第七章『代償(三)』
呼び止められた玄狼は何故自分だけ残されたのか、いくら考えてもその理由が分からず、玄舟の言葉を黙って待った。
「————玄狼、あの小僧の様子はどうだ……?」
「は…………?」
長い沈黙の後、ようやく玄舟が口を開いたが、その質問に拍子抜けした玄狼は思わず訊き返してしまった。
「……玄龍のことだ」
どうやら話とは玄龍に関することらしい。玄狼はホッと一息ついて口を開いた。
「玄龍は恐ろしいほどの速度で腕を上げております。あと一年————いえ、半年もすれば私も追い越されてしまうでしょう」
玄狼は口に出したものの内心で皮肉の笑みを浮かべた。半年後には二人とも死んでいるのかもしれないのである。
「そんなことを訊いているのではない。奴に何か勘付いたような素振りはないか?」
「いえ、今のところそのような兆しは見られません」
「……そうか」
玄狼の返事を聞くと玄舟は少し安堵したかのような表情を浮かべ、奥の間へと歩き出した。玄狼も立ち上がりその後を追うが、前を進む師父の足取りは重く弱々しい。
「くっ……、奴のせいでこのような目に……!」
玄舟は恨めしげにつぶやいて奥の扉を開けた。扉の隙間から一段と冷えた空気が溢れ出し、白い霧となって二人の視界を塞ぐ。
冷気があらかた霧散すると、虎と鳳凰を閉じ込めた見事な氷彫刻が姿を現した。
————生きたまま氷漬けにされた、凌拓飛と石凰華夫妻である。
二人は五年前の姿そのままで、眼を見開いた必死の表情は今にも動き出しそうな迫力である。
「……忌々しい虎めが……! ワシに力が戻れば女房共々、即刻打ち砕いてくれるわ……‼︎」
玄舟は氷に手を触れて歯噛みした。
————五年前、拓飛と凰華を『玄冥氷掌』で氷漬けにした玄舟だったが、限界以上の真氣を放出したため廃人同様の身体になってしまった。
損なわれた真氣を回復させるためには長い年月が必要であり、その間は弟子に介護を求めなければならない。しかし、以前から弟子に対し愛情ではなく恐怖で接してきた自覚があった玄舟は、弟子たちによる謀反を恐れ一計を案じた。
一番弟子の玄豺にも教えていなかった『玄冥氷掌』を餌にしたのである。
この絶技の魔力に取り憑かれていた玄狼たち三人は思惑通りに餌に食いついた。この策略により三人は技の会得まで玄舟に手を下すことが出来ず、会得してからは寒氷真氣の発作によって命の手綱を玄舟に握られてしまった。その頃には玄舟も自らの脚で歩けるほどには回復しており、現在に至る————。
苦々しい表情で拓飛と凰華を包み込む氷塊に触れていた玄舟だったが、いくら力を込めても氷塊にはヒビ一つ入らない。己の限界を超える力で氷漬けにしてしまったため、どうしても打ち砕くことが出来なくなってしまったのである。
だが、あのまま放置していては万が一ではあるが、腕の立つ奇人に見付けられ氷解されてしまうということもあり得なくはない。そこで仕方なく、この『氷鏡廊』に運んだのだった。
「————玄狼……」
氷漬けの拓飛を睨みつけていた玄舟が突然振り返った。
「はっ」
「玄豺亡き今、お前だけが頼りだが特別扱いはせんぞ」
「……心得ております」
「それから言っておくが『陽丹丸』の成分は簡単には洗い出せんぞ。よしんば処方が分かったとしても、素材を探し出して調合まで考えると百日ではとても足りん」
「————ッ‼︎」
玄狼の心臓が早鐘の如く鳴り響いた。玄舟の指摘通り、百日の内に陽丹丸の成分を調べ上げ量産する腹づもりだったのである。
玄舟は黙りこくった二番弟子の顔を見つめ、鼻を鳴らした。
「フン、内心はともかく表情にはおくびにも出さんとは大したものだが、ワシを見くびるでないぞ、玄狼よ」
「…………お見それいたしました……!」
深々と釘を刺された玄狼はひざまずいて叩頭した。その後頭部を見下ろしながら玄舟が冷たく言い放つ。
「では、行け。青龍派と玄武派の者共を根絶やしにして来い。小僧の警戒も怠るな」
「————はッ!」
玄狼と別れた玄龍は荷物を取りに自室へと戻っていた。
部屋の中には卓と椅子が一脚ずつ、後は寝台と小さな棚が置いてあるだけの殺風景なものだが、特段変わったところは無い。
ただ一つ、その全てが氷で造られていることを除いては————。
玄龍は氷の寝台に腰かけると、枕元に置いてある本を手に取った。それはこの氷室の中で唯一、氷で構成されていない物質であった。
その本はさほど古い物ではないようだが、幾つもの手垢の跡がありボロボロの状態であった。この本はこの状態になるまで何百回————いや、何千回ひとの眼に触れたことだろうか?
