『何にもないこの街で俺達が過ごした夏』①
М崎県の北部に位置するN市。
その『何にもない街』で俺達は高校時代を過ごした。
『1977年1月11日(火)の雨の日』
最後の高校選手権県予選も見事に一回戦敗退でさっさと終わり、正月明けに仕方なく受験に向けてケツを半分持ち上げた頃、何にもない田舎の高校生のくせにロキシーミュージックのフィルマンザネラのプレイが好きだった俺に「私、エマーソン・レイク&パーマーのタルカスのB面が好き」と言う陸奥A子のコミックに出てくるようなデザートブーツが良く似合うイッコ下の彼女が出来た。
俺は、部活漬けの三年間で失われた青春という時間を取り戻すため、この彼女との清らかな高校生らしい恋を育む一方、もう片方では清らかさの欠片も無くした同級生達とのバカ騒ぎや、『受験のストレス発散という名目で毎週末に開かれる酒宴(田舎では飲み方と呼ぶ)』という名の青春も謳歌していた。
ある週末の飲み方の時、何でかしら珍しく深酔いした俺は、たまたまたまたま隣に座っていた別段好きでもない同じクラスの女子のクチビルにふざけてキスをしてしまった。
『大事な大事な初キスをたまたま隣に座った酔っ払いに奪われ泣きじゃくる女子』と言うシチュエーションに同情した偽善者達から、「高橋!責任とれ!」と叱責怒号とツマミの欠片を次々と投げつけられる俺。俺は仕方なく彼女に土下座で謝ったが、彼女は一向に泣き止む気配がない。
あらゆる金融機関から融資を断られた町工場の社長の様に万策尽きた俺は次の瞬間「こいはふざけてしたとじゃなか、おいは前からアンタに気があったと。好きだ!」と、口から出まかせ起死回生の愛の告白でこの事態を見事に収拾させていた。
しかしとっても狭いのが田舎である、あっと言う間にこの『ふざけてじゃなか!本気のキスや!』事件は陸奥A子の耳に入る事となる。今後の人生において何度も登場する『スンマセン、酒の席での酔った勢いで』と言う言い訳を、俺は高校生の分際で早くも人生に登場させるが、田舎の真面目な17歳の女子高生に理解してらえるはずもなく、清らかな恋は終わった。
それから1ヶ月後の雨の日、校舎の出口で傘を忘れた陸奥A子とバッタリ会った。
「バス停までなら送るよ」と言う俺の傘で一緒に歩き始めた時、『キスの責任をとらされて仕方なく付き合ってる別段好きでもない女子』とも校門でバッタリ会った。
そのダブルバッタリ事件後、同級生の女子達からは『鬼畜』『人でなし』と呼ばれていた事を俺は最初の夏のクラス会で知る事となる。
『1977年8月1日(月)中洲の泡』
無事東京の大学生という名の動物になって初めての夏、東京から田舎に帰る途中に高校の時の親友神田君の住む福岡に寄ってから一緒に田舎に帰ろうという話しになった。
福岡市のJ南区にある、ここしか受からなかった神田君が通う『七隈大学』はテゲデカかった。それに驚くなかれその構内には、普通は県庁所在地の駅前にしか無いバスターミナルまで存在している。バスを降りて辺りを見回せば、大学をグルリと囲む山の壁面全体には、学生下宿がシメジの様に隙間なく生えていた。
俺が神田君の住むプライバシー0%の下宿の部屋で『入れ替わり立ち替わり来訪される縁も所縁も無い下宿の上級生にその度挨拶をさせられる酒宴』に小さな殺意を覚え始めた頃、酔った神田君が「高橋さぁ、トルコ行かん?」とおっしゃった。
お盆前の短期ガテン系バイトで『ハガネの肉体とコガネを持つ俺』は即座に神田君と『国体道路経由』と赤で表示された西鉄バスに飛び乗った。
『それを博多では、国体道路ば渡ると言う』
普通この類いの店では呼び込みは男性の黒服が普通だが、南新地(中洲新地)では殆んどの店の前にババアが鎮座していた。
「学生さん、安うしとくばい!」俺達は鎮座するババア達からの呼び込みを全身に浴びながら、七隈大学の先輩から教えてもらった店に入った。待合室で神田君と最初にやったのはジャンケンであった。要は先攻後攻決めである。御存じの通り、この手の店は先攻を選べば良い相手に当たる訳では無いのだが・・やる。
