ー
夜も更け、疲れた様子で帰路につく会社員たちが増え始める頃。
風間は未だ帰宅できずにいた。むしろ自宅からは遠い場所に来ている。
帰りたい欲を押し殺し向かう場所には、接触したいと思っている人間がいた。その人物との接触は二人の計画には欠かせないものであり、非常に重要な意味を持っている。しかし風間にとっては会いたくない人物でもあった。
目的の場所に着いた風間はその人物を直接尋ねる訳でもなく、辺りをよく見回した。そして都合のいい場所を見つけ、飛んでその位置に移動する。
彼が座り込んだ場所は林の入り口付近にある木の枝の上。
なぜこんな時間に、そんな場所に登っているのかと、その位置が目的を遂げるのに有用な位置取りだからだ。
(なぜ俺がこんな泥棒紛いのことをしなければならないんだ。これ、人に通報されないだろうな?)
彼が座り込んだ場所から見えるのは、とあるアパートの窓。目的はこのアパートの一室に住む者との接触だ。
そしてここを選んだ理由がもう一つ。
辺りを確認した時、風間は目的の人物の部屋の窓が開いていることに気がついた。その窓を利用し自分の風を送り込めば容易に中の状況を確認できる。そう踏み彼はその木を潜伏場所として選んだ。もちろん窓が開いていなければ換気口などを通じて同じ芸当ができたが、そっちの方が制御に精神に負担がかかってしまう。
手始めに風を目的の部屋に飛ばし、隙間から室内に風を送り込む。
風を送り込む祭、彼は設定を少し細かくしていた。
まずは風速を秒速0・5メートル毎秒に設定した。この理由として、あまりにも風速が高すぎると中にいる人間に察知され気づかれることと、あまりにも微風だと把握するのに時間がかかってしまうからだ。時間に制限こそないものの、とにかく彼は速く終わらせて帰りたかった。
(ふむ、間取りは4畳半の一部屋に玄関近くの小さなキッチンが一つ、とおそらく押入れが一つか。ほぼ俺の部屋と同じだな。そしてちゃんと全員寝ているな)
風速を一定にすることによって風が壁に当たるまでに要した時間を逆算し脳内に間取り図を描いていく。そして感じた風の波から、そこの住人たちが布団を敷いて熟睡していることを確認した。その風が山なりに三度上下したので三人が川の字で寝ていると風間は推察した。
驚いたのは、彼が送り込んだ風を遮るものが極端に少なかった点だ。
四畳半の部屋から感じ取れたのは寝ている三人の気配と壁に立てかけられたちゃぶ台ほどの高さのテーブルが一脚のみという状況だ。いくら貧乏だと聞いていたとはいえ、あまりにも家具が少なすぎると彼は感じた。タンス等の収納家具も感知できなかった。
タンスを押入れにしまっておく理由はない。そうなればそもそもこの部屋には存在していないと考えるのが自然だ。
——本当に苦労しているんだな。
風間が同情にも似た感情を抱いたその瞬間。
風が不自然な動きを感じた。
急に風が物理的な何かの干渉を受けた。今までになかった場所に、風を遮る何かがある。そしてそれは、自分の方へ向かってくる。
気付かれたと、瞬時に彼は悟った。
「こんな時間に覗きですか。いい趣味してますね」
「好きでやっている訳じゃない。こちらにも相応の事情というものがある」
「犯罪者の言い訳のように聞こえます」
「……否定はしない」
今の自分が覗き魔という犯罪者に成り下がっていることは誰の目から見ても明らかだった。物陰に隠れ、開いている窓から監視している人間はまさしく犯罪者のそれだ。
「それで? こんな時間に本当に何の用ですか? もしかして今更私の弟子入り志願を拒否したことを謝りにでも来たんですか?」
「いや、それについては特に気にしてはいない」
「少しは気にしてください。私もそれなりの覚悟で発した言葉なんですから」
あからさまな不満顔で睨みつける鬼灯。
風間がどうしても接触しておきたかった人物こそ、鬼灯その人だった。そして先ほど鬼灯の部屋に風を送り込んだのは中を把握する目的もあったが、本当の目的は鬼灯を誘い出すためだ。