玄龍は無言で頁をパラパラとめくるが、その表情は龍面に隠され窺い知ることは出来ない。
「またその本を読んでいるの?」
戸口には憂い顔の玄豹が立っていた。どうやら読書に没頭して気配に気付けなかったらしい。
「……ああ、何故だか分からないけど、この本を読んでいると不思議と心が落ち着くんだ。内容なんて全て覚えてしまっているのにね」
そう言うと玄龍は本を閉じて、大事そうに懐にしまい込んだ。
「……玄龍、これからどうするの?」
「どうするって、青龍牌と玄武牌を奪いに行くんだろう?」
「あなたはそれで良いの?」
「良いも何も師父の命じゃないか。それにやらなければ俺たちは後、百日の命だ」
玄龍がどこか他人事のように言うと、玄豹はうつむいて玄龍の隣に腰を下ろした。
「玄龍、今は二人きりよ。顔を見せてちょうだい」
「…………」
玄龍は少し躊躇した後、ゆっくりと面に手を掛けた。
————雄々しい龍の貌の陰から、まるで玉から削り出されたかのような端正な顔が現れた。
この世のどんな白よりも更に真白いその顔にはシミ一つ見られず、構成する全てが完璧な取り合わせで配置されていた。神州中の大家が結集してどんな顔料を用いようとも、その美を完全に描き出すことは出来ないだろう。
「……嗚呼、なんて美しいの……、まるで絹のような手触り……!」
玄豹は陶然とした表情で玄龍の頬を優しく撫でた。しかし、玄龍は眼を伏せて不満そうにつぶやいた。
「……玄豹姉さん、申し訳ないけど俺は自分の顔が嫌いだ。女のようだと侮られ、どんなに陽を浴びても青白いままのこの顔が……!」
玄龍は眉根を寄せると、自らの頬に爪を立てた。
「いっそのこと、傷でもつけてやろうか————」
だが次の瞬間、その手をグッと押さえるものがあった。
「……そんなこと駄目よ、絶対に許さない……‼︎」
玄龍の手首を握り締めた玄豹は、まるで肉食獣のような眼光で玄龍を見据えた。先ほどの陶然とした表情とは段違いである。
「冗談だよ。向こう傷ならともかく、自分で自分を傷つけるなんてことはしないさ」
「……だったら、いいわ」
玄豹は確認するように玄龍の眼をジッと見つめると、ようやく腕を放した。
「もう二度とそんな馬鹿なことを言わないでちょうだい」
「分かったよ、姉さん」
その時、音も無く戸口に別の影が現れた。
「ここに居たか、お前たち」
「玄狼師兄」
影の主は玄狼であった。
玄狼もやはり何かを確認するかのように玄龍の素顔を凝視する。
「……玄龍————いや、なんでもない。玄貂はどうした?」
「玄貂師兄なら、単独で狩ると言って一人で出て行ったわ」
「そうか。いや、好都合だな。奴と組めば隙を突かれて『陽丹丸』を奪われかねん」
本気とも冗談ともつかない言葉を言い残し、玄狼は二人に背を向けた。
「俺たちも行くぞ。一日も無駄には出来ん」
「ええ。行きましょう、玄龍」
玄豹は玄龍に声をかけて兄弟子の後を追って行き、玄龍も二人を追うべく、外した龍面に手を伸ばした。
————面の裏側には『斉』の一字が刻印されていた。
———— 第八章に続く ————




