第一章『蒼顔美少年(一)』
———— 序章 ————
吐く息すらも凍りつくような極寒の空気の中、上半身を露わにした数十人の男たち————否、鏡の如き氷の壁面が一人の男を幾重にも映し出していた。
神州の北方・玄州の最北端には天然の氷穴がいくつも口を開けていたが、眼を開けていられぬほどの猛烈な吹雪の雪原を進み、好んで足を踏み入れる者はいない。特別な事情のある者を除いて————。
一心不乱に両腕を何度も旋回させている男の額からは絶えず蒸気が上がっていたが、噴き出したそばから小さな氷の粒となってパラパラと足元へ落ちていった。どうやら男は内功の鍛錬をしているようである。
身体つきから男は三十代と察せられたが、その顔に刻まれた深いシワからは正確な年齢は読み取れない。
その時、氷穴の天井から垂れ下がる氷柱が数本、男の頭上へ槍のように襲い掛かった。
しかし、男は頭上に迫る氷柱に気付く風もなく鍛錬に集中している。自然に生み出された神秘的な槍の穂先が男の身体を貫くと思われた次の瞬間、氷柱は男の身体に触れる寸前で丸みを帯びて、そのまま滑り落ちて粉々に砕けてしまった。
足元で砕けた氷柱の残骸を無言で眺めていた男だったが、数秒の後、その口の端が満足そうに持ち上がった。
「…………ついに、ついに成ったぞ、『寒氷真氣』……‼︎」
季節は烈火の如き夏日が過ぎ去り、秋色の足音が聞こえてくる申月。昼間は残暑厳しくも、夕刻ともなれば鈴虫の音色と共に運ばれてくる秋風が心地よい。
「はっ!」
黄州と玄州を結ぶ街道沿いの林の中から、子供のものと思しき甲高い声が響いてきた。
「踏み込みが浅えぞ!」
続いて虎の咆哮にも似た男のがなり声が通る。
林の奥には使われなくなって久しいと見える廃廟の姿が見え、そのかたわらには大小ふたつの影が忙しなく動いていた。どうやら武術の稽古中のようである。
大きな影の持ち主は父親だろうか、歳の頃は三十前後で常人より頭一つ高くガッシリとした体躯に、虎を思わせる鋭い眼光が印象的だ。
「龍珠! そうじゃねえって言ってんだろ!」
「ご、ごめんなさい!」
龍珠と呼ばれた少年は十歳くらいで長い睫毛に大きな眼、高く通った鼻に薄い唇と、大層美しい顔立ちである。だが、その顔色は少年らしからぬ青白さで、表情も自信なさげでどこか弱々しい。
父親らしき男に叱責された龍珠は仕切り直して構えを取った。
「やあッ!」
気合と共に突き出された拳には僅かな真氣が込められており、子供の突きとはいえ受け方を誤れば大怪我は免れない。
「よし、いい突きだ! 今度は俺からも返して行くぞ!」
男は左腕で龍珠の突きを外すと、残る右腕で掌打を繰り出した。かなり手加減はされているが掌風を孕んだ一撃は龍珠の髪の毛をパラパラと揺らした。
虎の爪のような男の掌打が龍珠の胸に食い込むかと思われたが、龍珠は瞬時に半身になりこれを外した。
「おっ」
思わず男が驚きの声を上げる。
本当に当てる気は無く、男は寸止めをするつもりだったのだが、見事に外されたことが嬉しくなり、続けて二手、三手と攻撃を繰り出した。
龍珠は額に玉のような汗を浮かべながらも男の攻撃を次々と躱していくが、興が乗った男は徐々に拳に込める力を強めていき、段々と龍珠の表情が険しくなってきた。
「————はい、そこまで!」
ついに男の攻撃を躱しきれないと龍珠が眼を閉じたと同時に、鳳凰の声音のように澄んだ女の声が待ったを掛けた。
男と龍珠が声のした方を振り向くと、廃廟の戸口に一人の女が微笑をたたえてたたずんでいるのが見えた。
女は二十代後半で雪のように真っ白な衣装を纏い、髻に鳳凰らしき髪飾りを刺している。絶世の美女というわけではないが、その優しい笑顔には不思議と惹きつけられる得も言われぬ魅力があった。
「夕飯の用意が出来たわ。二人とも稽古はそれくらいにして、手を洗ってらっしゃい」
女の言葉に男と龍珠が各々返事をする。
「おう」
「うん!」
廃廟の中には蝋燭の灯りが煌々と揺らめき、鍋から食欲を誘う香りが漂っている。
「味はどうかしら、美味しい?」
「うん、とっても美味しいよ!」
「まあまあだな」
男の返答に女はジロリと眼をやり、口を尖らせた。
「やっぱり子供は素直で良いわね。それに比べて誰かさんときたら、いつも『まあまあだ』とか『食える』とか『悪くねえ』とかばっかりなんだから……」
