八神噺.……誰?
「お先でーす」
孤児院への仕事のほかにもう一軒の仕事終え、隼斗が事務所を後にする。昴はまだ終わらないようで、その姿はなかったが、定時を過ぎたため隼斗は次のバイトへと向かっていた。
「さすがに、掛け持ちするわけにはいかないよなぁ」
稲浪が来る前は、このまま夜間のバイトを入れていたが、稲浪が来て夕食の支度やらを外すことも出来なくなり、隼斗は牛丼屋のバイトを辞めることにしていた。
「ま、これもあるし、生活には困らないよな」
カバンの中に仕舞ってある、この歳には不相応な通帳。隼斗にとって宝くじが毎日当たっているような高揚感を感じさせ、周囲の人間の目が自分を狙っているような緊張感も感じさせる、人生を変えることの出来る額を記された通帳。だが、隼斗はそういうことに関しては堅実なのか、小心者なのか、自由に使う気になれず、最低限の日常生活での不足分を補う形でしか使用してはいなかった。
「とりあえず、荷物を片付けて夕飯の材料買って帰らないとな」
引越し業のバイトの休憩時間に、牛丼屋にはバイトを止めることの連絡は入れていた。バイトの身だからか、あっさりと認められ、先週分までの給与の受け取りと、荷物の片付けに顔を出した。
「でも、寂しいねぇ。君が辞めちゃうと」
「すみません。色々と事情がありまして」
口には出せないことに、店長は、ため息を漏らしながら、隼斗に給料を払った。
「また必要になればいくらでも来てくれよ。君は見込みのあるバイト君だったんだから」
「あ、はい。その時はまたお願いします」
お互いに社交辞令で簡単に話を終わらせると、隼斗は店を後にした。
「さて、帰るか」
カバンを肩に掛け、駅へ向かう。仕事終わりの大人から、学生まで様々な人間の中に隼斗も紛れ、住宅街の傍を通る。
「ん? 何か光った・・・・・・?」
横目に一瞬感じた光。微かに感じる空気の振動に、隼斗は妙な気配を感じ、注意しながらその気配のした方へ向かった。
「まさかな・・・・・・」
近付くにつれて感じる、嫌な気配。微かに感じるは人外の力のような、自然の力のようなもの。住宅街の外れにある、取り壊しが決まって静まり返っている廃墟ビルに、隼斗の足は、野次馬根性でも湧いたようで向かっていた。
「にしても、まさか三人目の赫職が昴さんだったなんてなぁ」
一昨日の夜に稲浪と出会い、翌日には琴音とつばさと出会い、そして今日、バイト先の先輩である昴が赫職だと言うことを知った。稲浪や琴音さんの話から日本には計百人の神子がいると聞いた。昴の神子に関しては何も聞いていないが、少なくとも、稲浪の姉を含め、四人はこの大府大阪に居ることが分かった。所長の大郎の言う闘い抜くことが、創生と言うことなら、謂わばトーナメントのようなものなのだろう。
「昴さんの神子って、どんな人なんだろう?」
自分は白狐、琴音さんは燕子、稲浪のお姉さんは九尾。稲浪は物の怪の類のようなものが神子だと言うからには、やっぱり昴さんの神子も人間じゃないってことなんだろうな。
「おわっ!」
突然隼斗が何かを感じ、身を捩じらせる。すると、隼斗が立っていた地面が、地割れでも起こしたように盛り上がり、割れた。
「な、何だ・・・・・・?」
突如アスファルトの地面をも容易く盛り上げた、謎の地割れに隼斗が周囲を見回す。
「あん? 人間?」
「え? あっ・・・・・・」
隼斗が廃墟ビルの方に目を向けると、そこには三人の姿があった。二人は女、でいずれも稲浪のような少々派手にも思える服装で、一人は土の色のような黒っぽいゴシック系の装束で、もう一人は胸元まではだけさせた、白無垢のような和服に近い格好をしていた。
「やばっ、赫職と神子かっ」
慌てて隼斗がビルを取り囲む工事壁に身を隠す。稲浪に言われていたことを思い出したようで、思わず隠れた。琴音とは仲間と言うことで敵対関係はなく、昴も自ら隼斗に手を出すことはしないと宣言した。だが、稲浪には他の赫職を持つ神子には十分に注意をするように喚起されていた。命にも関わるということで、そのことを思い出した隼斗が身の危険を感じ己を隠した。
「どうすんのよ? 見られちゃってるわよ?」
「守秘義務があんだろ? だったら先に始末しろ」
「はいはい」
黒服を着た女が面倒そうに返事をすると、対峙していた女に待つように声を掛ける。