「最初はグー」
初めて見る神田君の『明日は知らない、今だけに生きる俺』を具現した気合いの入った顔。それは俺が「神田君、その集中力を勉強と野球に活かせてたら、もっと違った人生があったよね」というセリフを思わず飲み込んだくらいだ。
結果、ジャンケンに勝った神田君が先攻をチョイスして同級生のお母さんみたいな女性に連行された後、俺は近所のオバサンみたいな女性に拉致された。
そして『七隈大学行』と表示された帰りのバスの窓から吹き込む夜半になってもまだ生暖かい風を受けながら、俺と神田君はずっと無口だった。
『1977年8月3日(水)』
帰省してから2~3日の間は「やっぱ実家は落ち着くねぇ」とか言いながら家族団欒でメシ食って家でゴロゴロしていたが、そんな生活など直ぐに飽き、部活と言う名の苦労を3年間共にした萩原を誘って呑みに出た。
田舎であるこの街では繁華街と呼ばれるものは一つしかない。
『船橋町』と呼ばれるその約1キロ四方の繁華街には、居酒屋・スナック・キャバレー・ピンサロがひしめき合い、半分以上の店が朝から翌朝まで営業している。
普通こんな田舎であれば、夜中の一二時くらいには閑古鳥が鳴いて商売にならないようなものだが、N市唯一の産業である大手化学企業の工場が24時間三交代勤務(昼勤・夜勤・夜勤明け)をやっているもんだから、その工員相手の飲み屋もがんばって24時間店を開けているという訳だ。余談だが同じ理由で人口に対してパチンコ屋の数もめちゃ多い。
そして繁華街が一つしか無いと言う事は、その狭いエリアで『大人しく飲む人達』と『飲んで騒いで暴れたい人達』が同じ空間を共有している、と言う事でもある。
案の定、俺と萩原が知り合いのスナックで飲んでいると、向こうのテーブルからこっちをチラチラ見てる、残念ながら男の二人組がいる。
萩原が言った「実業のいっこ上のガンタレたい。うちん兄貴が高校の時ボテクリ返しよった」萩原のお兄様はN工業のニコ上の先輩で全ての意味においてとっても活発な人である。
「なんか~今日は兄貴はおらんとか?」
早速く、二人組のパンチパーマの歯欠けの方が席を立ってアヤを付けて来た。
「おらんかったら何ちや?」兄貴が今日外に飲みに出ている(イコール近くで飲んでいる)と分かっている萩原はいたって強気である。この萩原の態度にカチンときた歯欠けは「はぁ?こんクソガキがぁ!兄貴ん方に借りば返えそうかて思うとったが、今お前に返す事に決めたばい。コラァ外に出らんか!」そう言って萩原の胸倉を掴んで無理やり立たせた時、店のドアを開けて大柄な男が入って来た。
瞬間俺と萩原は「オスッ!」と挨拶を飛ばし、直立不動の姿勢をとって直角のお辞儀を<俺は>した。
もう一方、胸倉を掴まれているために不本意ながらお辞儀が出来なくて困っている萩原の状況を確認した大男は、黙って歯欠けに近づくと黙ってその腹に強烈なフックを入れた。
萩原の代わりに直角のお辞儀をさせられ床でのたうち回る歯欠け。
「スンマセン!それで勘弁して下さい!」
真っ青な顔をして歯欠けを庇うように駆け寄った『歯欠けのツレ』が、大男の足元で這いつくばうようにして謝る。
そして、のたうち回りながらも大男に向かって気丈に「なんかきさんわ~!」と吠えている歯欠けに「ばかたれ、あいがN高の相澤ぞ」と耳打ちをした。
その名前を聞いたとたん急に大人しくなった歯欠けに肩を貸しながら、相澤という大男にペコリとお辞儀をして店を出て行くツレ。
そのツレに「こん店、N高サッカーの溜り場やけん、しばらく寄らん方がヨカですよ」と俺はこっそり教えて差し上げた。
「オスッ!今年は帰ってこられたんですね」萩原が店のオシボリを開いて丁重に手渡しながら相澤先輩に聞いた。
「やっと3年になって自由が出来たけんな」相澤先輩は俺と萩原が高校時代所属していたサッカー部の2コ上の先輩である。
高校サッカー県選抜選手にも選ばれていた程のプレイヤーでもあった相澤先輩は、スポーツ枠推薦でK士館大学に入学されたのだが、それはサッカー枠ではなく日本国拳法部枠だったという、相澤先輩を知る人の全てが納得する経歴の持ち主でもある。