「何が素直だ、誘導してんじゃねえか。『美味しい?』なんて訊かれたら、ガキンチョとしちゃそう答えるしかねえだろ。なあ、龍珠?」
男は笑みを浮かべて龍珠の背中を軽く叩いた。突然、団扇のような大きな手で叩かれた龍珠はビクリとして、
「そ、そんなことないよ。本当に美味しいよ、伯母さんの料理」
「ま、不味くはねえな」
「ふふ、ありがとうね、龍珠」
なおも止まらぬ男の減らず口を聞き流した女は笑くぼを浮かべて、甥の頭を優しく撫でた。
この二人は、凌拓飛と石凰華夫妻である。
拓飛はかつて白髪赤眼の容貌で左腕に虎手を宿しており、各門派から妖怪と敵視されていたが、現在は義侠の行いを重ねて『凌雲飛虎』の異名で呼ばれている。
この十年で獲物を見つけるなり飛び掛かる若虎のようだった凶暴さは鳴りを潜めたが、冷静さを身に付け成熟した猛虎のような眼光はかえって凄みを増していた。
凰華は白虎派に籍を置きながら夫と共に神州中を廻り、『白凰娘子』の異名で呼ばれるほど腕を上げた。
そして、二人と行動を共にする気弱な美少年・龍珠の姓は黄————。青龍派の現掌門・黄龍悟と李慶夫妻の一人息子であった。
「————さてと、俺はもうちょい鍛錬してくるぜ。お前らは先に休んでな」
一足早く食事を終えた拓飛は碗を置いて外へと出て行った。その後ろ姿を見送りながら龍珠がポツリとつぶやいた。
「拓飛おじさんはあんなに強いのに、どうしてまだ鍛錬するんだろ……」
「おじさんが鍛錬するのはね、自分より強い人に追いつこうとしているのよ」
龍珠の疑問に凰華が答えると、龍珠は驚きの声を上げた。
「ええ⁉︎ おじさんより強い人なんているの?」
「もちろんいるわよ。私の知る限りでも三人はいるわ。まずおじさんの師父は当然として、白虎派の掌門の蘇熊将という人はおじさんと互角に渡り合えるでしょうね。それからもう一人は誰だと思う?」
「うーん……」
龍珠は箸を止めて首をひねる。
「あなたのお父さんよ」
「えっ、父様が?」
凰華の言葉に龍珠は再び驚きの声を上げた。父親が青龍派の掌門だとは知っているが、なにしろ今まで父親が闘っている姿を見たことが無く、稽古すらつけてもらったことも無いのである。
「私が知らないだけで世の中にはもっと強い人がいるかも知れない。だからおじさんは鍛錬を続けているの。まあ、おじさんにとって趣味みたいなものでもあるけれどね」
「鍛錬が趣味……、僕にはよく分からないや」
うつむいてつぶやく龍珠の表情を窺った凰華が問いかけた。
「龍珠は武術が嫌いなの?」
「……嫌いじゃないけど、おばさんに習字や学問を教えてもらう方が楽しい」
「あら、嬉しいことを言ってくれるわね。でも、私もそこまで学があるわけじゃないから、あなたにもっと教えられるように頑張らないといけないわね」
「おばさん、僕……」
「ん?」
龍珠は言い出しにくそうに口をモゴモゴさせていたが、しばらくして絞り出すように言った。
「……僕、武術の稽古もおばさんにつけて欲しい」
この言葉に凰華は少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに微笑をたたえ、
「おじさんが怖い?」
「……うん、叱られる時とか少し怖い」
「そっか。おじさんは声も身体も大きいし、言葉もキツいからね。でもね、おじさんは四六時中叱ったりはしないでしょう? おじさんが龍珠を叱る時はどんな時?」
龍珠は少し考え込んで口を開いた。
「僕が間違ったり、悪いことをした時……」
「そうでしょう。おじさんはあなたに強くて立派な大人になってもらいたいから、あなたが道を間違えそうになった時に叱るの。それだけは忘れないであげてね」
「うん……」
龍珠は凰華の言葉を噛みしめるようにうなずいた後、消え入るような声でつぶやいた。
「…………でも、だったらどうして————」
「え?」
「ううん、なんでもない。ごちそうさま。僕今日はもう寝るね、おやすみなさい」
そう言うと、龍珠は廃廟の奥へ力ない足取りで引っ込んでいった。
稽古で疲れたのだろうと、凰華はさして気にも留めていなかったが、龍珠の胸中にはある疑問が渦巻いていたのである。
(どうして、父様は僕を一度も叱ってくれなかったんだろう————)
床に入り眼をつぶった龍珠だったが、鬱々としてなかなか寝付くことが出来なかった。




