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さらばモモコよ ~モモコ解説~

作者: 坂本小見山

さらばモモコよ ~モモコ解説~



 自分で自分の作品を解説するのは、奇妙なことと思われるかもしれない。

実際、作品の内容に関しては、解説する余地などない。書くべきことは本文中に余さず書いた。

ここでは、内容に関してではなく、私がなぜ本作「モモコ」を書いたのか、言わば本作の「大義」に関して解説しようと思う。



☆童話を小説化するということ☆

 私が本作を書くにあたって目指したものは、まさに「童話の小説化」である。

現代、書店の絵本コーナーなどで見ることができる、あの「桃太郎」を、形を変えずにそのまま純文学にしてしまおうという、大胆な試みなのである。


 改変することでリアリティを出すのは簡単である。

子供が闘うのは不自然だから、大人にする。

動物が話すことはありえないから、動物をモチーフにした人間に変える。

・・・こうした改変を加えれば、たしかに簡単にリアリティが出せるだろう。

しかし、私に言わせれば、これは「インスタント小説化」である。

創作ではなく、盗作である。


 私の崇高な(不遜の誹りを恐れずに敢えてこう言うが)目標は、繰り返すが、「形を変えずに」童話を小説化することにあったのだ。

これは非常な困難が伴う試みである。

なぜなら、童話で語られなかった部分、例えば、なぜ動物と会話ができたのか、といった部分に、きちんと説明をつけなければならないからだ。

普通なら気にも留めぬ点を熟考し、破綻しない論理を構築し、それを骨格として、登場人物相互の心的交流を描かねばならないのだ。


 のみならず、いやしくも「小説」を名乗るからには、作品全体を貫く微妙な「ムード」を決定し、それを壊さぬように制御せねばならない。

また、季節の描写も、小説には不可欠だ。特に第Ⅱ部では、稲作の進行とキヨメの復讐劇をシンクロさせるといった工夫を凝らしている。

整合性だけを重視して、文学的要素を疎かにしたら、本作は真の「小説化」とは言えないものになってしまっていただろう。


 本作の執筆は、一から物語を構築するのと同等の知的労力を要する創作作業だったのである。



☆なぜ古墳時代に設定したのか☆

 執筆に先んじては、まず、時代を設定せねばならない。


 桃太郎のモデルは、吉備津彦命(きびつひこのみこと)と言われている。

神話では紀元前の人物とされているが、考古学的には、三~四世紀、古墳時代前期の人物と考えられる。

まだ、吉備国が高度な独立性を保っていた時代である。

私は、ある程度史実に沿わせることで、物語に写実性を与えようと考え、この時代に設定したのだ。


 この時代に設定することのメリットは、実は、歴史に沿わせられることだけではない。

次節で詳しく解説しよう。



☆第Ⅱ部について☆

 第Ⅱ部は、高名な戯作者・市場通笑の初期の代表作「桃太郎元服姿」を原作とした。

その理由は、次の二つである。

一、桃太郎の暴力性を批判した最古級の文献であること。

一、数ある同種の戯作の中で、本作の知名度が抜群であること。


 そのあらすじは、以下のとおりである。

鬼の娘「お清」が、桃太郎を愛するようになる。

お清は、鬼の娘としての宿命と、桃太郎への愛情の両方を裏切らずに済むよう、自殺してしまう。

そのことを知った桃太郎と鬼は、争いの愚かさを悟り、桃太郎は二度と鬼退治をしないと誓い、お清の父は角を切り落として仏門に入ったのだった。


 この原作をリメイクする上でも、先に書いた時代設定の恩恵があらたかに現れた。

古墳時代に設定することで、吉備国がヤマト王権に屈服する過程を描くことができ、それをキヨメ(お清)の復讐劇と対比させることで、「攻撃の応酬の愚かしさ」という原作のテーマを強調し得たのだ。



