第十五章『取引(二)』
柱の陰から現れた玄狼はいつもの黒装束ではなく、青龍派の青い道着を身に付けていた。
「貴様ッ、その道着はどうした! まさか————」
「騒ぐな、門番の男から借りただけだ。殺してはいない」
激昂する正剛には見向きもせず、玄狼は掌門の間の中央へ歩を進めた。その眼に青龍の氷像が映し出されると、興味深そうに口を開く。
「……この男が青龍派掌門・黄龍悟か……成程、確かに玄龍————黄龍珠に瓜二つだ。いや、奴が似ていると言った方がいいかな」
「あなたは確か、玄狼ね? いったい何をしに————いえ、どうしてこの場所が分かったの⁉︎」
凰蘭に問われた玄狼はその細い顎を正剛へしゃくって見せた。
「その男に道案内をしてもらった」
「なんですって?」
凰蘭が顔を向けると、正剛は申し訳なさそうな声で答える。
「……申し訳ありません、師娘(師父の妻)。蘭がこの男の仲間の手に落ちているという嘘を真に受けてしまい、他派の者を『敖光洞』へ招き入れてしまいました……‼︎」
「柳兄さま……」
意気消沈した様子の正剛を尻目に玄狼は李慶の前へ歩み寄ったが、その距離は近過ぎず、瞬時に逃走に移れる絶妙な間合いであった。
「あなたが青龍派掌門夫人・李夫人ですね……?」
「……正剛、この者は何者です?」
包拳礼を以って尋ねる玄狼には一瞥もくれず、慶は正剛へ問うた。
「この男は玄冥派という新興門派の門人で、玄狼と申す者です……」
ここまで話すと、正剛の声が怒りで震え出した。
「————この男と同門の女の手に掛かり、張師兄と林師姉は……命を落とされました……っ‼︎」
「…………!」
この言葉に、無表情だった慶の眉が僅かに持ち上がった。
「……玄冥派……? 何故そのような胡乱な輩と手を交えたのです?」
「……は。任務の後、急襲され止むを得ず……。理由は分かりませんが、どうやらこの者らは青龍牌が目当てだったようです」
「…………」
何やら考え込む慶に、再び玄狼が話し掛ける。
「そう、そして御子息を五年ほど預かっていた者です。李夫人」
「————!」
慶の眼が見開かれ、ここで初めてその視線が玄狼へと移った。
「……玄狼と言いましたね。何故、青龍牌を望むのです……⁉︎」
「ようやく私に御尊顔を向けてくださいましたな。理由など、どうでもいいでしょう。とりあえず牌を二百枚ほど用立てていただきましょうか?」
「…………見返りは……?」
慶が冷ややかに言うと、玄狼は僅かに口の端を持ち上げた。
「私ならば、御子息の立ち寄りそうな場所にいくつか心当たりがありますぞ。さらに凌大侠と石夫人の居場所を教えて差し上げてもいい」
「————父さまと母さまの居場所を知っているの⁉︎」
血相を変えて、凰蘭が割って入った。
「もちろん知っているさ。でなければ黄龍珠と五年も行動を共にしているものか」
「…………!」
「————さて、李夫人。返答はいかに……?」
問うまでもないとばかりに玄狼が口の端を歪め、皆の視線が一斉に慶に移る。
「…………甘く見られたものね……」
「何————⁉︎」
慶はその切れ長な瞳で玄狼を睨め付ける。
「……息子可愛さで、門人を手に掛けた輩と取引など出来るものですか! 恥を知りなさい……‼︎」
「————‼︎」
凜然と言い放つその姿は確固たる意志と誇りに満ち溢れ、掌門夫人に相応しいものであった。その言葉は玄狼へと向けられたものだったが、正剛は己が身を恥じた。
(————俺は張師兄と林師姉の仇を討つと誓いながら、手を下すどころか虚言に惑わされ、あまつさえ仇を我が青龍派の本拠まで引き入れてしまった。なんと情けない……!)
一方、玄狼は内心で舌打ちをした。
龍珠を引き合いに出せば八割がた釣れると目論んでいただけに、この失望は大きい。青龍派の本拠に単身で乗り込むという危険を犯したのは、正にこの取引を成功させるためだったのである。
「……そういうことでしたら、長居している訳にもいきませんな……!」
ジリジリと後ずさりながらつぶやく玄狼に正剛が指を突き付ける。
「逃げられると思うな! 貴様はここで俺が息の根を止めてやる!」
「フッ————」
この後に及んでまだ正々堂々と振る舞う正剛に冷笑を浴びせつつ、玄狼は戸口へと駆け出したが、数歩も進まぬうちにその脚がピタリと止まった。
「————こ、これは……⁉︎」
「……よく気付いたものね。褒めてあげましょう」
ほどなくして玄狼の喉元に一筋の赤い線が走り、鮮血がポトリと床に落ちた。
「正剛、凰蘭、一歩も動いてはいけません」
「師娘……?」
正剛と凰蘭は何が起こったか分からず顔を見合わせた。
「……夫人……、いつの間にこれだけの『糸』を……!」
「答える必要はありません」
首筋を押さえながら玄狼が問うが、慶は冷たく斬って捨てた。
「糸……? ————あっ!」
二人の会話を聞いていた凰蘭が驚きの声を上げた。
眼に真氣を集中させると、真氣で練り上げられた極細の糸が掌門の間全体に張り巡らされているのが視えたのである。まるで蜘蛛の巣のように————。
玄狼は糸を断ち切ろうと力を込めてみたが、恐ろしく硬い上に微妙な弾力も持ち合わせており、掴んだ指から出血するばかりであった。
「狼も蜘蛛の巣にかかると無力なものね……さて、迅雄と秀芳の仇を取らせてもらおうかしら」
「————待て! 身動きの出来ぬ者を————それも一世代下の者を、掌門夫人ともあろう方が手に掛けるおつもりか⁉︎ 他派の者に知られれば青龍派と貴女の名声に傷が付きますぞ‼︎」
玄狼が理を以って説得すると、慶は考え込む仕草を見せた。
「……それもそうね。でも、そんなこと誰が誰に喋るというの……?」
「なッ————‼︎」
慶がおもむろに手を振ると、無数の飛刀が意思を持ったように玄狼に襲い掛かった。しかし、玄狼は周囲を鋭利な氣糸で囲まれ動こうにも動けない。
「————ウオォォォォッ!」
狼の遠吠えのような叫び声と共に、玄狼は体中を蜂の巣にされた————。