「おい、そこのお前」
「っ!」
壁の向こうから聞こえる男の声。やりとりを聞いている限り、この男が黒服の神子の赫職らしい。
「え、えーと・・・・・・?」
あ、あはは・・・・・・、と、つい見ちゃいましたぁ的な苦笑いを浮かべながら隼斗が壁から顔を覗かせる。
「今の見たろ?」
「へ? あ、はい。で、でもっ、俺口堅いんで誰にも言わないですっ」
言い訳をするように隼斗が三人を見る。手前に二人、その奥に一人の女が居る。その奥の廃墟ビルが、不自然に窓や鉄骨、壁などが損壊している辺り、先ほど隼斗の傍を走った地割れはやはり神子同士の戦闘の余波だったようだ。
「悪ぃな。てめぇにゃ恨みはないが、これは知られちゃまずいんでな。死んでもらうぜ」
不良のような井出達の男。センスのないだらけた服装に、茶髪にピアス。目下にある刺青のようなものが、この男と隣の女の契約である赫職紋なのだろう。神子が闘っているというのに、呑気に煙草なんか蒸かしている。
「やれ、エン」
「はいよ。あたしを恨まないでくれよ」
女が隼斗に向かって腕を大きくしたから振り上げる。すると、先ほどのような地割れが隼斗に向かってモグラが大地を抉りながら向かってくるように走ってくる。
「うわっ!」
隼斗が慌てて横に飛ぶ。それと同時に隼斗の足元を大きく盛り上がった土の棘柱が、幾重も飛び出す。隼斗のズボンの裾を棘柱が掠り、弾けるように破れた。
「な、何だっ? 今のっ?」
冷や汗を流しながら、隼斗が自分の立っていた場所に目を向ける。大きく突出した土の棘柱。刃物のような鋭さで、隼斗のズボンも破れた。
「死ぬ前なら聞いてて損はねぇだろ。こいつは神子っつってな。トオンのエンってんだよ」
「トオン・・・・・・?」
新たな神子の情報に隼斗がエンを見る。相手の男は隼斗が赫職だと気付いていないようで、警戒もすることなく、自分の神子のことを話す。
「まぁ、災難っつーことで、終わりだ」
隼斗の周りを取り囲むように、エンが腕を振るうと、土柱が壁のように隼斗の周囲に盛り上がる。逃げ道をふさがれ、隼斗が焦燥と恐怖に駆られる。
「あばよ」
エンが隼斗にそう言いながら、手を翳す。すると、エンの背後から土の竜のようなものが二本地面から立ち昇り、隼斗に向かって蛇のようにうねりながら向かってくる。
「うわあぁぁぁっ!」
逃げ道もなく、対抗する術を持たない無防備の隼斗は、殺されると言う、たった一つの意識に囚われ、両手で顔を庇うような仕草でみを縮こませるしか出来なかった。
(稲浪ッ・・・・・・!)
心の中で、隼斗が稲浪の名前を叫んだ。
ボオオォォン、と土が何かに勢い良く衝突した音と、土埃、土の匂いが辺りに漂う。
「あ・・・・・れ・・・・・・・・・?」
隼斗に向かっていた土の竜の衝突音と、それに合わせて恐らくは砕けたであろう音と匂いが隼斗の鼻につくが、どこにも痛みは感じなかった。
「大丈夫ですかぁ〜?」
桜模様の施された着物姿で、少しばかり長い裾が風に靡いた。
「へ?」
不意に聞こえた不相応なやたらのんびりした声。女性の声だ。
「何っ!?」
エンが驚いた声を漏らす。一撃必殺のつもりだったようで、無傷で立つ隼斗と、その前に立つ女に思わず動揺の表情を見せた。
「あっ、てめっ、待ちやがれっ!」
土埃が夜風に流れていくと、男が背後の廃墟ビルの方に叫ぶ。先ほどまでそこにいた神子らしき白服の女が、ビルの鉄骨や割れた窓辺を利用して軽やかに空へと跳び、その場から逃亡していった。
「あら〜、逃げられてしまいましたねぇ〜」
その様子に隼斗とエンの間に立つ、女が気が抜けそうなのんびり声で、逃げた女を見送る。逃げられたと言う割には追う様子もなく、隼斗に振り返る。
「お怪我はありませんかぁ〜? 風祭さん〜?」
「へ? あ、は、はい。大丈夫、みたいです・・・・・・」
「そうですかぁ〜。それは何よりですぅ〜」
うふふ〜、と急いでいる時には腹が立ちそうな間の抜ける声に、隼斗も困惑の表情を浮かべる。
「ちっ、逃げられたか。まぁいい。エンそいつらをぶっ殺せっ!」
「あんた、その腑抜けの神子かい?」
エンの赫職の男が、どうやら赫職なしの契っていない神子を手中に収めようとここまで追い詰めていたようで、逃げられたことを隼斗と、その前に立つ女のせいだと言わんばかりに逆上したのか、神子に二人を倒すように命じてくる。
