七話
それからサチは柿沢にわざとあわないようにした。
といっても、彼の方もサチを避けているような状況だから、結果的に同じ学校にいるにもかかわらず、彼と会うことはなかった。
考えてみたら、ただ元に戻っただけ。
もともと柿沢とサチは行動範囲も、交友関係もかぶるところはこれっぽっちもなかった。だからこそ、サチは柿沢のことをほとんどしらなかったわけだし、この1か月のことだって柿沢が声をかけなかったら永遠に知らないままだっただろう。
そのことは周囲も同感だったらしく、最初こそちら二人が一緒にいないことに興味を持つものもちらほらいたが、それだって数日でまるで潮が引くようにいなくなってしまった。
そうなってくると今までのことは、まるで夢だったようにも思える。
そもそもサチの人生というのは、柿沢たちのように注目されるようなこと皆無だった。逆に言えば柿沢と一緒にいたあの時が夢の中の出来事で、今が現実ともいえる。
そう、この何もない日々。代り映えのしない毎日。
大きな事件も起こらない。おそらくずっと続いていくだろう平凡だが平和な日常。だが、その日の放課後、その平凡で平和な時間は崩れ去った。
「田口さん?」
下足室で靴を手に取ったまま、サチは思わず振り返る。
サチの真後ろにいたのは、あの日、柿沢とマナがもめた日、二人の間に割って入った人だった。
癖毛風のゆるふわヘアに、垂れ気味の眼。柿沢とはタイプこそ違うけれども、彼もまた整った顔立ちをしていた。
「あ……」
「えーと、タグチサチさん、でしょ?」
にこにこ笑う彼に、サチは靴をもったままこくりとうなずきながら、ちらりと彼の制服の胸元を見る。通常ならそこには各々名前が彫られたプレートがあるはずだったからだ。
彼の胸元にもちゃんとプレートはあった。だが、そこに彫られていた名前は、なぜか柿沢のものだった。
思わずえっと声をもらすと、彼はくくっと笑みを漏らした。
「あー、田口ちゃん、オレのことしらない? えー、けっこう、ショックー」
「あ、ご、ごめん、なさい」
慌てて頭をさげかけたサチの肩を、サチは笑いながらたたいた。
「冗談冗談。オレね、佐川。柿沢とは同中」
「はあ……」
なるほど。だからあれほど親しげだったのか。
柿沢からは中学の時の話を一つも聞いていなかったことに、サチは今更ながら気が付いた。はあ、と気の抜けた声を漏らすサチに、佐川はぐっと顔を近づける。
「ねー、田口ちゃん、今日暇?」
「は?」
ぽかんとするサチに、佐川はニッと笑う。
「暇だよね? 暇ならさ、ちょっと付き合ってよ」
「え? いや、私は暇じゃ」
慌てるサチの手を、佐川は問答無用でつかむ。
そして暇じゃないと騒ぐサチを佐川は鼻歌でも歌う調子で、これまた問答無用で引っ張り出した。
佐川が向かったのは、柿沢といったことのあるファーストフード……ではなく、その向かい。駅前のロータリーをはさんだ反対側にあるカフェだ。
アメリカに本社があるというその店は、いつも学校帰りの生徒たちや、しゃれた格好をした人たちでごった返している。
「えーと、オレはキャラメル……、いや、新作のベリーのやつかなー。さっちゃんは?」
「……は?」
さっちゃんと呼ばれたサチは、非常に不機嫌そうな顔をしたままカウンターでメニューを凝視する佐川を見る。
「……あの、さっちゃんて」
「ん? メニューきまった?」
にっこり笑う佐川に、サチは小さくため息をつく。
柿沢といい、佐川といいどうして周りの意見。主にサチのだが、聞いてくれないのだろうか。
どうせ、ここでいやだといっても佐川がまともに相手をしてくれるとは思えず、サチはしぶしぶアイスティーを選んだ。
頼んだものを受け取り、ちょうど空いた席に座る。
ファーストフードとはちがい、店全体がどこか大人びた雰囲気にサチは感じた。
落ち着かなさげにちらちらとあたりを見回すサチの真向かいにすわった佐川はシロップがたっぷりかかった生クリームをひとなめし、そして一口すする。
「あー、甘い」
「……そうですね」
生クリームにシロップだ。これで甘くないわけがないだろうに。
思わずうなずいたサチに、佐川は小さく笑う。
「さっちゃんって、ホント面白いよねー」
「そうでしょうか」
「そうだよー」
佐川がうんうんとうなずく。
「同じ年なのにずーっと敬語だしさ。なに? オレ、怖い?」
佐川の問いに、サチは少し困ったように首をかしげた。
怖いというよりも彼のような人とどう接していいのか、わからないのだ。だが、それをいったところで佐川に理解してもらえるともおもえなかった。
曖昧に笑うサチに、佐川は持っていたカップをテーブルに置きふうん、と小さく呟いた。
「レイジともそんなかんじだった?」
「え?」
思わず目を見開くサチに、佐川は空になった両手を軽く組み、椅子の背もたれにぐっと体を預ける。
「ほら、レイジって愛想もあんまりよくないしさ、かっこいいけど優しいわけじゃないじゃん。だからさー」
「いえ」
サチはきっぱりと口にする。
