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——昼休みの時間か。
眼下で生徒たちが急いで食堂に向かう様子を見て時間を確認する。
風間はそんな生徒たちを眺めながら自分が高校生だった頃を思い出す。
といっても思い出深い学園生活を送っていたわけではない風間は、自身の思い出の回想を早々に切り上げた。
そんな中、木陰に移動して勉強する生徒たちを見つけ、思わず風間は呟いた。
「頑張るなー、皆。目標を持って生きるというのはああいうことを言うのか」
少し羨ましく思っているところもあった。
今風間はなんの目的もなく、ただ目先の金を得る為だけに授業の監視役という任に着いている。夢や目標を持ってその仕事を請け負ったわけではない。
そんな彼だからこそ、余計にそういう生徒たちが輝いて、羨ましく見えた。次いで最後に思い描いていた夢を思い出そうとするものの、すぐには思い出せずこれも断念した。
——誰か来たな。おそらく生徒だろうが、一人で屋上で昼ごはんというのも珍しいな。
常に緩やかな風を自身の周りに巡らせている風間はその風の流れや乱れで物事を把握することができる。風といっても人が肌で感じることのできないほどの微風で、並みの術者には悟られない程だ。その感覚を長年の研鑽で身につけた彼は、今では背丈や体の僅かな動作でも、視認せずとも把握できるまでになっている。ちなみに先の鬼灯との戦闘で、竜巻で覆われながらも彼女の位置や行動を把握していたのも同じ理由だ。
「先生は目標とかないんですか?」
風間は怪訝な表情を浮かべる。
独り言を呟いただけなのに、待ってもいない返事が返ってきた。
入って来たのは知っていたが、自分の独り言に対して返答してくるとは思ってもみなかったのだ。
それにどこか聞き覚えのある声でもあった。残念ながら、この学校で彼の知り合いの女性といえば学園長と鬼灯のたった二人である。
聞き覚えがあるようなないような、そんな曖昧な声をこれまた曖昧な記憶と照合してみる。
学園長、ロザリーのような貫禄のある声色とは違う。しかしその話し方は自分を敵視している鬼灯のものでもない。そもそも彼女が人がいないところで自分を先生などと呼ぶはずがない。それに鬼灯とは違い、どこか柔らかな声色をしている。少なくとも風間の知り合いで、こんな話し方をする人はいない。
気配を把握していてもその人の輪郭まで把握するまでには至っていない。自分に話しかけてきたその人物の顔を確認する為ゆっくりと顔を向ける。
「誰?」
咄嗟に出てきたのがその言葉だった。
学生服を着ていることから生徒であることはわかったが、その彼女には見覚えがなかった。
栗色のショートボブを僅かに風に靡かせながら風間に微笑みかける少女。風間の返答を受けてか、見つめていた顔が少し寂しげに変わる。
「傷つきますね、さっき会ったばかりなのに」
「さっき、会ったのか? 悪いが、憶えていない」
「ほら、二時間目の実技の時間で先生が見てくれたじゃないですか」
自分が初めて請け負った授業の生徒の一人だと聞き、なんとか数時間前の記憶を辿ろうとする。しかしやはり印象に残っていないのか、彼女の名前はおろか、そこにいたことさえ憶えていなかった。
「あっ、その顔は忘れちゃったって顔ですね。本当に傷つきます」
「それについては悪いと思っている。どうにも俺は人の顔を憶えるのが苦手な様だからな」
