気か! 今の言葉は師父に報告する‼︎」
『…………』
田はもう一人の男と顔を見合わせた。
「……悪かった、馬兄。今のはほんの冗談さ。師父に報告するのは勘弁してくれ」
「いいや、妄言も戒律に反する! 師父に————」
言葉の途中で馬はバッタリと倒れ込んだ。その背中には匕首が深々と差し込まれていた。
「…………へへ、あんたが悪いんだぜ、馬兄。あんたの頭がもう少し柔らかけりゃ、死なずに済んだ」
兄弟子を刺した男の肩を田がポンと叩く。
「良くやった、湯弟。……さて、女。死にたくなけりゃ、玄冥氷掌の秘訣を教えな……!」
下卑た表情で田が言うと、玄豹はヨロヨロと立ち上がった。
「————誰が教えるもんですか! たとえ両腕を落とされても、この牙でお前たちの喉笛を噛み切ってやる!」
玄豹が牙を剥き出し、田と湯を威嚇する。二人は再び顔を見合わせた。
「……田兄、女は痛みで脅しても駄目だ。女を脅すのなら、こう言うのが良い。『その真っ白な肌に幾重にも傷を付けて、ふた目と見れない醜女にしてやる』とな……!」
湯が眼を細めながら言うと、玄豹の眼の色が変わった。ニヤリとした田が続けて口を開く。
「待て待て、それこそ無駄というものだ。この女の顔を見てみろ。陽に焼けている上に、元から酷い痘痕面で見れたものじゃない————」
言葉の途中で、玄豹が咆哮を上げて二人に襲い掛かった。
挑発に乗って冷静さを失った玄豹を捕えようと田と湯が身構えた時、その眼前に一人の少年が木の葉のように舞い降りた。
少年の姿を眼にした玄豹がピタリと動きを止め、田と湯も突然のことに声を失った。
「……何が玄武派だ……、何が戒律だ……! 獣どもめ、姉さんに代わって俺が相手をしてやる……‼︎」
振り返った龍珠は怒りに満ちた表情で構えを取った。