「柿沢君は優しかったです」
「……へえ」
予想外だったのだろう。サチが堂々と答えるとは、思ってもみなかったのだろう。少しだけ目を見張った佐川に、サチはしまったと心の中で唇をかむ。
この一か月、柿沢のことに関して佐川たちのグループからはあまり良く思われていないことは薄々感じていた。
特に彼らと仲の良い女の子たちからはマナほどではないものの、同じ様なことは遠まわしにいわれていた。
そういったときはたいていサチは、感情を表にださず努めていつも通りの態度になるように心がけていた。そうすることで無難にやり過ごしていたつもりだった。
もちろん由利やジュンは、サチの対応に難色をしめしていた。
由利はいうまでもないが、ジュンまでがあまりいい顔をしてなかったことは意外だったけど。
だけど、サチは実体験から感情的反応してもいいことがないと知っていた。
だから佐川から言われたことにも、いつも通り淡々と対応するつもりだった。
だけど、思わず出たのは本心だった。
じっと見つめる佐川に、サチは小さく息を吐いた。
「……あの、本当に優しかったんです」
何と言われようとも、あの一か月サチは柿沢に対して嫌な気持ちになったことは一度としてなかった。
畳みかけるように繰り返したサチに、佐川は一拍置いたのち、「そっかー」と笑いながら言った。
「柿沢、やさしかったんだー。まあ、見てりゃわかるけどねー」
「……え?」
「だってさぁ、毎日毎日あいつ、見たことないぐらい楽しそうにしてんだもん。なんかいいことあったのかなーって思ってたらさー、なんと女の子と一緒にいるじゃん。それも見たこともない子とさ。こりゃ、ホンキなのかなーって」
にこにこわらいながら、佐川はぐっと顔を近づけた。
「ねえ、田口ちゃんさ、オレと付き合わない?」
あまりに唐突すぎる話だった。
サチは奇妙なものでも見るかのようにまじまじと目の前の佐川を見つめる。そして小さく息を吐き、無言でアイスティーを一口飲んだ。
「ちょ、ちょっと! さっちゃん、オレの話聞いてた?」
「はい」
「……じゃあ」
サチはアイスティーのカップをテーブルに置くと、再びじっと佐川を見る。
「一体何を言いたいんですか?」
「え?」
佐川が口にした言葉は、柿沢のものと同じだったのだ。
これを悪趣味と言わずして何をいうのだろう。思いっきり顔をしかめたサチに、佐川はあわてたように両手を振る。
「や、違う! そういう意味じゃなくて」
「じゃあどういう意味ですか?」
「どういうって、さっちゃんのこと好きだって」
さらりと好きといった佐川に、サチは眉を寄せる。
「……あの、そういうのあんまり信じられないですけど」
そもそも柿沢の時も思ったが、サチはお世辞にも男ならだれもが振り返るような振るいつきたくなるような美人ではない。
ジュンや由利からはかわいいと言ってもらえるが、それだって多分に友人のひいき目があるだろう。けれども、サチはわかっていた。自分の見た目がとびぬけているわけではないことを。
もちろん、彼女だってむやみやたらに卑下しているわけではない。
お互い知った仲の相手から好意を寄せられているとわかったら、それなりに考えもするだろう。しばらく悩むかもしれない。
けど、こと佐川に関しては面白いほど関わり合いはない。
なにしろ佐川の周りには常に派手めな女の子が群がっていて、関わりあおうものならば何をされるかわかったものではない。
当の佐川本人もそれを楽しんでいる風があった。
サチにとっては柿沢も遠い存在だったが、佐川はさらに遠い。むしろ違う星の人ぐらいの印象しかない。
その人が好きだなんだといわれても、サチにとってはうれしいよりも先に困惑しかおこらなかった。
そう言い放つサチに、佐川は当初驚いたように目を見開く。
そしてしばらくしてからがっくりと肩を落とし、大きく息を吐き出す。
「……なんなのー」
「話ってそれだけですか? だったら」
これ以上話すことはないとばかりに立ち上がりかけたサチに、佐川はあわてて押しとどめる。
「ちょ、ちょっとまってよ!」
「……他になにか?」
もうサチの顔には笑顔の欠片もない。無表情で尋ねる彼女に、佐川は椅子の背もたれにだらしなくもたれながら、ため息をつく。
「さっちゃんって、かわってるよね」
「……はあ」」
「そうだよ。だって、レイジに近づく子ってたいていあいつの顔目当てじゃん」
「そうなんですか?」
再び椅子に腰を下ろしたサチに、佐川は先ほどまで浮かべていた笑みをすっとかき消しふてくされたように口をとがらせる。
「そーだよ! そういう子って結局誰でもいいわけよー。背が高くてー、見た目が良くて、連れていて目立つ奴ならさ。だからオレが声をかけると面白いほどころっと態度を変えるんだよ」
「……ふうん」
自慢だろうか。
サチは一瞬思った考えを、すぐに打ち消す。なぜなら、話している佐川の態度は決して楽しいといっているようには思えなかったからだ。
「……なんでそんなことするの?」