「ふふっ。素直な人ですね。まあそれは今朝の授業で分かってましたけど」
口元を手で隠しながら控えめに笑う少女。そんな少女を見て、風間は意外な感想をあげた。
——こんな所作、あいつは絶対にしないんだろうな。そもそも似合わないだろうしな。
その女子らしい動きを見て、男勝りな性格の鬼灯のことを思い浮かべていた。鬼灯の女の子の様な所作を一瞬想像し、その嵌らない様に不意に笑いがこみ上げそうになる。
「高等科三年、イース=アールストレームです。私が出した氷の矢の魔法、見てくれましたよね? まあその後酷評されましたけど」
顔を逸らし不満を露わにするイース。明らかに風間が行った評価に不満を持っている様だった。
——そういえばいたな、そんな魔法を使っていた生徒が。確か氷の強度が足りずすぐに割れて崩れたんだっけか。印象に残っていないわけだ。
「それで? 俺に何か用か?」
「私とお昼、よければご一緒しませんか?」
思いがけない提案を受け、風間は思わず怯んだ。
彼が怯んだのにはとある理由があった。そしてそれは今の彼にとって非常に重大な問題でもあった。
風間がマギウス学園に就職した理由。それは生活に必要なお金を稼ぐ為である。
要するに。
困窮しているのだ。そんな彼が弁当なんてものを持参しているはずもなく。
イースが差し出してきた弁当が特に魅力的なものに見えた。色とりどりのおかずが、彼の食欲を駆り立てる。
「あっ、もしかしてお弁当持ってきてないんですか? よければ私のお弁当つまみます?」
そんな風間の思考を読み取ったのか、イースが立て続けに提案する。風間の目線は自然と弁当のサンドイッチに移る。
新鮮なレタスに肉厚のハム、濃厚そうな卵が彼の目を引いた。風間が思わず生唾を飲んでしまうほど食欲をそそる完成具合だった。
しかしふと我に返った風間は逆に問い返す。
「何が目的だ? 言っておくが俺は内申に関しては役に立てないぞ」
「違いますよ、先生! 私、別にそんなこと考えてません!」
イースは手を大きく横に振って即座に否定する。
「じゃあどういうつもりだ? 俺に何かして欲しいわけじゃないのか?」
「うーん、強いていうなら、私とお話しして欲しいです」
イースは少し考え込み、そして笑顔でそう言った。しかしその笑顔がまた風間を不安にさせた。
——一体どういうつもりだ? あれか? 俺を餌で釣って油断させておいて弱みを引き出そうと、そういう腹づもりか。しかし生憎だが俺は弱みは見せないぞ。
固い決意を胸に、風間は頷く。
「いいだろう。話くらいならしよう」
「ありがとうございます! じゃあ隣いいですか?」
「好きにすればいいさ」
その言葉を受け、イースはゆっくりと風間の横でお山座りする。そして自分と風間の間に持っていた弁当を置き、レタスとトマトを挟んだサンドイッチを一つ手に取る。
「さぁ、先生もどうぞ。味付はそこまで凝ってないのでお口に合えばいいんですけど」
別に構わない、食べらるものであれば。言いそうになった言葉を飲み込み風間もサンドイッチの一つに手を伸ばす。
「ではお言葉に甘えるとしよう。いただきます」
中でもカロリーの高そうなハムが挟んであるサンドイッチを一口頬張る。その味は、ここ最近主食が水だった風間には刺激的すぎるものだった。
——う、美味い! くそっ、弱みをポロっと言ってしまいそうになるくらい美味い!
