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爾、戒めよ  作者: 子志
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其の三

 この頃、中原に(てい)という国がある。

 この国の外交の難しさとは、晋と南方の大国()との間に挟まれている事であった。

 晋に付けば、楚が攻めてくる。楚に付けば、晋に討伐される。

 故に鄭の国は昨日晋についたと思えば明日は楚に従う、というようなめまぐるしい外交を展開せざるを得なかった。


 そして今、楚に与した鄭を討伐すべし、という論が、士燮の目の前で声高に唱えられているのだった。

 士燮はこの時、朝廷では第二位の卿であった。彼は主戦論の渦巻く中で、徐に口を開いた。


「私が考えるに、盟下の諸侯が皆離れていってこそ、この晋は治まるのではありませんかな」

 晋の嘗ての名君、文公が覇を称えてから五十年余り。威光の弱まった晋から離れていく諸侯を繋ぎとめようと必死になっている晋の大夫達は、一様に士燮に怪訝な目を向けた。士燮は動じずに言葉を続ける。


「諸侯を盟下に置くが故に、ごたごたが起こるのです。諸侯なぞはみな苦難の本です。鄭を支配下に置けばまたそれが離れはせぬか、楚が奪い返しに来ぬかと心配事が増えるばかり。鄭をわざわざ奪いに行く必要などどこにありましょうや」

 士燮の言が終わると、郤至(げきし)という男がはっと失笑を漏らした。

 彼の序列は第八位。今晋で一二を争う大族、郤氏の傍流にいる男である。豪放な男で悪い人間ではないのだが、多少軽薄なところがあった。その郤至が、士燮の発言を揶揄するように言う。


「そう仰いますと、天下を治める王様というのはさぞや苦労の多いものでしょうなあ」

 誰かが笑う。しかし士燮は真剣な面持ちを崩さずに言った。

「王者とは、徳を成し遂げている者であり、遠くの人がその徳を慕って自ら土地を献上するのです。その為心配など無い。今我が国は徳が少ないにも関わらず王者と同じ功績を求めている。だから心配事が起こると言うのです。貴方は足元の土地も無いのに富貴を夢見ている者を見て快く思いますかな?」


 切々と、士燮は諭した。


 しかし結局士燮の意見は容れられず、晋軍は鄭へ向かった。士燮は中軍の佐将である。兵を率いて進みながら、士燮は嘆息した。

「人臣たる者は、国内が諍い無く纏まってから初めて国外のことを考えるものだと聞く。国内が纏まっていないのに国外に手を出そうとすれば、必ず国内に争いが起こる。何故今しばらく、国内の和睦に努めようとしないのか。国の皆と謀ってから軍事を起こせば怨みは自然に消え去るというのに」

 出陣し、鄭へ向かってからも、士燮は再三帰還を主張したが、受け入れられることはなかった。


 そして、鄭の地にて。

 楚軍が、鄭の救援に現れた。晋の大夫達は皆、楚軍と戦う意思を見せた。ただ一人、士燮だけが尚も反論する。

「晋の国内が治まらず、君公に徳が無いのに功績を挙げるべきではない。この戦、負ければまだしも幸運というもの。戦に勝って国外の心配が無くなれば、国内に問題が起こるのは必定です。何故今しばらく鄭と楚を捨て置き、外患として残しておかないのですか」


 外国との戦に負けるのはまだいい。真に憂うべきは、内乱による国の瓦解である。

 嘗ての名君文公は、継母の驪姫(りき)の起こした内乱によって十九年に及ぶ流浪を余儀なくされたではないか。驪姫の乱でどれだけの晋人が血を流し、国を追われたか、忘れたわけではあるまい。


 しかし、士燮の意見はまたもや却下された。士燮の憂慮をよそに、事態は進んでゆく。


 甲午の日、楚軍は晋軍に近接して陣を敷いた。その距離が近すぎて身動きが取れない事を案じた晋側は対策の為に話し合いをしようとした。

 その時、晋の陣列から走り出た者が居る。士燮の子、士匄(しかい)であった。彼は言った。

「陣中の竈を潰し、井戸を埋めれば平地は確保できる。晋は必ず勝つ。何を心配することがあろうか」


 言い終えた時、彼の眼前に戈の刃が迫った。驚いて身をかわした士匄の目に、怒りを露わにした父、士燮の姿が映る。

 士燮は晋国きっての良識的で穏健な人間である。子の士匄ですら、父が我を忘れるほどの激情に駆られるところなど見たことがない。その士燮が今、我が子に刃を向けていた。

「士匄――」

 父が再び戈を振り上げるのを見て、士匄は咄嗟に逃走を選んだ。逃げる我が子を、士燮が追ってゆく。


 士燮は怒っていた。我が子に殺意を覚えるほどに、である。


「国は――」

 走りながら、士燮は叫んだ。

「国の存亡というものは、天の定めるものだ。お前のような若造に何がわかる!しかも発言を求められる前にしゃしゃり出るとは何事か。秩序を乱す不届き者は殺さねばならない――」

 言いながら、士燮の脳裏に若き日の出来事が蘇った。


 ああ、そうだ。若い頃は自分も誤って、父に酷く叱られた。

 今はもう跡形も無い筈の額の傷が、ずきりと痛んだ気がした。

 あの日自分を杖で打ちすえた父の気持が、今にしてわかる。しかしあの時の自分の過ちと今回の我が子の行動が、同根とはいえ規模の大きく異なるものであることは確かであった。


 やがて士匄を追うのをやめた士燮は、戈を投げ捨てて地に膝をついた。

「父上、晋は――」

 士燮の呟きをかき消すように、軍鼓が高らかに鳴り響いた。


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