☆固有名詞の改変☆

 先述の通り、本作では原作のプロットを厳格に守っている。

だが、固有名詞に関してはその限りではない。

恣意的だろうか?否。これも、私の定めた方針のれっきとした一部なのである。


 古墳時代に合わせて、桃太郎は「モモコ」、お清は「キヨメ」とした。


 昨今、男女平等の観点からか、原作を捻じ曲げて桃太郎を女性化し「桃子」と銘打つ場合があると聞く。

モモコのネーミングには、それに対する、ちょっとした皮肉も込めた。


 鬼をなぜ「(れい)」としたのかについても解説せねばなるまい。

設定上は、本来の古代語の台詞では「Oni(鬼)」と呼ばれていることになっている。

この「鬼」の語源は、幽霊を意味する漢語の「(おん)」だと言われている。

すなわち、登場人物たちは、これを自分たちの言語に翻訳せず、漢語のままで用いていることになるのだ。

これを現代語に当てはめるなら、音読みの「(れい)」が適当だろう。

作中で、「(れい)」に必ずルビが振られているのは、音読みであること自体に意味があるということを示すためなのである。



☆時代を明言しなかった理由☆

 作中では、時代設定の明言を避けている。


 過去の世界とは、一種の別世界だ。

そこには、我々と同じように、独自の文化を持った人々が住み、悩み、喜び、ときには恋もし、それぞれの人生を生きている。

ところが、そこに「過去」というレッテルがはられると、「この現代世界の原型(プロトタイプ)」という意味が付加されてしまうのだ。

彼らには彼らの価値観がある。それは、外国人には外国人の価値観があるのと同じはずだ。

それなのに、我々はそれを「未発達」で「誤りの多いもの」という先入観を持って見てしまうのである。


 私は、そういった先入観を取っ払って、「昔の話」ではなく「別世界の話」として、読者諸賢に読んでいただきたかった。

敢えて時代を明言しなかった理由は、これなのである。


 古代語を、平仮名や万葉仮名などを使わず、敢えて片仮名とローマ字で表記したのも、「過去の日本語」ではなく、「一つの外国語」として古代語を感じていただくためなのだ。



☆用語の設定☆

 これと同じ理由で、国家の肩書や職業名は、古語をそのまま用いるのではなく、「使用人」「兵士」「神官」など、現代的な表現に「翻訳」するよう努めた。


 翻訳には解釈が不可欠であり、この解釈の如何によって、物語の意味も大きく左右されるので、決して疎かにはできない。

たとえば、本作では、畿内勢力を「ヤマト連合王国」と表現し、その圏内に収まることを「加盟する」と表現している。

この表現を捻出するために、私は数日頭を悩ませた。

ヤマト王権の統治形態は、大和国の部族連合の権力下に、周辺の政治組織が収まっている様相を呈していたとされており、これは、君主を伴う連合国家と言うことができる。

ここから、現代の国際感覚に沿うよう、違和感のない自然な表現を模索した結果、これらの表現にたどり着いたのだ。


 この他、

都→首都

朝廷→政府

国造→国王

古墳→陵墓

など、本作にはさまざまな言い換えがある。



☆文体への配慮☆

 最終部を除き、本作の文中では、外来語を使わないよう配慮した。


 当初、私は外来語を普段通りに使うつもりでいた。

なぜなら、先述の通り、これは「昔の話」ではなく「別世界の話」であるから、外来語を使わぬような配慮をすれば、あれほど避けていた「昔の話」の雰囲気が醸し出されてしまうと考えたからだ。


 そこで、序盤の、モモコと猿が洞穴で語らうシーンで、私は試しに

「欠けていたパズルのピースが見つかったような心持ち」

と書いた。

そのときに覚えたすさまじい違和感を、私は忘れられない。

「過去の日本」というレッテルを剥がしても、この世界観に、外来語はあまりにも不似合いであったのだ!