「いいえぇ〜。私の赫職様は昴様ですよぉ〜」
「え? 昴・・・・・・?」
女の言葉に隼斗が声を漏らす。その声に、隼斗の視線がその女にだけ向く。
「赫職でもない人間を庇って何になるんだい? 邪魔するなら、あんたを高天原に送り返すよ?」
エンが両手を胸元に持ち上げると、それに合わせるように、先ほど隼斗に襲ってきた土の竜を生み出す。
「無関係な人であるなら〜、私は干渉いたしませんがぁ、風祭さんはぁ、昴様のご後輩とのことですからぁ」
のーんびりとした口調に、エンが苛立ちを感じているようだ。
「あー、もうっ。何なのよ、あんたっ。そののろまな口調はっ!」
「そう言われましてもぉ〜」
後からは黒髪の長髪が街灯に照らされ、天使の輪を作り出している。その耳付近は寝癖のようにぴょんと両方跳ねて、犬や猫の耳のように見える。
「エンっ、いつまで戯れてやがるっ。さっさとやっちまえっ!」
痺れを切らした赫職の男が、煙草を投げ捨てる。
「分かってるわよっ、うっさいわねぇ」
エンが男に向かって言い返す。
「風祭さん〜、しばらくそこから動かないで下さいねぇ〜?」
「え? あ、はい・・・・・・」
一人状況把握が追いついていない隼斗。自分の命が狙われているにも拘らず、その空気をかき乱すように現れた一人の神子。彼女の口からは赫職は昴だと出た。そして、彼女は隼斗のことも知っていた。後輩だというからには、漠然とだが、隼斗は彼女がもしかしたら、昴の神子なのではないかと言う思いが強かった。
「二人して散りなっ!」
エンが両手を横に広げ、土の竜が二匹大きくうねる。そのままエンが両手を二人に翳すと、合図のように竜が二人に向かってくる。
「うふふ〜、恐い顔ですねぇ〜」
隼斗はすっかり場に呑まれていたが、昴の神子らしき女は余裕の表情でエンに微笑んでいた。
「わあぁぁっ!」
宙を蛇のように土の竜が女に襲い掛かってくる。
「なっ!?」
ぎゅっと目を閉じた隼斗の耳に、赫職の男の声が入ってくる。それと同時に先ほどと同じように土埃と衝突音と匂いが再び辺りを支配する。
「そんな攻撃ではぁ、私の守りは壊せませんよぉ〜」
うふふ〜、と女が微笑む。
「な、何、これ・・・・・・?」
恐る恐る瞼を開いた隼斗が周囲の様子に戸惑いにも似た声を上げる。
「あたしの土竜を防いだだってっ!?」
エンが驚愕の声を漏らす。
「甘いですよぉ〜。それくらいで粋がられてもぉ〜」
のんびりとした口調でも、少々毒を含んでいる。だが、ほんわりとした雰囲気に、その毒の効果もいまいちだった隼斗とエンと赫職の男は、目の前に広がっている光景に唖然としているが、昴の神子らしき女だけが場違いなおっとりした口調で佇んでいた。
「な、何だ、お前、それ・・・・・・?」
赫職の男とエンが女を目を見開いてみる。土埃が晴れると、そこには淡い光のベールのようなものが女と隼斗を取り囲んでいた。
「うふふ〜、もう終わりですかぁ〜?」
男の問いに答えることなく、女がのんびりと笑う。
「エンっ!」
「そう大声出さなくても聞こえてるっつーの」
エンが男に呼ばれ、男の元へ戻る。
「おや〜、あれをしますかぁ〜?」
微笑みながらも、微かに女の放っていた雰囲気が変わる。隼斗は周囲の何が起こったのか分からないことに囚われ、気づいてはいなかった。
「あれ?」
「赫職と神子にはぁ、契りを結んでいない神子とは異なる力が宿るのですよぉ〜」
女の言葉に隼斗が意外な事実に驚いていると、エンと男が二人の目の前で口付けをかわす。すると、エンの足元を中心に光が四方八方に掛けぬける。
「んっ・・・・・・」
「さっさと奴らを片付けろ」
ふん、と男が二人を見て鼻で笑う。相当な自信があるようで、エンの表情も先ほどとは少々異なり、自信に満ちていた。
「あんた、最後に聞いとくよ。名は何てんだい?」
エンが女に向かって問いかける。神子同士の戦いの中で名告ことは礼儀のようなものなのだろうか。隼斗はただ空気に呑まれ、呆然とするしかなかった。
「あたしは・・・・・・」
「結構ですぅ〜、あなたには枝毛ほども興味はございませんのでぇ〜」
女がエンが自己紹介しようとするのを止める。のんびりとした口調から吐かれる毒に、エンが眉間に皺を寄せる。