俺達はサッカー部の後輩として色んな意味で鬼の相澤先輩に『可愛がって頂いた』が、代わりにN高サッカー部員は、『相澤先輩という核の抑止力』の傘の下で、他校のガンタレから絡まれる事は皆無という特典がついてきた。
さっきの二人組も相澤先輩がもう地元には居ないと言う前提で絡んできたのだが、謹んでお悔やみ申し上げます。
『1977年8月7日(日)』
「浩一~萩原君の迎えに来とるよ~」
「ああ、すぐ行く」
俺が二日酔いの顔を洗って玄関に出ると、萩原がKAWASAKIのマッハに跨って待っていた。
「おお中免とったとや」
「よかろが~一ッ葉(免許試験場)で一発合格じゃが」
自慢気に答える萩原の真新しいバイクの後ろに乗って、俺達はクソ暑い風の中を母校の河川敷グラウンドに向かった。
小中と真面目に水泳をやってきた俺は、高校入学時にサッカー部の上級生から「水泳部は廃部になった」と騙され、ここで3年間汗を流した。
グラウンド着くと、相澤先輩が現役相手に『ロング』を蹴っていた。
ロングとは『先輩が遠く蹴られたボールを、ビーグル犬と化した後輩達がドリブルしながら先輩のもとに戻って来る』というサッカー部伝統のお説教である。
これが『アゲイン』と言う掛け声により延々と繰り返されるのだ。
猛暑のグランドで今にも倒れ込みそうな後輩の様子から察するにかなりのアゲインが掛かったと推測されるが、容赦ないアゲインはそれから10回以上は続いた。
ロングを終えた相澤先輩に、俺は大急ぎで買って来た冷たいコーラを手渡しながら「なにか現役組に粗相があったとでしょうか?」と恐る恐る聞くと「今からОB戦ばやるとに現役組にハンデばやるとは当たり前やろが」との素晴らしくも恐ろしい答えが返って来た。
そして恒例のОB対疲労困憊の現役組の試合は、何故かゴール前でも完全フリーの相澤先輩の大活躍により、ОBの大勝利で無事終了した。
『1977年8月10日(水)初めてクラス会』
田舎の高校を卒業した田舎者達にとって最初のビッグイベントはお盆に開かれる『高校を卒業して初めてのクラス会』である。
そしてその幹事は『地元に就職した世話好きで愛想は良いが器量は神様が与えるのを忘れた女子』がやる。
つい5ヶ月前迄は毎日のように学校でツラ突き合わせていたくせに、『ちょっと変わったぜ俺』『大人っぽくなった私』が集まる初のクラス会は、甘く危険な香りもトッピングされ、どのクラス会も恐るべき出席率でその幕を開けるのであった。
その日船橋町の飲み屋の二階の大座敷には『その時点において自分が考えられる最高のファッションに身を包んだ田舎者』がズラリと並んでいた。元学級委員の朝礼みたいな乾杯でクラス会が始まると、単純に「なつかしかね~」と言う友人との会話目的だけで参加している奴等をベンチに残して、ピッチでは別なある目的がハッキリしている男子と女子の数人がボール回しを始めた。
前半は同性間でのパス回し。たまに敵前線にロングボールを出すが誰も本気で追うことはない、何故かと言うと、この時点で前線に上がる目立ちたがりのヤツは男女とも同性から嫌われるからだ。そして前半終了間際、お互いに複数回のサイドチェンジを試みて前半が終了した。
トイレでのハーフタイムミーティングで俺は親友である神田君を守備的МFに指名して後半のピッチに戻った。
後半戦開始直後、守備的МFであるはずの神田君がドリブルでスルスルと相手側ペナルティエリアまで上る。「くそっ!あいつ裏切りやがった!」俺が思った瞬間だった「高橋~!こっちこいよ」
神田君が華麗なヒールパスを出したあと、俺と相手DFとの間に身を入れた。
「神田ああ!一瞬でもお前の事を疑った俺を許してくれええ~お前が女だったら絶対に俺はお前を嫁にする~!」
心の中心で神田君への愛を叫びながら、俺は憧れの甲斐さんの横にポッカリと空いたスペースへと走り込んでいた。
