五話
「ごめん、待った?」
「あ、ううん」
ゆるゆるとかぶりをふると、柿沢は慣れたように行こうかとサチを促す。
その様子はいつもと寸分違わない。
まるで昼休みのことなど何もなかったようだ。けど、とサチは思う。
昼休みにやってきたあの子が、柿沢のところにいかなったとはとても思えなかった。
当たり前のことなんだろうか。ちらりと見つめたサチに、柿沢はほほを緩める。
「どこかいく?」
「あ……えと……」
いきなり言われてもサチにはぱっと思い当たるところはなかった。
そもそもサチの行動範囲はさほど広くはない。かろうじて知っている場所は、柿沢にとってはさほど目新しい場所でもなかった。
うーん、と黙り込んだサチに、柿沢はちらりと笑う。
「昨日も一昨日も付き合わせたじゃん。今日は田口さんの行きたいところに付き合うよ」
「え……でもな……」
行きたいところといわれても。
うーん、うーんと必死に考えた挙句、向かった先は駅の反対側にあるショッピングモールにある本屋だった。といっても、取り立てて珍しいものでもなくごくごく普通の本屋だ。
「ここ?」
「あ、うん」
おずおずとうなずいたサチに、柿沢はへえとつぶやく。
「田口さんって本好きなの?」
「あ、別に……、思い当たるところがなくて」
ごめん、と謝るサチに、柿沢はいやいやとかぶりをふる。
「俺が無理やりいわせたようなものだしさ」
「なんか、思い当たるところとかなくて」
あまりに芸のない場所に、サチはうなだれる。
この一か月、柿沢はいろんなところを案内してくれた。
そこはサチが知っているところもあれば、知らないところもあった。だが、たいていがサチにとっては初めての場所だった。
そんなところでも柿沢は、サチに親切だった。
その姿からは、由利の言うようなことはどうしても信じられなかった。だが、同時にやはりどうしてサチなのかと思った。
うなだれていサチの肩を、柿沢はぽんとたたく。
「田口さんはどんな本を読むの?」
「私? 私は……あの、絵本とか」
「絵本?」
柿沢は少し驚いたような顔をした。
その柿沢をサチは絵本のコーナーに案内する。そこは海外の絵本が所せましと並んでいて、その中の一つ。絵本というよりは小さな雑貨がごちゃっと乗っている写真が表紙の本を指さす。
「これ?」
「そう。これね、いろんなものを探すやつなの。例えばほら」
サチはぺらりとページをめくる。とそこもまた表紙と同じように雑貨や小物が並んでいた。そしてページすみに一文が書かれてる。
「小さなダイヤの指輪?」
不思議そうな柿沢に、サチはふふと笑いながらうなずく。
「ここにあるんだって」
「へー」
一瞬目を丸くした柿沢は、ページへと視線を落とす。
しばらく視線をさまよわせたのち、あっと小さく声をあげた。
「あった!」
柿沢の長くてすこしばかり骨ばった指がページの隅をさした。
石にみたてたチョコレートの石垣の隅に何気なくダイヤのたてづめリングがあった。
「早い!」
思わずもらしたサチに、柿沢はぱっと笑う。
「マジか」
「うん。私ね、なかなか見つからなくて結局買ったもん」
「買ったのかよ、すげーな」
笑う柿沢につられるように、サチも笑った。
初めてだった。この一か月サチが柿沢の前でこれほど笑ったのは。
それから二人はいろんな本を見て回った。柿沢はやはりバスケの雑誌を手にとっていた。けど、結局柿沢が買ったのは、最初にサチと見たあの絵本だった。
「本当に?」
「ホント、ホント」
柿沢はわらいながら絵本を包んだ紙袋をたたく。
「ほかに気になるしさ。それに田口さんも持ってるでしょ?」
「そうだけど。私の本、貸したのに」
絵本はやはり安いものではない。いい絵本だとは思うが、ほいほい買える品物ではない。
サチが貸すといったものの、柿沢は自分でも欲しかったといった。
本屋を出た二人は、まだ時間があるということで途中のフードコートによる。そこはやはり学校の最寄り駅が近いことから、サチたちの学校の制服姿もちらほら見えた。
と、その中に昼間サチのところにきたあの女生徒の姿も見えた。
彼女はどうやら友達と着ていたのだろう。やや大きな笑い声をあげていたが、サチたちの姿を見るやいなやさっと顔色をかえた。
いやだな。
サチは一瞬よぎったその気持ちをなんとか押し殺す。
ちらりと隣をあるく柿沢を見ると、あの女生徒の姿にまだ気がついてはいなそうだった。
「なんか飲む?」
「あ……う、うん」
ぎこちなくうなずき、フードコートにあるファーストフードに向かう。
そこでサチはアイスティー。柿沢は炭酸飲料を買った。そして時間柄ほとんど開いているテーブルの一つへと向かう途中、二人の行く手を遮る影があった。
「柿沢」
怒りを含んだ声は、あの彼女のものだ。
