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勤務二日目。
引っ越す前にゴミ捨て場で拾った何かを招いている猫の目覚まし時計を止め、手早く支度をして四畳一間の部屋を出る。築60年を超える木造アパートの軋む階段を下りると日差しが容赦無く風間に猛威を振るった。
お風呂がないアパートなので、昨日は銭湯を利用し汗と溜まった疲れを洗い落とした。金のない風間は風呂上がりのコーヒー牛乳を眺めるだけに留めておいたが、給料が入った時には必ず一本飲むことを誓った。
職場に向かう風間はやや早足で歩いていた。早足であるのには理由があった。
風間の住む部屋は、学園から徒歩圏にないのだ。
歩いて約一時間半。早足で行けば一時間で行けるかどうかの距離に風間の部屋がある。だから彼は少し早めに起床し、通勤費を浮かす為に公共交通機関などを使わずに学園へ向かう。
歩き始めて20分。ここで風間はあることに気づく。
——これ、魔法使った方が早くて楽だな。
自身の風の魔法を使えばあらゆる方法で学園に向かうことができる。わざわざ長い距離を徒歩で移動しなくてよくなる。
風間はあらゆる魔法術式を思い浮かべ、最善と思われるものを選択する。
選択基準は大きく分けて三つ。魔力消費量、維持難度、そして周りに与える影響の大きさだ。消費量は職務に差し障らないよう少ない方が好ましいし、維持難度、つまり術式のコントロールが難しければそもそも辿り通までに何度も術式を再構成する羽目になり結果魔力消費量が大きくなる。そして周りに大きく影響する場合、例えば周辺に突風を巻き起こしてしまう術式なら公安の魔法警備隊の取り締まり対象になってしまう。
よって選ぶのは魔力消費が少なく、制御が容易で、かつ周りに迷惑をかけない程度の規模のもの。そこまで条件を絞ると、使える魔法は限られてくる。
——まあこれなら大丈夫だろう。
風間は自身が使える魔法術式の中で、適切と思われる術式を組み上げる。
「移動座標、固定。魔力経路、確保。風追、展開」
詠唱が終わると同時に、風間は風に圧され自然と体が前に運んだ。
風追は術者の体に座標を置き、その座標に突風を押し当てる。そうすることで術者は大きな推進力を得ることができ、少しの力で素早い動きが可能となる。
勢いよく駆け出す風間。少し足に力を込めるだけで大きな促進力が作動し常人では到達できない速度で歩道を駆ける。他の歩行者を上手く交わしながら一定の速度を保ったまま走り抜ける。その疾走感は、自然と風間に言い知れぬ高揚感をもたらした。
時には大きく上へ跳躍し、横断歩道やどうしても横から抜けれない歩行者群を避けていったが、その浮遊感もまたたまらないものだった。
——いい風だな。眠気もすっかり冷めてしまった。
心地よい風を思う存分浴びて、風間は朝早くから起こされたことのストレスも全て吹き飛んでいった。
昨日は様々な状況や人に巻き込まれ精神的に疲れた風間は、何らかの方法で発散する方法を模索していた。通勤時にこれほど清々しい気持ちになれるのなら発散法として申し分ないと感じた。
通行人達がその目にも留まらぬスピードで駆けていく風間の姿を目で追っていくが、風間が立っていた場所に目が追いついた瞬間、風間は既に遠く離れその姿が小さくなっている。
この速度なら学園まで10分もかからない。意気揚々と学園に向かう風間。
すると彼は後ろから妙な気配を感じた。
何かが自分以上のスピードで追いかけてくる。そしてどうにもそれは人の形をしている。
もしかして警備隊の者が取り締まりに来たのか。不安を覚えた風間は足を止めずに振り向く。
するとその人は振り向く暇もなく彼の横まで並んできた。そして笑顔で彼にこう言った。
「おはようございます、先生。通学中に見かけたんで追いかけちゃいました」
追いかけてきていたのは警備隊ではなく、学園の生徒であるイースだった。しかし一生徒でしかない彼女が一体どのようにして彼のスピードに追いついてきたのか。
その理由は、彼女の足元を見てすぐに理解した。
「水の上を滑っているのか。なかなか速いな」
彼女の足元には小さな水溜りが発生し、その水溜りを伸ばしながらその上を滑っていた。術者を水と一体化させることによって自身が作り出した水の上を自由に動けるよう構築された術式。間違いなく高度な魔法だ。
昨日の授業で術式展開に失敗したとは思えない精度に、風間は驚きを隠せなかった。
「はい。でもこれが私が今出せる最高速度ですね。先生がもう少し速く走っていれば追いつけませんでした」
「だが驚いた、まさかこんな魔法を使えるとは。昨日もこの魔法を使えばよかったんじゃないか?」
「実技の時間でですか? そうですね、先生がそう言ってくれるならこっちを選んでおいた方が良かったかもですね。ですが先生に私が今練習してる魔法を見てもらいたかったんです」
