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爾、戒めよ  作者: 子志
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其の一

なんじ、いましめよ。

——よくよく、気をつけることだ。

 邸の中から暮れゆく陽を眺めつつ、士会(しかい)は過去に思いを馳せた。

 士会自身は、既に官界から退いている。かつてこの国の宰相を務めていた彼は、現在その職にある郤克(げきこく)に位を譲って引退したのだった。


 士会の居る国を、(しん)という。

 士会の若い頃から今まで、晋では激動の連続であった。


 文公の頃は良かった。流浪の果てに君主の位に着いた文公と、それを支える臣下達が一丸となり、晋を覇者の国へと押し上げた。

 しかし文公の没後、晋は臣下達の争いの坩堝と化した。

 文公の子、襄公(じょうこう)が夭逝してしまったのが、第一の挫折であったと言える。


 次の君主に誰を迎えるか。

 重臣達が争い、士会も節を立てる為に隣国へ亡命せざるを得なくなった。その上、後継争いの末に即位した霊公が酷い暗君であったのだから、救いようがない。

 晋側の謀略によって帰国した士会と、当時の宰相であった趙盾(ちょうとん)は再三霊公を諌めたが改善は見られず、ついには趙盾を謀殺しようとした霊公が趙盾の一族の趙穿(ちょうせん)によって殺されるという結末を招いた。


 度重なる暗闘の中、文公を支えた狐偃(こえん)の一族を始めとして、多くの家が滅んだり没落したりしていった。

 それを、士会は間近に見て来ている。故に、彼は如何にすれば人の怨みを買わず、乱に巻き込まれず、無事に一族を保てるのか、常に自問してきた。


 まだ、答えは出ない。

 ただ今出来ることは、出来うる限り怨みを買わず、驕らずに生きていく事、そしてそれを子や孫に教えてゆくことであろう。


 小さく溜息を吐いた士会は、出仕している子の士燮(ししょう)が未だ帰宅していない事に気付いた。

 既に陽は暮れなんとしている。普段ならば、もう帰宅している筈である。

「燮はどうした」

 家人に訊いても、まだお戻りになりません、というわかりきった返事しか返ってこない。眉を寄せた士会は、自ら門の所まで出向いて息子の帰りを待った。


 程無く、士燮は帰ってきた。何か事故のあった様子は無く、寧ろどこか得意げですらある。

「何故遅くなった?」

 士会は士燮に問うた。士燮は胸を張って答える。

「秦から来た客人が、朝廷において謎かけを出したのです。我が国の重臣達は、誰も答えることができませんでした。それを、私は三つも解いてきたのです」


 士会はかっとなった。


 そもそも、人の答えられなかった事に得意げに答えるのは、怨みを買う元である。たとえ些細な逆恨みであっても、重大な結末をもたらすことがあるということを、士会は嫌というほど思い知っていた。


「そこへ直れ、燮」

 怒気を隠そうともせず、士会は息子を叱りつける。

「よいか、重臣方は答えられなかったわけではない。年長者に遠慮して譲っていたのだ。それを……」

 士会は既に若くはない。震える手で、杖を握りしめた。

「それを、お前のような若造が、三回も得意げに答えて恥をかかせたのだ。何という事をした!」

 そうした小さな怨みが知らぬ間に積み重なって強大な一族を滅ぼしていくのを、士会は目の当たりにしてきた。


 士会は杖を振り上げた。

 たとえ厳しすぎると言われようとも、ここでしっかり分らせておかねば、自分の子孫はすぐに絶えてしまう事になりかねない。

「そんなことでは、もし私が晋にいなければ、お前は何日ともたずに滅びてしまうぞ!」

 杖が士燮の頭を打った。冠を留めていた簪が折れ飛ぶ。


「……よいか、士燮」

 血の流れる額を押さえて茫然とする息子の前に屈み、士会は懇懇と諭した。

「どこで怨みを買うかわからぬのだ。自分が殺されるだけならばまだしも、一族根絶やしにされてから気付いても遅い。避けられる怨みは徹底して避けねばならぬ。わかるであろう」


 士燮はまだ得心がいかないようで、ぼんやりと士会を見ている。

 何故撲られたのか考えているのだろう、その目に憤りの無いのを見て、士会は少し安心した。打たれたことを怨む前に、自身の行動を反省する素直さを、士燮は持っている。それならば、士会の言葉は過たず士燮の心まで届くだろう。


「人は自分より上にある者を妬むことがある。気付かぬうちに小さな怨みが積み重なれば、狐氏のような大功のある一族ですら数代で滅んでしまう。その恐ろしさを、お前はまだわかっていない」

 士燮の目に、微かに光が生れた。士会の言葉を理解し始めたということである。

 士会は嘆息して、地面に座り込んだままの士燮を助け起こした。

「よく考えることだ。人を凌ごうとしてはならぬ」

 そう説教を締めくくり、家に入らせる。


 ちらりと見た夜空では、満天の星星が地上の苦悩など知らぬげに瞬いていた。


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