昼よりも若干強い視線で、彼女はまずサチを、それから柿沢を見る。
柿沢はいきなり目の前にあらわれた彼女に、一瞬驚いたような顔をした。そしてすぐさますっとその顔から表情を消した。
サチの見る、柿沢のはじめての顔だった。
驚いたように見つめるサチとは裏腹に、目の前の女生徒は軽く眉をあげただけだった。
「あたし、言ったよね。本気なのかって」
女生徒はかみ砕くようにゆっくりと口をひらく。
「みんな、柿沢のことホンキだって。だから、こういうことやめてほしいって」
「……ふうん」
彼女の声はきついが、すがるような色がにじみ出ていた。みんな、とは言っているが、本心は彼女自身のことだろう。
だが、それにこたえる柿沢の言葉はひどく冷たく、サチにはきこえた。
「で? 話はそれだけ? 邪魔なんだけど」
ほとんど吐き捨てるように言い放った柿沢は、打って変わった態度でサチを促した。
それはあまりにもあからさまな態度だった。
こんな態度をされて怒らないわけがないだろうと思ったが、予想通り彼女の顔が硬くこわばった。
立ちすくむ彼女に気が付いたのだろう。先ほどまで一緒にいた彼女の友達が慌てて駆け寄るのがみえた。
だが、柿沢は彼女たちの存在をあっさり無視した。
サチを彼女たちから隠すように衝立のあるテーブルにつれていった。
そこまでされて追いかけてくる勇気はなかったのか。彼女たちの声も足音も、サチの耳に届くことはなかった。
それは緊張で体をこわばらせるサチの真向かいに座る柿沢も同じだったのだろう。
持っていた炭酸をストローもつけず、ぐいっ飲み下す。
そして大きく息を吐くと、柿沢はうつむいたままごめん、とつぶやいた。
「柿沢君のせいじゃ……」
あまり深く考えずに口にしたサチの言葉を、柿沢はかぶりを振って押しとどめる。
「いや……俺のせいだ」
そう言った言葉に、サチはわずかに首をかしげる。
「あの……、一つ聞いてもいい?」
尋ねたサチに、柿沢はのそりと視線をあげる。
そこに先ほど本屋で見せた笑みはかけらもなかった。ただただ疲れたような表情がそこにあった。
正直なことをいってしまえば、疲れ切っている彼に今、尋ねなければいけないようなせっぱつまったものはなかった。
けど、もう口から言葉は零れてしまった。
柿沢は「なに?」とぎこちない笑みとともに返した。
「……あ、いや、……あの」
へへ、と小さくわらい、サチは氷が解けかけたアイスティーを一口すする。
「えーと、あの、さっきの絵本。違うバージョンのもあるんだけど、今度貸すよ」
「ん、ありがと」
気を使ったことはきっとわかっている。
現に柿沢は少し困ったような顔をしていた。サチは心の中で正大なため息をつく。
ああ、失敗だ。
サチは今日ほど自分のコミュニケーション能力や、国語力の無さを悔やんだことはない。もしも逆の立場――サチが別の男子から好きだのなんだの言われるかどうかは別として、そういうことになったとしたら、きっと柿沢はうまいこといってサチの気を紛らわしてくれるだろう。
彼はそういうことにソツがないように思えた。
けど、残念ながらサチは今までの人生でこんなシチュエーションに出くわすことなんてなく、その対処方法なども残念ながら学んではいなかった。
だからなんとか気を紛らわそうとした結果が、あの言葉だった。
だが、結果は御覧の通り。柿沢の気分は一ミリも上昇してないのは、見ての通りだった。
二人の間に落ちた沈黙に耐え切れず、サチはのども乾いてないのにゴクゴクとアイスティーを飲み下す。
味なんてもう、ほとんどわからなかった。
あっという間に飲み終わってしまうと、サチはますますどうしていいのかわからなかった。
無力だった。
サチはこの一か月、柿沢と一緒にいる間、それなりに――いや、正直にいってしまえば楽しかった。違う世界を垣間見れたような気がしたからだ。
だが、それは柿沢が自分にしてくれたことで、サチから彼にしたことはなにもなかった。
だからこんな時ぐらいは、と思ったのだが。
「帰ろうか」
ぽつり、と柿沢が切り出す。
はっとして顔をあげたサチに、柿沢は引きつったような笑みを見せた。
「なんか、ごめん」
「え!? ちが、柿沢君のせいじゃないよ!!」
ぶんぶんと首をふったサチに、柿沢は何も答えることはなかった。
ショッピングモールを出たときにはすでに頭上には小さな星がちらちらと瞬いているのがみえた。東の方にあるマンションの脇に見えるのは欠けた月だ。
細い糸のような月はともすれば周りの闇に飲み込まれてしまいそうなほど、か細く頼りない。丸くてふっくらとして夜の闇を煌々と照らしている月と、同じものとは思えないかった。
それは数歩前をあるく今の柿沢のようだと、サチは思った。