「練習している?」
要するにイースは実力を見せる場所で、自分の一番自信のある魔法ではなく挑戦している魔法を選んだというわけだ。
人に見られる場所で試すことで集中力を上げ技の成功率を上げようとでもしたのか。風間は面白いことをするやつだなと彼女に対する認識を少し改めた。
そして風間はもう一点気づいたことがあった。
イースが今使用しているのは水属性の魔法。そして昨日彼女が挑戦していたのは氷を使った魔法だった。
本質的には似ている二つの属性だが、水が使えるからと言って氷魔法も同じように使えるということは基本的にはない。水属性の魔法を使う者が氷魔法を使おうとすれば、自身の水の魔法に温度調整を施さなければならない。水魔法の術式構成と温度調整の術式構成は全くの別物なので、その二つを同時に使用しなければならない魔法は当然、難度の高いものになる。余談だが、これは氷魔法使いが水魔法を使うときも同様である。
「はい、一ヶ月程前から先生たちに聞いたりして氷魔法を練習してるんです。ですが一向に安定しなくて、昨日もそれで途中で保てなくなりました」
——始めて一ヶ月か、こいつも鬼灯に負けず劣らず優秀な魔法使いだな。努力したんだろうが、持っている資質の面もあるだろう。あるいは優秀な師が付いているのか。
別系統の魔法は基本的には使えないが、自分の系統をうまく使って模したり強い関係性のある別系統であるならその限りではない。しかし言わずもがな、その難易度は極めて高い。
よって一ヶ月程度の期間で術式の形成まで持っていけるのは奇跡に近い確率だ。
彼女の才能に若干羨みつつも、それを口にはしなかった。
「しかし朝が早いな。そんなに早く登校してどうするんだ? まだ一時間以上あるぞ?」
「先生こそ、随分早いですね? 監視員の仕事はどんなことをするのかは存じ上げませんが、仕事が溜まってるんですか?」
痛いところを突いてくるな、と風間は返答に困った。嘘を吐いて多忙であることを装うことが頭によぎったが、そんなことをする必要性が見つからなかったので一瞬で否定し、そのまま説明することにした。
「そうじゃない。家から徒歩だと時間がかかるので早めに出たんだが、この方が時間の短縮になると今しがた思いついただけだ」
「先生の家って学園から遠いんですか?」
「まあな」
「じゃあなんで電車とか車を使わないんですか?」
こいつは自分の財布事情など全て把握しているんじゃないかと風間は疑わざるを得なかった。それ程までにイースは彼の痛いところばかり攻めてきていた。
「免許は持っていないので車も持っていない。電車は人混みが苦手なので乗りたくはない」
「なんかすごく言い訳っぽく聞こえますね……でも意外です、先生ほどの人ならものすごい高級車とか乗り回してるかと思いました」
「お前は俺にどんなイメージを持っているんだ?」
風間の経済状況は非常に困窮していると言わざるを得ない。車なんて高級品、今の彼にはローンさえ組めない。買えるとしたら車の玩具ぐらいのものだろう。
「だって先生ってものすごく強いじゃないですか。あれほどの力を持ってる人ならもう世界で活躍してて稼ぎまくってるものかと」
「生憎だが俺は至って平凡な生活をしている。どんなイメージを持っていても構わないが、そんなことは一切ないことだけ否定させてもらう」
無意識に嘘を吐いてしまったと風間は言ってから気づいた。平凡な生活をしているならそもそもこれほどお金に困っていないだろう。自分は無意識に見栄を張ってしまうような人間なのかと少し自分自身に失望する風間であった。
「もしお困りのようなら、少しだけ貸しましょうか?」
囁くように風間に告げるイース。その一言で、彼女が自分のことをある程度知っていることを瞬時に把握した。
「おい、それは一体どういう————」
なぜ自分のことを知っているのか問いただそうとしたものの、学園についてしまったので魔法を解除する為に一旦会話を中断する。そしてその後続けようとするが、
「アールストレーム君、おはよう! そしてあなたは、って、風間か!?」
校門の前に立っていたとある男性に会話を強制終了させられる。その隙を見てイースは会釈を済ませ早々に学園内に入ってしまった。
そして残された風間と校門の前の男。知らない声だったが、男のその顔には風間は見覚えがあった。
「あれ、どこかで会った気が……」
見覚えがあるからと言って、思い出せるとは限らない。
「久しぶりだな、風間! ほら、憶えてないか? 学園で一緒だった、生徒会長として何回かお前と話しただろう?」
自分と同じ学園出身の、生徒会長だった男。そのキーワードで、ようやく風間は目の前の男の正体に気づいた。
気づきは、した。
「あぁ。憶えている。しかし申し訳ないが、名前まではどうしても思い出せない。どうにも自分は人の名前を憶えにくい性格のようで」