 このままでは、この作品のムードは破壊され、文学作品としての完成度は地に落ちてしまう。

そう直感し、私は即座に

「欠けていた土器の破片が見つかったような心持ち」

と書き換えたのだ。


 このとき、私はまさに「土器の破片が見つかったような」心持ちであった。



☆古代語☆

 本作の大きな見所の一つが、各登場人物の台詞の一言目(「(れい)」の言語は全て)が、古代語で書かれていることである。

(専門的な話になるので、興味の無い方は読み飛ばして頂いて差し支えない。)


 まず、ヤマト語は、万葉集などに見られる上代日本語である。

一般的には、ハ行は「pa pi pu pe po」と発音され、母音は「a i ï u e ë o ö」の八つが存在したとされている。本作でもこの説に従った。


 次に、キビ語は、先述の上代日本語から、形容詞の終止形を除去したり、四段動詞の連体語尾をオ列にしたりなどして、比較的古い言い回しのみに純化させたものである。

「方言周圏論」によると、近畿地方から離れるほどに、古形に近くなる傾向にあるとされるからだ。


 最後に、「(れい)」の言語は、万葉集十四巻に収録されている「上代東国方言」(平たく言えば古代の関東弁)をベースに、その特徴を強調したものである。(モモコが言及した「アンドゥマ」とは、「(あづま)」のことである。前鼻音を考慮して、当時の発音を再現した)

例えば、上代東国方言には、特有の否定の助動詞「なふ」があるが、「(れい)」の言葉では、否定形はこれのみを使い、「ぬ」「ず」は使わないようにしている。


 ちなみに、序盤に登場する「ガァン」は、「羊」を上代漢語(古代の中国語)読みにしたものである。([ɢáŋ])

「鬼」を「(れい)」としたように、羊も「(よう)」と表記しようかとも思ったが、「鬼」と違い「羊」を指す単語がまだ充分に浸透していないことにかんがみ、単純に音写することにしたのだ。



☆桃から生まれた?☆

 話が前後するが、本作では、いきなりモモコが旅をしているシーンから始まり、モモコの誕生のシーンは描かれていない。

この最大の理由は、超常的なシーンを露骨に描いてしまうと、その神秘性が損なわれる恐れがあるからである。

ざっくり言うと、「白けて」しまうのだ。


 だが、それだけではない。

私は予てより、桃太郎の誕生経緯について、ある憶測を抱いてきた。

憶測ではあるが、一応の歴史学的考察は経ている。

私は、この憶測を、本作にそっと忍ばせた。

いくつかの伏線をちりばめ、敢えて回収せず、そのままにしておいたのだ。


 この伏線を回収し、私が忍ばせた憶測を見つけるのもよし。

字面通り、本当に桃から生まれたとしてお読みになるのもよし。

読み方は、読者諸賢の自由である。



☆本作の未来☆

 本作の価値は、将来、確実に風化することが宿命付けられている。

その理由を説明して、この解説の締めとしよう。


 話は少し逸れるが、二百年ほど前には、桃太郎のあらすじは、今のものとは少し違っていた。

桃太郎は桃から生まれたのではなく、桃を食べて若返った老夫婦の間に生まれたとされていたのだ。

このように、童話の内容は、時代によって変化するのである。


 本作は、あくまで「この現代」における桃太郎の小説化を試みたものだ。

時代が変わり、童話自体が変容してしまえば、本作の意義は消滅してしまうのだ。


 最終部では、百子の息子の口を借りて、「昔話の成立過程」の普遍性を提示した。

「過去」は永遠に過去のままであり続けられる。しかし、「現代」は、やがて現代ではなくなってしまうのだ。

そして、新たな現代が誕生し、新たな「桃太郎」の標準(スタンダード)が誕生するのである。

「桃子誕生」という題名には、そんな意味が込められている。


 そして、風化する運命にある作品には、続編執筆の余地を片鱗も残してはならない。

だから、この物語はすべて百子の幻覚の産物であったということにしたのだ。

こうして、この作品の世界は、作者たる私自身の手によって、完全に完結したのである。


 ここに高らかに言おう。さらば、モモコよ!

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