彼女ほどの風の使い手ならば、部屋の中に入ってくる肌に感じない程の風も自然なものではないと気付くだろうと踏んでいた。そしてその予想違わず、彼女はこうして異変に気付き自分の元まで辿り着いた。予想こそしていたが、実際は彼女の実力には心底驚いていた。気付かなかった時を想定し、必要と感じた際には鬼灯と思われる人物の周辺のみ風速をあげるつもりでいた。しかしそんな心配をよそに、鬼灯は普通の感覚では感知することも困難な微風さえ感じ取るセンスを持ち合わせていた。
正直なところ、風間の心境は揺れに揺れていた。
今までの彼女の力と頑張りを見ている彼からは、最初受けた彼女の印象は完全に消え去っていた。今はむしろ、彼女に教えてみたいという気持ちの方が強かった。教えるリスクさえなければ喜んで教えているだろうと教える自分の姿さえ想像した。
「じゃあそろそろこんなことまでする理由を教えてくれませんか? 私も早いところ布団に戻りたいんですけど」
「あぁ、そうだな。ちゃんと説明しよう」
「お願いします」
眠たそうに目を擦る鬼灯に、少々罪悪感を抱く風間。自分にできることは早々に話を終わらせて就寝させることだと確信した。
「では率直に話そう。俺はお前の婚約に反対だ。だからその婚約を破棄させる為に動こうと思っている。話は以上だ。夜遅くに邪魔して悪かったな」
「ちょっ、ちょっと待ちなさいよ! そんなことだけ言って帰るなんて許さないから!」
眠気も覚める一言を受け、全力で風間を引き留める鬼灯。その場を去ろうとする彼の服を引っ張ってでも追求しなければならなかった。
「な、なんであんたがそのことを知ってるのよ。それを知ってるのは地角先生とイースだけのはずなのに。もしかして……イースがあんたに教えたのね! ねぇ、どうなの!」
「……まあ隠す理由もないか。その通りだ。俺はイースから事の詳細を聞かされた」
「やっぱり。ということはこれもイースに頼まれてやってるってところね」
「お前が察している通りだ。あいつに頼まれてこうしてお前と接触を試みた。そして婚約を阻止する方法を考えこうして実行に移している」
「阻止する方法? そんなの、あるわけないじゃない」
一瞬明るくなったかと思えばすぐに下を向く鬼灯。理想と現実の差を知っているせいか、すぐに現実の方を直視する印象を彼は受けた。
確かに彼女の思っている通り、普通既に取り決められた婚約関係を破棄させるのは困難を通り越して不可能に近い。そこには双方合意と言う強い裏付けがあり、それを突き崩すことは容易ではない。
但しその前提を崩してしまえば、その限りではない。これが風間の考え方だった。
「まさか、俺が何の準備もなくこんな世迷言を言っていると? そっちこそ、俺の覚悟というものを舐めないでもらいたいな」
「ど、どういうことよ?」
まさか自分が発した言葉を返されるとは思ってもおらず仰け反る鬼灯。同時に俯いていた体勢を変え、顔はしっかりと風間の方を向いていた。しかし今の表情は何も期待していないような面ではなく、どこか希望を探しているような眼差しだった。
「話してもいい。だが、条件を一つだけ飲んでもらう」
「条件? 脅迫するつもり?」
「脅迫、か。まあそんなところだな。なあに、怖いなら別に聞かなくてもいい。俺は話そうが話すまいがやることは特に変わらないからな」
「あんたって人は……いいわ。話してみなさい、その条件とやらを」
(全く、こうも釣りやすいとは。持っている力は強大でも、中身はまだ子供だな)
年齢的にはそう離れていない生徒に対してそのような評価を下す風間。
今までの彼の発言は、鬼灯を少しでも乗り気にさせる為の誘導であった。
結果は特に変わらない、という点では嘘偽りはなかったが、多少誇張した表現は含まれていた。やることが特に変わらない、という言葉がいい例だ。
彼女が計画を知ることによって、計画の成功率も、彼の身の振り方も多少は変わってくる。しかしやる事の内容については変更するつもりはなかったので、嘘をついているわけではなかった。
風間は少し重くなった自分の口をゆっくりと開く。