勿論その途中、俺は神田君へ感謝の気持ちを表した行動を忘れない。俺は『N駅前の資産家の一人娘』の席の横に『彼女は貧乳だけど君の安定した将来の生活の為だからね』と言う金色のボルトで神田君を固定した。もちろん巨乳好きの神田君のために『ちょっとの我慢でお金持ちになれば、ハワイのアグネスラムに何時でも何度でも会いに行けるんだからね』とサジェスチョンするのも忘れない。
五ヶ月前でさえ『セーラー服を着た壇蜜』そんな高校生だった甲斐さんは、博多のK蘭短大に通う今では「中洲に店ば出してやるけん、そんかし・・いい加減よかろ?」こんなオヤジを3人くらい手玉にとっていそうなチーママオーラを放っていて、ストライプのシャツのボタンを四番目まで外して出来たトライアングルには、谷間と言う名の溝があった。
その壇蜜に対し、試合後半終了間際まで『タモリとさんまが乗りうつった大阪のオバチャン』のごとく徹底して攻撃を仕掛けた俺は、めでたく『二人っきりの甘く危険な香りの二次会 /極薄の岡本理研を添えて』への出場枠を勝ち獲った。
二次会へ行こうとするその他大勢を巻いて三十分後、俺達は知り合いのスナックのカウンターに並んで座っていた。
お互いの近況を交換し終わった頃、クラス会最初からちょっと元気のなかった壇蜜が切り出した。
「高橋君やけん話すけどね、うち夏前まで妻子もちん人と付き合うとったと」
俺は、「まさか高校の時からじゃなかろうね?短大に入ってからよね?そうよね」と聞こうとしたがやめた。
「え、そうなん・・・でん、そげんこつ何で俺には話すとね?」「誰かに聞いてもろて欲しかと~、苦しかったし~でんうちん周りはみんな子供じみとうけん、こげな話は出来んしね。ふふ、でん高橋君は皆んなとちょっと違うなぁて思うたけんが言うてみたとよ」
俺の股間でトム・ジョーンズが腰を振りながら歌い始めた。
「でね、こん前そん人の奧さんにバレてね、別れてくれて言われたと・・・」
「そいで別れたん?」
「うん、そん人子供も居るし、そいよかだんだん奧さんが可哀想になったとよ。うちも半分悪かとやけんね。でもね別れた後凄く寂しゅうなってね、ゴメンね、こげな話」
俺の股間のトム・ジョーンズが更に激しく腰を振りながら『俺と一緒に新小岩で小さなスナックでもやらないか?』と書かれたカンペを持ち上げた。
カウンターのマスターから見えない様に壇蜜の腰に手を回そうとした時「あ~、言うてしもた~誰れかに言うてスッキリしたぁ~。高橋君まだこっちに暫くおるとやろ?また飲もね!」そう言いうと金も払わずにさっさと帰る壇蜜。
壇蜜が帰った後、マスターがぽつりと言った。「詰めん甘かったい・・・・
*トムジョーンズ アメリカのシンガー。70年代後半に圧倒的な歌唱力と腰の動きを強調したセクシーな振りで成人女子に圧倒的な人気を誇っていた。
『1977年8月11日(木)』
「あ~こげなクソ暑か日はサ店にかぎるねぇ」
俺の向かいの席で、溶けて椅子からズレ落ちそうな萩原という名のスライムがしゃべった。
「お前、店ん手伝いはよかとや?」
萩原の向かいの席で、溶けて無くなりそうなスライムが聞く。
萩原の実家は米屋で彼は一応跡取り息子だ。兄貴はいるが鉄工所に勤めていて米屋は継がないと言っているそうだ。
「まぁだ親父が現役やけんが、どげんでんなると。そいよかさ」スライムがけだるそうに話しだした。
「受験が面倒くさかったけん進学せんかったけど、こんままチンケな米屋ば継いで、そんうち商売やっとる家やからいうて愛想がヨカだけの嫁ば貰うて、ジジイになって田舎で干からびていくのも何かなぁて今、悩みよッとよ」スライムごときが偉そうに言っているが、要は受験が嫌で自分から逃げ込んだ道が、狭いとかツマンないと今更文句をタレてるだけである
「高橋~、俺も東京行きたかぁ~東京はどげん?」
М埼県の北部の田舎町の若者にとって日本で一番の都会は①『東京』②『博多』③『県庁所在地』である。
何で物の見事に名古屋大阪が抜けているのかと言うと、民放が2チャンネンルしかない田舎のテレビには、東京キー局制作の番組しか流れないので大阪・名古屋に関する情報は皆無、よって大阪名古屋は田舎の若者にとって『まったくといって良くも悪くも知らない土地』になり下がるのである。