風間はその弁当の美味具合に戦慄した。これが自白剤として使用されたなら抵抗もできず全て吐き出してしまう自信が風間にはあった。それほど使用されている素材と作られた工程が見事だった。
「ど、どうですか? 美味しくなかったですか?」
「————いや、美味いよ。いい腕だ」
「そ、そうですか————ありがとうございます」
イースは屈託のない顔で嬉しさを表現した。機嫌を良くした彼女はそのまま笑顔で自分のサンドイッチを口にする。
「それで? 聞きたい話とはなんだ? もちろん話せることと話せないことはあるが、それでもいいなら聞こう」
「そうですね、色々聞きたいことがあるんですけど。先生は何歳なんですか?」
「俺の歳が気になるのか? 歳は19だ」
「19歳ですか? 思ってたより若いですね。先生だからもっとご年配の方だとばっかり」
「それはそれで酷いな。若干傷つく」
「ごめんなさい! そんなつもりじゃ……」
「冗談だ、別に気にしていない」
「そ、そうですか! よかったー。それで、学校はどちらに行かれたんですか?」
「外れにある小さな学校だよ。まあそこも中退したけれど」
「中退、先生がですか!? 信じられません……」
「成績は悪かったからな。何も不思議なことはない」
「でも先生ものすごく強いじゃないですか。あの朱李に勝つなんて、驚きました」
——朱李、鬼灯の下の名前か。どうやらあいつの近い友達のようだな、イースは。
「まあ確かに強かったな」
風間は先ほどの戦闘をそんな一言で纏めた。そんな彼にイースは大きく声をあげて驚きを露わにする。
「それだけですか!? でも確かに余裕そうでしたよね、先生。全然焦る様子もなかったし」
「余裕ではなかったが焦りはしなかったな。焦っていては正常な判断は下せないからな、いかなる状況でも常に冷静でいること。こと戦闘においてはそれが何よりも大事だ」
「確かに灯里ちゃんはどこか必死で周りが見えていなかった感じでしたもんね。それは外から見てても感じました」
「何かあいつの恨みを買うようなことをしたのかは知らないが、どうにもあいつは俺に敵対心があるようだからな。あの怒涛の攻撃にはさすがに驚いたが、必死だったのはそのせいだろう」
一時間余前の戦闘を思い出す風間。久しぶりの戦闘ということだけあって彼的には随分と苦戦を強いられた印象を受けた。次から次へと繰り出されるバラエティ豊かな攻撃に大分手を焼かされた。
「でも私が一番驚いたのは、先生が展開した魔法術式ですよ」
イースは目の色を変え、身を乗り出して風間を覗き込む。
「あの流れるような身のこなしと判断力。そして何よりもあの無詠唱呪文に近い術式詠唱。本当に凄かったです!」
「いや、別に大したことじゃ……というか顔が近いから離れてくれないか?」
「あっ、すみません。つい熱くなっちゃって」
冷静さを取り戻したイースは座り直し少し乱れた服装を直す。
「でも本当に凄かったんです、あの詠唱。今まで聞いたことのない方法だったから、皆驚いてましたよ」
「そうだったのか。まあ確かに他にこんな方法を取っているやつは見ないな」
「あんな高等技術、どこで学んだんですか? もしかして学校で教えてくれたんですか?」
「高等技術か。そんな大それたものじゃないけどな。ただものぐさで、詠唱文を憶えるのが苦手なだけだ。それにこんなもの、絶対に学校じゃ教えないだろうな」
「それ、頑張ってる人が聞いたら絶対怒りますよ?」
イースが心配そうに風間に忠告する。
自分がなぜ鬼灯の目の敵にされているのか、風間自身は分かっていないがイースにはなんとなくその理由が見えていた。
「先生、私にも教えてくださいよ、あの詠唱方法。あれって私でもできることなんですか?」
「別に教えるほどのことでもないんだがな。それに正直言って、あまりオススメできる方法でもないしな」
「なんでですか? あの詠唱方法なら使い勝手が凄くいいと思うんですけど」
イースは風間の詠唱方法の欠点を見出せず彼の言葉に疑問を呈した。必死に何か一つでも思い浮かべようとするも、結局一つも挙げることができなかった。
「まっ、確かに勝手はいいだろうな。詠唱自体が短いから邪魔されることも少ないだろうな」