「良い度胸じゃないか。これを喰らってもそんな余裕あるのかいっ」
エンが両手を空に翳すと、先ほどは二本だった竜が、エンの周りに無数に現れる。
「これが、あの人の力?」
「そうみたいですね〜。開紋は赫職との相性と〜、赫職の持つ潜在能力を反映してぇ、神子の能力が上がるんですよぉ〜」
先ほどとは明らかに異なる雰囲気のエンを前にしても、女はのんびりとあくまでもマイペースを貫く。緊張や焦燥、恐怖が漂う現場にも拘らず、たった一人のマイペースな毒吐きに、掻き乱され、隼斗は困惑するばかりだった。
「その口調がむかつくんだよっ!」
エンが大きく振り上げた腕を女に向かって翳す。周囲を土壁に覆われ、逃げ道を封じられた隼斗は逃げるにも、前にはエンと赫職の男と、その前には突如現れた自分を知る女がいて、逃げられなかった。
大地をうねらせながら、幾つもの竜が襲い掛かってくる。夜間のため、それなりに音が響くが工事壁に覆われているせいか、他の一目についていないようで、誰もその場に気づいてはいなかった。
「あらあらぁ〜、野蛮ですねぇ〜」
上下左右から襲い掛かってくる土竜に、まったく驚きも慄きもすることなく、女が手を目の前で重ね合わせる。
「龜壁〜」
女が竜に向かってそう言うと、隼斗が意味が分からないようで首を傾げる。だが、その言葉と同時にエンの放った幾つもの土の竜が女に一斉に降りかかる。
「あっ!」
隼斗が声を上げるが、四方から降りかかった土の竜の中から朗らかにも聞こえる声が聞こえる。
「こんなものですかぁ〜? 貴女のお力はぁ〜?」
土の竜の隙間から淡いピンクの光が空気を切るように夜空に輝き出てくる。その次の瞬間、女を襲い掛かった土竜が一瞬にして弾け飛ぶように元の土と化し周囲に大きく散った。
「なんだとっ!?」
「ほんとに大したことないですねぇ〜」
「ちっ!」
それに男が大きく目を見開く。あれで倒したつもりだったのだろう。だが、それをなんら先ほどから変わりない様子の女が容易く打ち破った。
「うふふ〜。随分と舐められたものですねぇ〜」
「あ、あ・・・・・・」
穏やかな口調で、微笑を浮かべる女。その様子に唖然とする男と隼斗。
「おやぁ〜? 神子の姿がありませんねぇ〜?」
一様に唖然とする中、女が不思議そうに唇に人差し指を当てながら首を傾げる。
「どこ見てんだいっ? あたしはこっちだよっ」
ボゴォォォン、と轟音と共に、隼斗の視界が土埃に包まれる。女の足元が急激に隆起し、下から土の竜を纏ったエンが女の足元から一気に空へと駆け登った。大地が大きく揺らぎ、隼斗も視界を圧迫する勢いに背後の土壁に仰け反った。
空へと駆け登ったエンとその体を取り巻いていた土の竜が、上空から穴を掘るように地面に舞い潜った。
「なっ・・・・・・え?」
エンがその竜と共に地中に潜ったが、やがて男の傍に土を彫り上げるように地中から姿を現した。
「これで終わりだよ」
エンが誰にでもなくそう言うと、その場にいたはずの女の姿がなく、突然空から何かが落ちてきた。風と土埃を巻き上げ落ちてきたのは、女だった。
「あれは囮でしたかぁ〜。少々油断してしまいましたねぇ〜」
「なにっ!?」
「なんでっ!?」
土埃の中から、やはり何も変わらないトーンで女の声が漏れる。パンパンと汚れを払う音と共に、女が姿を現す。
「でも、困りましたねぇ〜。ましらちゃんがいないとぉ、私攻撃出来ないんですよぉ〜」
「へ?」
女が仰け反った沖おいで倒れた隼斗へ歩み寄り、手を差し出してくる。すみません、と隼斗がその手を掴み、立ち上がる。
「実は私ぃ〜。守護には自信があるのですが〜、攻撃する術はないんですぅ〜」
困りましたぁ、このままでは埒が明きませんねぇ〜、と女が困った様子を見せることなく、そう言った。
「こ、攻撃は出来ないんですか?」
「私は防御しか出来ませんのでぇ〜」
うぅ〜ん、どうしましょぉ〜、とのんびりと小首を傾げる女。その向こうでは、二人にしては結構な技だったのだろう。だがそれを以っても女は傷一つついていない無傷で、呆然としていた。
「隼斗っ!」
「え?」
だが、そんな空気を一気に切り裂く声と共に、隼斗の視界が青い熱に染まった。その声に反応した女が空に向かって手を翳し、淡い光が隼斗と女を包み込み、光と轟音だけが隼斗の目に眩しく輝いた。