対して博多は九州最大の都市であり、田舎から出たいが九州からは出たくなかった親戚知人友人先輩後輩が多数住んでるので、博多の情報なんぞは、『最近、中洲にこげな店が出来とるげな』くらいに、リアルタイムでなんぼでも入手出来た。
俺も大学進学の目的は『単に東京に住んでみたいから』、という田舎の若者の一人であった。
「高橋は渋谷とか六本木で合コンとかやりよるとやろ?」田舎の人間は何も分かっていない。
小田急線沿線の多摩川を渡った大学に通っている地方出身者達は、山手線とその内側においては、せいぜい新宿の『しょんべん横丁』か『北の家族』、もしくは沿線の下北沢か経堂の居酒屋で飲むのが精一杯である。
しかしN市から東京に渡ったコロンブスとしては田舎の若者達の夢を奪ってはいけない「渋谷も六本木もなんか子供っぽいからねぇ、最近は錦糸町か大崎・品川がアツイよ」と答えてやった。
多分1週間後くらいには「おう!東京じゃ渋谷六本木はもう古かて!ほいで錦糸町大崎品川ていうとこが今一番ナウかげな」という東京最新情報が田舎の若者の間で熱く語られているはずである。
「俺も一度東京に出て、もまれてみようかなぁ~高橋どげん思う?」この人は今、何を考えているのだろうか?
俺は、一応確かめてみることにした。
「だから何で?」すると「いや、自分という自分が見つかるかも知れないと思ってさ」沖縄とか北海道に沢山歩いている人達と同じ答えが返って来た。
そして萩原がじっと俺の目を見て言った。「そいでさ・・」「うちは駄目だよ」俺は萩原の次の一手を即座に潰した。
俺に東京で彼女が出来る、「今日泊ってもいい?」て聞かれる、「うちには人生の探し物をしている人が居るからゴメン」と謝る、「私の事、嫌いだったらハッキリそう言ってよっ!」て言われる。そんなのは絶対に嫌だ!
こいつの陰謀は一応握り潰してやったが簡単に諦めるヤツではない事を俺は知っている。高校時代サッカーの試合でキックオフ直後に足を小突いてきた相手チームの選手を、試合の最後まで事あるごとに小突き続け、最後は相手選手に泣いて謝らせた男なのだ。
俺は萩原と別れたあと直ぐに『萩原米穀店』に電話を入れた。「はい、萩原米穀店です。」
「もしもし、私し萩原家を救う会М崎支部の高橋と申しますが」「はいはい、高橋君どげんしたとね?」
「実はお宅の跡取り息子さんがよりにもよって親友の高橋さんの幸せの邪魔をしようとしてるのです。」 「そりゃ申し訳なかこつやけど、他には?今忙しいんだけど」 「はい、あと生意気にもスライムごときが、あげなチンケな店なんて継ぎたくないわぁとグダってます」 「そりゃ困った」息子に早いとこ店を譲って楽隠居を決め込もうとしていた親父が困った。
「早急にご対処下さい。でなければ私達救う会が」
「わかった、ありがとツーツー・・」これで良い。
それからしばらくしてカブで配達をしている萩原と町中で出会った。
「どした、親父さん具合でも悪いのか?それとも俺の知っている萩原をどうした!」俺は目の前にいるこのクソ暑い中配達しているニセ萩原の正体を暴こうとした。本物の萩原ならこんな事は絶対にしない!。
俺の二つの質問を完全スルーして爽やかな笑顔から吹き出す汗を腰の手拭いで拭いながら、「まあ聞けや」と萩原が語り出した。
「うちん婆様もいよいよ小さか字が見えんなったけんが、ほれお前も知っとろうが、興梠酒屋の娘さんたい。今は商業の3年生じゃが商業簿記2級ば持っとるけんアルバイトで帳簿付けに来てもらう事にした。」親父さんはそう言うと、店の事務所で萩原に興梠幸代ちゃんを紹介したとの事。
「祖母ちゃんも働けんなるし、バイトでん人件費が余計にかかる。2代続いた店を俺の代で絶やす訳にはいかんし、ここはヤッパ俺が一肌脱ぐしかなかなて思うてくさ。その為にも早く仕事ば覚えて嫁さんでも貰おかねぇて思い立ったとたい」なんて言う萩原の話を聞きながら「流石親父さん、息子の性格を熟知している」と俺は小さくガッツポーズをした。