詠唱中に邪魔され意識が違う方向へ向かうと術式は完成せず全て空に消えてしまい、また作業が最初からに戻ってしまう。
その点風間は詠唱文が圧倒的に短い分、術式を邪魔される心配が少ない。よって術式完成率がその分高くなる。一見欠点などどこにもないように思える手法だが、その手法を使う風間はそう思わないようだ。
「邪魔はされにくい。但し、だからと言って術式の完成率が上がるわけでもない」
「どうしてですか? 意識を逸らされなければ術式の完成率は上がる。私たちはそう教えられました」
「それは別に間違いじゃない。意識を常に組み上げている術式に注ぎ込めればそれだけ完成率は上昇する。それは教科書の言う通りだ」
「じゃあどうして完成率が上がらないんですか? 邪魔が入らないなら意識を常に集中しておけるじゃないですか」
「そう簡単にいかないんだよ、秩序なき詠唱は」
「スペル、ディスオーダー?」
聞き慣れない単語を、イースは疑問符をつけて聞き返した。授業では決して教えてもらえない内容を聞けると思い、高揚感を押しつぶし風間の言葉に全神経を傾ける。
「スペル・ディスオーダーはその名の通り、定まった詠唱分で術式を構成しない。つまり、自分が適切と思ったように詠唱文を構成する。元々教科書に載っている詠唱文は、初めて術式を成功させた先人たちが記したものだ。確かに先人たちが残した詠唱文をそのまま使えば術式は同じように完成する。だが、だからと言って、その詠唱文できなければ術式が完成しないわけじゃない」
「つまり自分で思うように詠唱できるってことですよね! でもなんでそれを学校で教えないんですか? そんな画期的で効率的な方法があるなら皆使えばいいのに」
「まっ、使えればな」
風間は空を見上げながら遠い目をする。
そしてその一言で、イースも全てを理解する。
「使えないん、ですね」
「使える、かもしれない。だが使えるのは脳内で幾つもの作業を同時に行える者たちに限られる。それは単純に頭がいいからできるわけでもない。持って生まれた感覚とセンス、圧倒的なまでの修練により研ぎ澄まされた感覚。どんな方法でもいい、とにかくその感覚を掴むことができる者のみが扱える代物だからな。自ずと使える者の数は限られてくる。学校の教材には向かない内容だな」
教えたところで使える者がいなければ時間の無駄になる。それならば普通に基礎を固めておいた方が生徒たちの為にもなる。
「要するに、だ。この手法は人に教えてもらうというよりも、自分自身で辿り着くものなんだ。こうしてお前に教えてしまってなんだが、お前も頑張って見つけてみるといい」
「残念です。でも一朝一夕でできるような技じゃないのは分かってましたから、特にショックはないです」
「そうか。それは何よりだ」
「でもやっぱり、風間先生はすごいですね! そんな技法を使えるなんて」
風間の話を受けて、イースは再度風間の力に感心する。スペル・ディスオーダーという高難度の詠唱法を使うことのできる風間に、尊敬の眼差しを向ける。
そんな視線を受けていることに気がついたのか、風間は少し照れ臭そうに顔を背ける。
「そ、それに欠点はまだ存在する。スペル・ディスオーダーは言うほど使いやすい代物でもない」
「欠点が、まだあるんですか?」
「あぁ。スペル・ディスオーダーを使えば確かに術式の出がかりを潰されることは少ないだろうさ。だが術式を構築する間に様々な作業を脳内で完遂する必要がある。戦闘中、一体どれだけ気を配らなければいけないことがある? 相手の動きと仕掛けてくる術式、そしてそれに対する策の思案と術式の選択。その場の状況の観察と発生するあらゆるイレギュラーへの対処、加えて戦局を読み常に相手の行動を先読みした行動を選択する。まあ最後の先読みはできれば程度のもので特に必要はないが、あって困るような感覚じゃないな」
風間は自身が使う技法についてイースに思いの外熱く教鞭を振るった。その様子がまるで本物の教師になったようで、気づいた風間は心の中で自身を嗤った。
——俺はどうして自分の弱点をこの生徒に教えているんだ? たった数分前に教えないと決めたばかりのはずなのに。これも食の魔力が作用した結果か?
