第九章『相席食堂(二)』
ボロボロの暖簾を掻き分けて入って来たのは、これまたボロボロの衣服を纏った老人であった。
その衣装は易者が着るような物だったが余りにも薄汚れており、果たしてこの老人が占い師なのか物乞いなのかは、にわかには判断し難い。
玄狼たちは老人の様子をつぶさに観察したが、息づかいや足取り、眼球の動きなどから武術の心得の無い一般人と判断し、再び料理に箸を伸ばした。
その間にも老人はゆるゆると移動し、玄狼たちが陣取る卓の隣に席を取った。店のオヤジがまたも無愛想に問い掛ける。
「……ご注文は?」
「残念ながらすっからかんでしてなあ。この水だけで結構……」
相手が無一文だと分かると、オヤジはみなまで言わせず老人から茶碗を引ったくって厨房へ引っ込んでいってしまった。老人は残念そうに首を振ると、玄狼たちへと視線を向けた。
「……すみませんが、水を一杯————おや?」
水を恵んでもらおうとした老人の眼が、玄龍の顔の上でピタリと止まった。
「……おやおや、あなたの顔は…………」
「玄龍の顔がなんですって……?」
「止せ、玄豹」
老人が玄龍の顔に言及した途端、眼を据わらせた玄豹が立ち上がったが、すぐさま玄狼が制止した。
「いやいや、私はただこの公子のお顔に見覚えがあっただけでして……」
玄龍は龍面を着け直し、老人に問い掛ける。
「俺の顔に見覚えが? それはどこで?」
「はて、どこででしたかなあ……」
老人は考えこむ素振りを見せながらも、チラチラと卓に並んだ料理に視線を送っている。
「玄龍、このジイさんは物乞いだ。構うことはない」
「師兄、あげるのは俺の分だけですから」
そう言って玄龍は自らの皿を老人の卓に投げて寄越した。絶妙な力加減で放られた皿は落ちることも割れることもなく、老人の元に正確に届けられた。
老人は満面に笑みを浮かべると箸を使うのももどかしいのか、両手で肉を鷲掴みにして豪快にかぶりついた。どうやら上下の歯はまだ健在であるらしい。
瞬く間に料理を平らげた老人に向けて玄龍が茶碗を放った。またしても溢れることなく届けられた水を飲んで一息ついた様子の老人に、再び玄龍が問い掛ける。
「それでお爺さん、俺の顔に見覚えがあるとはどこでだったか思い出せましたか?」
老人は脂で汚れた口元をもっと汚れた袖で拭いながら、ブツブツとつぶやいている。
「……似ている……、いや、とても似ている……」
「似ている? 誰に?」
「あれは十数年前でしたかなあ……、公子に瓜二つの美男子に一度だけお目に掛かったことがありました」
「その人の年格好は? 姓は分かりますか?」
「年格好は……そうですな、公子よりも一つ二つ上といったところでしたな。青い外套を纏っていて姓は存じ上げませんが、確か連れの姑娘が名を呼んでいたような…………」
玄龍は席を立ち、老人に詰め寄った。
「なんと呼んでいたのですか⁉︎」
「はて……、なんでしたかなあ……? 何せ十数年も前のことですからな。もっと喉が潤えば思い出せそうなんですが…………」
そう言いながら老人は人差し指と親指を曲げて円を作り、口元に運ぶ仕草を見せた。
「玄龍、やっぱりこのジイさんは信用できないわ。これ以上相手にしちゃ駄目よ」
イライラした玄豹がたまらず口を挟んできたが、玄龍は厨房から徳利を取って来ると老人の茶碗に酒を注いだ。
「いいんだ、姉さん。もう少し話を聞いてみる」
「ホッホ、さすが公子。功徳を積めばきっと良いことがありますぞ」
老人は美味そうに酒を喉に流し込むと、ほんのり赤くなった顔で言った。
「どうですか、お爺さん。思い出せましたか?」
「ええ、ええ。思い出せましたとも。確かあの時、姑娘はこう呼んでおりました。『龍悟くん』と……」
この名を聞いた玄狼と玄豹は同時に立ち上がった。
「————青い外套を纏った『龍悟』だと……⁉︎ まさかその男、黄龍悟では……」
「龍悟……、黄龍悟……? どこかで聞いたことが…………」
「青龍派の掌門の名よ……!」
玄豹の言葉に三人は眼を見合わせた。
「……い、いや、そんな都合の良い話がある訳がない。ジイさん、適当なことを言うと————」
玄狼が振り返ると、先ほどまで座っていた席に老人の姿は影も形もなく、空になった皿と茶碗が転がっているのみである。
「あのジジイはどこに行った⁉︎」
「分からないわ……。さっきまでそこに座っていたのに……!」
少し怯えた様子で玄豹が答えた時、店の外から老人のしゃがれた声が聞こえてきた。
「————ご馳走になりました。公子の記憶が戻ることを陰ながら祈っておりますぞ…………」
声が途切れる前に玄龍が店の外に飛び出したが、やはり老人の姿を見つけることは出来なかった。