「けどよ~、鉄工所に行って店なんか継がんて言いよった兄貴が、急に継ぐなんて言い出してよ。まあ跡継ぎは俺って決まってっけどな。あ、悪かけど配達の途中やけんが」そう言い残すとカブに跨り颯爽と走り出した萩原。
後日俺が店の事務所へ顔を出した時、ナイスバディの上にコケティッシュな頭を乗せた女子高生が一生懸命帳簿を付けていた。
『1977年8月12日(金)』
N市の夏は『ばんば踊り』に始まり『ばんば踊り』に終るといっても過言ではない。
お盆近くになるとN市では、市内のあちこちで普通でない盆踊りが開催される。何が普通でないかというと、最初から最後まで『ばんば踊り』だけがエンドレスで繰り返し流されるのである。
地元の有名な民謡をメインに中間でアンパンマンの音頭を挟んでとか炭坑節とかも流すのが日本の盆踊りの普通と思うが、N市内の全て盆踊り会場に流れるのはこの音頭のみなのである。
そしてその全ての会場のスピーカーから流れるのは『正調ばんば踊り』と呼ばれるレコードであるが、振付は大人が踊る『正調』と、中学高校生いわゆる十代が踊る『ディスコ調』と呼ばれる変形の二つに分類される。
『正調』は何年たっても、これから先も、踊り継がれる振付に対し、『ディスコ調』はその時代の十代によって創作やアレンジされ踊られるのだ。
よって今の二十代が十代の時に踊っていた『ディスコ調』と今の十代踊る『ディスコ調』とは似て非なる事が多い。
このファクターに因って、ばんば踊りの輪は、内側から『ディスコ調最新バージョン』『ディスコ調約五年前バージョン』『ディスコ調ぽいばんば踊り』『正調』というバウムクーヘンを形成する。
そして踊り手はみんな、『年齢と共に内側から段々外側弾かれていき、アウトオブばんば踊りと呼ばれる敬老席を経由して、最後は供養される側に行かれる』というばんば踊りに、人生の縮図を見るのであった。
『1977年8月12日(金)② マーライオン』
久し振りに『ばんば踊り』を10セット程踊りハイになった俺と萩原は俺の家で飲もうかという事になり、「高校の時はいっつもコレやったねぇ~懐かしかぁ」と言いながら途中の酒屋で萩原が買ったのは、1Lのコーラの瓶とレッドのwサイズである。
俺の経験上嫌な予感がする。
そして家について電話で呼び出した神田君が自宅の流しの下からくすねて来たのが、白波の一升瓶。
俺の経験上もっと嫌な予感がする。
「浩一~、ビールはお父さんが全部飲んでしもうとった」そう言って下の階から母親がぶら下げて来てくれたのが、中元で貰った地元の甘口の日本酒。
俺の経験上とっても嫌な予感がした。
俺達は『お母さんに見つからないエロ本のスタンダードな隠し場所が持つ落とし穴』について熱く語らいながら、ついに白波の一升瓶と日本酒の一升瓶を経由してコークハイにたどり着いた。
夜も更け、経験上すぐそこまで『アイツ』が迫って来ている気配を察知した俺は、『そろそろ酔いに任せてたまには平凡な朝を迎えませんか?』という提案をした。
萩原と神田君もたいがい酔っているという自覚症状があったのかこの提案に心地よく御賛同頂き、俺達は布団の上に横になった。
横になったからといってまだ安心は出来ない。
逆に横になる事で危険度が増すことを、俺は経験上知っている。
息を殺して二人の寝息を窺がう俺。
萩原が小さくシャックリをした。
「来たわっ!」どんなに小さな音も聞き逃さない003フランソワーズの声に素早く反応した009島村丈の如く一気に加速した俺は、布団に横たわるマーライオンを抱き起しその吐水口を窓の外に向けていた。
「ふう、間一髪だった」
地球の平和をギリギリの所で救った俺は、神田君はどうしているかな?と振り返った。
「やばい!誘爆だっ!」
振り返った先には、上向きで寝たまま口に手を当て、自爆を阻止しようとしている神田君が居た。
神田君ムリだ!その手ではマーライオンの噴水を堰き止める事は出来ない。逆にそのお座敷水芸は被害を広範囲に及ぼすことを俺は経験上知っている!