自分は結局目先のカロリーに目を奪われ、まんまと情報を搾り取られた。途端にしてやられた気分に風間は陥った。
「とにかくだ。こいつはお前が思っているような万能さを持ち合わせてはいない。それでも求めると言うのであれば俺は特に止めたりはしないが、俺からは何も教えてやれないぞ」
「そうですか。でもやっぱり素晴らしい技術だと私は思います。いずれは私もそれを使える域になってみせます!」
——素晴らしい技術、か。
固く拳を握り、決意表明するイースをただじっと見つめる風間。その目はまっすぐ前だけを向き、ただ純粋に強くなることだけを望んでいた。
そんなまっすぐな情熱を感じた風間は物思いに耽りそうになる。
——このイースという生徒といい、鬼灯といい、最近の生徒は真面目で純粋なやつが多いな。
自分が生徒であった時のことを思い出し、少し羨ましい気分になる風間。
もし彼の生徒時代、そんなことを言ってくれる友達がいてくれていれば、今より少しは変われていたのだろうか。全世界の魔法使いの中で1パーセントにも満たない数しか扱えない技法を使えることを、もう少し誇りに思えたかもしれない。
途端に視界が暗くなり、意識が遠くなる気がする風間。
「どうしたんですか、先生?」
呼び起こされ、ふと我に帰る風間。ほんの一瞬だったが、懐かしい日々が彼の中に巡っていた。もし呼ばれていなければ、もっと長い時間その夢を見ていたかもしれない。
「なんでもない。ただ、お前は真面目な生徒だな、と思っただけだ」
「そ、そうですか。あ、ありがとうございます————」
ふいっと顔を逸らすイース。顔を抑え、表情を風間に読み取られないように必死に隠している様子だ。
頰の熱が治った彼女は、再び風間に向き直る。
「でも彼女も本当に、真面目な子なんですよ?」
「彼女、というと鬼灯のことか?」
それは彼女に言われるまでもなく、風間が感じていたことではあった。しかしその真面目さ故に、少々周りが見えていないのではないかと彼は見ている。
「はい。だから今日のこと、許してやってくれませんか?」
「俺のことを根に持っている件か?」
「そうです。何があったか、詳細は分かりませんがおそらく彼女はあなたに対して対抗心を燃やしていると思うんです。同じ風の魔法使いとして、負けていられないと感じているはずです」
さすがは鬼灯の友達、よく彼女のことを理解していると風間は感心した。少々キツイ性格をしている(と風間は思っている)彼女の友達をしていられるのは、この理解力があるからではと彼は推測する。そしてそれがなければとっくに友人関係を破棄しているだろうと。
「許すも何も、最初からあいつのことはなんとも思っていない。別に怒ってなどいないし、学生らしからぬ殺傷性の高い魔法をぶつけてきたことに関しても特に気にしていない」
「それ、めちゃくちゃ気にしてませんか?」
風間はちゃんと嘘偽りない自分の気持ちを伝えたはずなのになぜそんな誤った解釈をされたのか疑問だった。
言い方が悪かったのだろうとすぐに理解はしたが、どういう言い方をすれば良かったのか、すぐには修正案は出なかった。
「でも朱李ちゃんも必死なんだと思うんです。ちょっと事情があって今ものすごく頑張って強くなろうとしてるから」
ふと大事そうな話を切り出してくるイース。風間はより慎重に対処法を考える。
——何か事情を抱えているのは分かっていた。尋常でないほど必死に俺に向かってきていたからな。だがこの話、果たして聞いていいものなのか?
