第四章『虎の娘(二)』
失意のまま掌門の間を後にした凰蘭はとても歌を詠む気分ではなく、ブッちぎって自室に戻ろうと思っていたが、廊下の角を曲がった先には二人の女が行く手を遮るように立ちはだかっていた。
「凌姑娘、書房へ参りましょうか」
右側に立つ女がなんの抑揚も込めず機械的に口を開いた。
「い、いえ、今日は少し体調が————」
「参りましょう、掌門夫人のお申し付けでございます」
やんわりお断りしようとした凰蘭だったが、左側に立つ女が有無を言わせぬ様子で言葉をかぶせてきた。
女たちは青龍派の門人で共に三十代中頃といったところだろうか、その顔には表情というものが微塵も無く、まるで能面をかぶっているかのようである。
『さあ、参りましょう』
同時に声を発した女たちは、影のように凰蘭の前後へと移動した。
これは逃げられないと悟った凰蘭は溜め息をついて、数珠つなぎで歩き出した。
それはまるで罪人が刑場に連行される姿のようであった。
————それから二刻もの間、上の空といった様子で詩を書き、歌を詠んでいた凰蘭はようやく解放された。
ふらついた足取りで自室へ戻る途中、ふと思い立った凰蘭は厩舎へと向かった。
厩舎の一番奥では一際目立つ大きな白馬が悠然と牧草を食んでいる。凰蘭は白馬に近付いて、その真っ白な毛並みに手をやった。
「美味しい? たくさんあるからたっぷり食べてね」
凰蘭に首筋を撫でられると、白馬は嬉しそうにいなないた。
この白馬は焔星と桃花の仔で星河といい、五年の時を経て、仔馬から立派な雄馬へと成長を遂げていた。
「星河、お願い。五年前に何があったのか教えて……?」
凰蘭が寂しそうにつぶやくと、星河は草を食むのをやめ、凰蘭の顔へ自らの頬をすり寄せた。
————五年前の一件の後、焔星たちは異変を報告するため二手に分かれて、それぞれ白虎派と青龍派へと向かった。
その後、龍悟と蘇熊将は焔星と桃花の案内で凰華の実家へ門人を遣わせたが、そこにあったものは激闘の痕跡だけで、人の姿はおろか手掛かりとなる服の切れ端すら見つけることは出来なかった。
まだ仔馬だった星河は焔星と共に青龍派へとやって来たが、成長するまで青龍派の本拠地『敖光洞』で育てられていたのである。
凰蘭は星河の首に腕を回して囁いた。
「……お前が人の言葉を話せたらいいのにね……」
しかし、星河は困ったような眼を凰蘭へ向けることしか出来ない。
「無茶なことを言ってごめんね、星河。気にしないで食事を続けて?」
「おう! ここにいたのか、蘭!」
凰蘭が苦笑したその時、背後から男の野太い声が聞こえてきた。凰蘭が振り向くと、二十歳ほどの大男が厩舎の入り口に立っているのが見えた。
「柳兄さま」
凰蘭が呼び掛けると、男は笑みを浮かべて悠然と歩み寄って来る。
「どうした、星河とおしゃべりか?」
「ええ。でも、星河は今そういう気分じゃないみたい」
「ハハハ! そりゃあメシの途中で邪魔されちゃあ、機嫌も悪くなるよなあ!」
柳と呼ばれた大男は豪快に笑って、星河の背をバンバンと叩き出した。この男、身体が大きければ負けじと声も大きく、急に大声で身体を叩かれた星河はブルルと鼻を鳴らして不機嫌そうに首をしゃくり上げた。
「おおっと、悪い悪い! そんなに怒るなよ!」
男は大きな声で謝りながらも、星河の背を叩くのをやめない。
この大男の名は正剛といい、青龍派の第七世代筆頭だった柳怜震の甥である。叔父直伝の槍の腕前は確かなもので、青龍派の若手の中では抜きん出た使い手であった。
凰蘭は正剛の衣服がいつもの拳法着ではなく、青龍派の正装であることに気が付いた。
「柳兄さま、どちらへ行かれるの?」
「おっ、なんで分かったんだ⁉︎ 俺はこれから掌門の間へ行くところだ!」
「おじさまのところへ?」
「ああ! 師父に呼ばれてな! きっと直々に稽古をつけて下さるに違いない!」
師父に稽古をつけてもらうのなら正装である必要は無い。これは何か重要な案件だと思った凰蘭が口を開き掛けた時————、
「正剛、こんなところで何を道草を食っている」
今度は厩舎の入り口に二人の男女が立っていた。男女は共に三十代前半で着衣はやはり正装である。
「張師兄! 俺は草なんて食いませんよ! 草を食ってるのはコイツです!」
物心ついた時から武術一辺倒で、本などロクに読んだこともない正剛に慣用句など分かろうはずもなく、得意げに星河を指差した。
「……いいから、早く来い」
「張兄さまと林姉さまも、おじさまのところへいらっしゃるのですか?」
『…………』
凰蘭の言葉に張迅雄と林秀芳は、また頭の回転の鈍い弟弟子が余計なことを口走ったと思い、同時に正剛をジロリと睨んだ。
「……大したことではありませんよ、凌姑娘。さあ行くわよ、正剛」
「はい、林師姉! じゃあな、蘭!」
正剛は兄弟子たちの咎めるような視線に気付く風もなく元気よく返事をして共に厩舎を後にした。
一人残された凰蘭の胸中には数年来のある疑念が渦巻いていた。
七年前に黄家に預けられて以来、正剛のような歳の近い門人たちは同門の弟子のように分け隔てなく接してくれたが、迅雄や秀芳たちの世代となると対応がいつまでも客人扱いのようでよそよそしいのである。それは年代が上がるごとに顕著になった。
その理由を幼い頃は自分は龍悟の姪だからと思っていたが、成長し色々な機微が身に付くと見えてくるものがあった。
————彼らは自分に遠慮や配慮をしているのではない。無関心————いや、それどころか敵視すらしているのである。
確かに、青龍派に来た当初は親元を離れた鬱憤からわがままを言ったり暴れたりもしたが、慶の指導もあったことで上の世代に対しては礼を守ってきたつもりであり、憎まれる謂れは無い。
いくら考えてもその理由が分からず、凰蘭が形の良い眉を歪めていると、心配そうに星河が再び顔をすり寄せてきた。
「……ありがとう、星河」
凰蘭も再び星河の首に腕を回して、優しく感謝の言葉を掛けた。