「間に合わない・・ここまでか・・・」
そう呟いた俺の指先に触れたのは『高2当時付き合っていた彼女が部屋に遊びに来た時、ミニスカートで2時間座ったクッション』であった。
「さらば青春の匂ひ・・・・」俺は神田君の顔に照準を合わせると、思い出の匂い付きクッションを発射した。
その身を挺して神田君の自爆被害を最小限に食い止めた俺の青春の思い出の匂い付きクッション様は、次の日、新聞紙とビニールに包まれ燃えるゴミとしてその生涯を終えられた。
『1977年8月13日(土)』
「へぇ~『にわかしぇんぺい』てホルスタインから作るんだぁ」神田君は博多駅デイトス地下街みやげ物売り場に作られた『ひよこ牧場』のまん中に立って『にわかしぇんぺい』と書かれた『萬盛堂』のトラックの荷台に次々とホルスタインが積まれていくのを眺めている。
親方からいつのまにか『ホルスタインを数える役』に大抜擢された神田君が「九五匹、九六匹、九七匹、九八匹、九九匹・・・」と数えていると、百匹目のアグネスラムの顔をしたホルスタインが突然筑紫口コンコースを目がけて逃げ出した。
「ちょっと~まちんしゃい~!」と笛を吹きながらアグネスホルスタインを追いかける神田君に、九電記念体育館でコンサートを終えて駆けつけたトムジョーンズも加わり筑紫口バス乗り場が大パニックになる中「神田君!神田君!」と呼ぶ声がする。
神田君が後ろ足で立ち止まって振り返ると『スクール水着で腕を組み一生懸命胸に谷間を作ろうとしている駅前の資産家の一人娘だけど貧乳』が泣きながら立っていた。
そこで夢から覚めた神田君は、ベッドに横になったまま、自宅の勉強部屋の天井に貼られたアグネスラムの胸に申し訳ない程度に貼りついたラスタカラーのビキニを眺めながら、生まれて初めて自分の将来を天秤にかけていた。
『1977年8月16日(火)』
N市内の中心部を流れる中瀬川その橋のたもとにチキン南蛮発祥の店『味の小倉中瀬本店』がある。
その店の奥座敷に資産家の一人娘の両親、その向かいに神田君と資産家の一人娘(貧乳)が座っていた。そう、神田君の天秤はアグネスラムとは反対側に振れたのだった。
どっかの馬の骨を目の前にした貧乳の乳じゃない、父が切り出した。
「神田君は、七隈大学だったね?学部は?」
「商学部商業学科です。」
「ほう、でゼミでは何を?」
まるで何が何でもコイツを犯罪者に仕立て上げないとコッチの気が済まないといった職務質問が続く。
やがて貧乳の父の職務質問に追い詰められた神田君は連日ストップ安を更新し『とうとう明日には上場廃止か』というところで貧乳の母が職務質問を挟んだ。
「お父さんは、どちらにお勤めかしら?」
「え、N市役所です。」
「ほう、部署は?」ほんの少し乗り出す貧乳の父
「ええと、都市計画です。」
「え、あんた神田部長さんの息子け?!」
貧乳の父の会社は不動産と建設、土木が大きな柱であった。
その時、貧乳の両親の心の中でタカタ社長が「お買い得~!」と叫んだのが神田君にも聞こえた。
取り調べ結果に大満足顔の貧乳の両親が神田君達二人を残して店を出るのと入れ違いに店に入って来たトム・ジョーンズは、躊躇なく神田君の股間で腰を振りながら躍り始めた。
そしてこの夏、一人娘は「タラちゃん」を懐妊した。