「そうか、少し寂しい気もするけど、だがこうやってまた会えて嬉しいよ! 僕は地角流也。今はこっちで先生をしている。まさかお前がここに監視員として来るとは思わなかったよ」
流也は久しく会っていなかった旧友と再開した喜びを確かめるように風間の肩をポンポンと優しく叩く。流也が嬉しさを表す反面、風間は言い表し様のない居心地の悪さを感じていた。
確かに流也は彼の知り合いではあったが、友人であった記憶が彼にはなかった。何度か話をした仲、その程度の認識だった。もちろんそんなことを言うと話がこじれるので心の内に秘めておくが、どうして流也は自分と会ってこんなにも嬉しそうなのか、風間は理解に苦しんだ。
何せ風間は、友人として彼と接した記憶など一度もなかったのだから。
「いろいろあって、ここの監視員として面接を受けたら受かりまして。これからお世話になります」
「そんな硬い喋り方じゃなくていいよ。同じ学園出身の同級生だろう? もっと気楽に構えててくれよ」
「……そうか。ではそうしよう」
一瞬躊躇ったが、流也が言うので黙って従うことにした風間。彼にとっても丁寧な喋り方は窮屈だと感じていたのでその申し出は有り難かった。
「地角先生! おはようございます! 先生たちって知り合いだったんですか?」
登校してきた女子生徒のグループの一人が流也に興味津々といった様子で訪ねてきた。彼女の周りの女生徒たちも固唾を飲んで流也の返答を見守る。
別段隠す様子もなく、流也は淡々と答える。
「おはよう、皆。そうだよ、彼は高校時代からの友人でね。深い付き合いは残念ながらなかったけれど、とても優秀な魔法使いだよ、彼は」
そして流れるように称賛の声を送る。むず痒さを覚えながらも、風間はこれを否定する。
「そういうわけでもない。俺はまだまだ駆け出しだ」
「何言ってるんだ? 君ほど戦闘に秀でた魔法使いは他にいなかったぞ? 君に勝てる人なんて、学園のどこにもいなかったくらいだ」
流也は間髪入れずにそれを笑い飛ばす。風間が謙遜していると思ったからだ。
流也のその言葉を受けて、生徒たちもそれに納得する。
「そういえばあの鬼灯さんが手も足も出なかったって話を聞いたわ。もしかして本当なのかもね」
「信じられなかったけど、地角先生がここまで言う人だから、多分本当に強い先生なのね」
「風間、君は鬼灯君と戦ったのか?」
初めて耳にした事実に、流也は目を丸くした。
先生たちの間でも生徒たちの校内ランキングの情報はある程度回っており、その優秀さは把握している。無論、そのランキングの位で扱いが変わることはないが、気には留めている者も多い。
「んっ? あぁ、昨日ちょっとな。ただ別に余裕だったわけじゃないぞ。俺も大分苦戦させられた」
「でも勝ったことは勝ったんだね。あの子は本当に強くて優秀で、中には先生だって敵わない人もいるって噂なのに」
「まあ確かに強かったな」
昨日の戦闘を思い出しながら風間は頷く。少しでも油断していればあの怒涛の攻撃の波に飲み込まれる。そんな恐怖感を煽ってくるような戦いだったと、今更のように身震いした。
もしあの時少しでも躊躇いや術式の選択に手間取っていれば、今頃寝込んでいる頃ではないかと戦慄する。今頃になってあんな相手と何の準備も下調べもなしに戦い、なおかつ無傷でやり過ごせたことを褒めたやりたくなった。
「そういえば今日君は授業があるのか?」
生徒たちを見送った後、流也は次の話題に移る。久しく会っていなかった友と話したくて仕方がない様子だった。
「授業、というわけじゃないが自分が受け持つ実技の時間はある。午前に二つ、午後に一つだ」
「そうか。じゃあ俺もその時間に少しお邪魔してみようかな」
「なぜだ?」
「君が生徒たちを教えているところを見てみたくなってね」
「……一応繰り返すが、俺は別に教えたりはしないぞ?」
なぜだか流也は風間の仕事ぶりが気になるようだった。はっきりとした理由は分からなかったが、理由付なら風間にもできた。
——こいつは学生時代の俺を知っている。俺があの時からどれくらい変わったのか、知りたいのか。
流也は風間と同じ学園に通い、生徒会長という役柄あらゆる生徒たちと接してきた。風間もその例に漏れず、流也の世話になることもあった、かもしれない。疑問形なのはもちろん、風間本人が憶えていないからだ。
「それじゃあ午後の時間にまた。午後なら僕も授業はないから少し顔を出すよ。もちろん、迷惑になるならすぐ帰るから、心配はしないでくれ」
それだけ言い残し、流也は校門での仕事に戻った。
まあ見られていたところで自分がすることに変わりはないので断ることもせずそのまま校門を通る風間。彼はただ、流也が来ることによって生徒たちに変な変化が起きないことだけを願うのだった。




