第十四章『赤雀(一)』
未だ朝靄が立ち込める中、正剛たちは『敖光洞』の裏門付近に到着した。
「……あそこが裏門の入り口だ」
苦々しい表情で指を差した先には、蔦などに覆われているが確かに洞窟が見えた。
「約束通り案内できるのはここまでだ。次は貴様らに約束を果たしてもらうぞ」
『…………』
鋭い眼光で睨みつける正剛に対し、玄狼と玄豹は無言で顔を見合わせた。
「……そうだな。いつか玄貂の奴を見つけた時には、あの小娘を解放するように計ってやろう」
「————何⁉︎ どういう意味だ!」
玄狼の思わぬ返答に正剛が詰め寄った時、洞窟の中から何者かの叫び声が聞こえて来た。
「————玄龍の声だわ!」
玄豹の言葉に過たず、程なくして洞窟の入り口から玄龍————龍珠が絶叫を上げながら飛び出した。
「玄龍‼︎」
玄豹も声を上げ手を伸ばしたが、龍珠はその手を振り払い軽功を駆使して飛ぶように泰山を下って行く。その姿はまるで空を翔ける龍のようで、見る見るうちに玄豹は離されていく。
「待って、玄龍‼︎」
しかし玄豹は諦めず追い掛け、弟弟子と共に樹海へと消えて行った。その後ろ姿を見ながら正剛がつぶやく。
「やっぱり、あの玄龍は……、————師父!」
不意に何かを察知した正剛は敖光洞の中へと駆け出した。一人残された玄狼は玄龍を追うでもなく、腕を組んで何事か思案しているようだった。
————正剛が掌門の間に駆けつけると、広間の中央に青龍の氷像が見えた。
「————師父‼︎」
稀代の剣客・黄龍悟は愛息の手により氷漬けにされ、その傍らには妻・李慶と姪・凌凰蘭が茫然とした顔で立ち尽くしていた。
「蘭‼︎ お前どうして————いや、師娘(師父の妻)! これはいったい何があったのですか⁉︎」
「……正剛。あの子が、龍珠が…………」
「————まさか、これは龍珠さまが⁉︎」
魔技『玄冥氷掌』の威力を思い出した正剛が胸を押さえて詰め寄ると、慶はゆっくりとうなずいた。
「どうして、龍珠さまが父君である師父を……⁉︎」
「柳兄さま、龍珠は記憶を失っていたの。でも龍悟おじさまと話している内に、多分頭の中で色んな感情が綯い交ぜになってしまって、それで…………」
最愛の息子と夫を一度に失い、衝撃を受けている慶の代わりに凰蘭が答えた。
「なんてことだ……! 師父……!」
正剛は膝を折って龍悟に手を触れた。しかし、その指先には固く冷たい感触が残るばかりで、いくら問いかけても答えは返って来なかった————。
————飲まず食わずでどのくらい走っただろうか。
龍珠は後を追って来る玄豹を振り切って尚、狂ったように走り続けていた。
(————俺はとんでもないことをしてしまった! 父さまを、父さまをこの手で……‼︎)
父のことに思考が及ぶと、急に耐え難い乾きと疲労感が襲い掛かり、ようやく龍珠の脚が止まった。
血走った眼で辺りを見回すと、樹々の向こうに命を繋ぐ湖が見え、ふらついた脚取りで龍珠は歩き出した。
無我夢中で水を飲み干し一心地つくと、今度は酷い空腹感が身体を苛んできた。ふと湖に眼を向けると、湖面に大きな月餅が浮かんでいるのが見えた。龍珠は必死に手を伸ばすが、一向に月餅を掴むことは出来ない。
「見事な月餅じゃろう? お前さん、運が良かったのう」
声のする方へ顔を向けてみれば湖のほとりに小さな船が停泊しており、その脇で老人が煙草を吹かしていた。
「……運が良い?」
「そうとも、今夜は満月で雲一つ無い快晴じゃ。まん丸お月さんが綺麗に映っておるじゃろう」
老人の言葉に顔を上げてみれば、濃紺の空に神秘的な光を放つ満月が登っていた。
「そうか……、いつの間にか夜になっていたのか……。お爺さん、ここは何処ですか?」
「何? お前さん、ここが『月餅湖』と知って来たのではないのか?」
「月餅湖? いえ、無我夢中で走り続けていたので辿り着いたのは偶然です」
龍珠の答えに老人は怪訝そうな表情を浮かべたが、少年の美しくも青白き顔立ちと憔悴し切った様子に憐憫の情が湧いた。
「ここは紅州じゃ。そして、この湖は神州で一番大きな湖で月餅湖と呼ばれておる」
「紅州……。俺は紅州まで走って来たのか……」
ブツブツと独りごちる龍珠に老人が話しかける。
「……お前さん、相当に疲れておるようじゃな。良ければワシの船で休んで行かんか? 今日は客もおらんし、特別に船賃は安くするぞい」
どうやら老人はこの湖で船渡しを生業としているらしい。老人の申し出にどう答えたものか一瞬考えた龍珠だったが、さりとて他に行く宛がある訳でも無し、身体は空腹感と疲労感に支配されている。
「……お世話になります。お爺さん」
「よしよし、乗るがええ。ワシの弁当でも分けてやろう」
龍珠から船賃を受け取った老人は笑みを浮かべて煙草の火を消した。
船に乗り込もうとしたその時、龍珠は自分が龍面を着けていないことに気が付いた。慌てて懐を探るが、あるのは拓飛に買ってもらったボロボロの書物だけである。
(……そうか。面は父さまの前で外して、それきり————)
記憶が戻ったいま思えば龍面で顔を隠していたのは女のようだと侮られるのが嫌だったこともあるが、心の奥底では、龍珠を知っている人間に玄龍の正体を知られたくなかったのかも知れない。
「どうした? 気分でも悪いのか?」
思いにふけていると、老人の心配そうな声が聞こえてきた。
龍珠は吹っ切れたように首を振って、老人の船に飛び乗った。