風間は悩んでいた。
彼はそもそも教員ではなく、臨時に近い実技の時間のみの監視員だ。教員でない彼は、生徒の複雑な事情や状況などに介入する必要など一切ない。それらはその生徒の担任や他の教員たちが対処しなければいけないものであって、単なる監視員である風間にとっては関係のない話なのだ。
彼の面倒臭がりな性格も相まって、そういう込み入った事情には関わりたくないというのが風間の心情だ。もし変に介入すれば責任を取らされるのは彼になってしまうからだ。
仮に介入して波を立てずに問題を解決できたのならそれでいいが、もし責任を取らされるようなことがあれば今の職を辞さなければならなくなる。そうなるとせっかく手に入れた収入源がなくなり、再び路頭に迷うことになる。
——そうなると俺は犯罪に手を染めなければならなくなるのか? それだけは絶対にご免被りたいな。
そうならないために就職したというのに、わざわざそれを手放すような真似はできない。
少々心は傷んだが、彼はこう告げるしかなかった。
「そうか。だが悪いが、別にあいつのことは俺に話さなくてもいい。そういうことは担任のクロウ先生にでも相談してくれ。俺は一切力になれないからな」
「そんなつもりで言ったんじゃないんです。ただ、朱李ちゃんのこと嫌いにならないで欲しくて。でもできたら、彼女に強くなるヒントでも教えてくれれば、とは思ってましたけど」
友達にそこまで心配されるほど強くならなければならない理由。風間は気にならなくもなかったが、ここで聞いてしまうと本当に後に戻れなくなる気がして詰問は控えた。
「俺は監視員としてこの学園に雇われた。先生としてではなく、な。だから俺の仕事はあくまで実技の時間内での生徒の安全確保だ。悪いが、それ以上のことをするつもりはない」
「……そうですか。そうですよね、本当にごめんなさい。私、なんとか朱李ちゃんの力になりたくて。でも先生の迷惑のことなんて全然考えてなかったですね、本当にごめんなさい」
風間が断ると、イースは何度も何度も彼に謝罪した。自分が彼に大きな負担を負わせようとしたと思い、彼の仕事以上のものを要求しようとした自分を恥じた。
そして風間はというと、少女にそこまで謝罪させてしまったことに後ろめたさを感じていた。
どんな事情かは知らないが、彼女はただ自分の友達の助けになろうとしていることは分かっていた。
鬼灯のあの性格のことだから、誰にも頼らず一人で目的のために強くなろうとしているはず。そんな彼女に少しでも手を差し伸べたくて自ら他者に頼み込む姿は、素晴らしい友情を描いていると彼は感じていた。
実際その姿を見て何度かその決意は揺らぎかけた。事情を聞いて、何か助けになれないか尋ねようとも考えた。
だが彼にも譲れない事情があった。今はどんなことをしても今の職を守らなければならなかった。だから助けを求める声にも、耳を傾けなかった。
こんな複雑な感情は、今まで彼は感じたことがなかった。
常に無頓着で人の名前すらろくに憶えられない程だったのに、人に親身になろうとしていた。何が風間をそうさせたのか、風間自身よく理解していなかった。
「お昼の大切な時間を邪魔してすみませんでした! あの、弁当、よければ食べちゃってください! 失礼しました!」
目元に薄ら雫を溜め込んだイースは弁当を風間に預け、脱兎のごとく屋上を去って行った。風間は制止する暇もなく、ただなされるがまま弁当を受け取り見送った。
——止めようとした? 彼女を? 一体なんて言葉を掛けようとしたんだ?
明らかに変わっている自分の行動と思考に風間は困惑を隠せなかった。
なぜ人にここまで関わろうとしているのか。なぜ他人の事情なんて気にしているのか。なぜこんな不安定な気持ちになっているのか。理解できないことが彼には多すぎた。
——俺らしくもない。色々余計なことを考えすぎだな。やめよう。
悩んでいるのがバカらしくなり、風間はそれ以上考えるのをやめた。この問題はいずれ担任か他の先生が対応するだろう。
面倒な問題は他人に任せ、自分は与えられた仕事だけをこなす。それを徹底していればなんの波音も立てず平穏に過ごすことができる。自分は、それでいい。
それでいい、はずなんだ。
——そのはず、だよな。あの日の俺の結論に、間違いはないよな。
あの日、高校を中退したあの日の決意を、風間は再度強く自分に言い聞かせるのだった。




