六神噺.バイトと先輩
時刻は朝七時。今日は朝から引越しのバイトが入っている。未だ眠っている隼斗のために、そのことを知らせるアラームが鳴る。時代は進み、科学技術は進歩し、より良い環境化で生きるための設備が日々技術者、研学者などが切磋琢磨している。だが、それでも変わらないものもある。
「う〜・・・・・・・・・」
ピーとアラームが起床時間を指しながら鳴り響く。しばらくは鳴りっぱなしだったが、夢の中までその音色が響いてきたのだろうか。隼斗の表情が苦痛でも感じているように歪む。その隣ではアラームなどどうでも良いように、稲浪が安らかな寝息を立てていた。
顔と頭は眠っているが、腕だけが自我を持っているように動く。それに合わせて胴体、足、首、顔、声がのっそりとその手につられて動く。
「うぅぅん・・・・・・・・・」
慣れたように隼斗の手が横へと伸びる。ペンペンと何かを叩くように新たな動作が加わる。恐らくはアラームを止めようとしているのだろう。
ふに、といつもならカチッと固い感触と共にアラームが止まるが、今日に限ってやたらそのアラームが柔らかい。
「・・・・・・んだよぉ〜・・・・・・・・・」
ペシペシ、と隼斗の手が何かを軽く叩く。いくら叩いても鳴り止まないアラームに、だんだんと腹が立ってきたようで、隼斗の手が勢いをつけるように天井高くに聳えた。
「うるせぇっ」
パァンと音を奏で振り下ろされた隼斗の腕、高く挙げていた分、重力の影響を受けて勢いづいたその手は、見事にアラームを止めはしなかった。
「きゅんっ!?」
代わりに妙な声がアラームの中に大きく混じった。
「ん? ・・・・・・・・・っ!?」
「な、なんじゃっ!?」
その声に目が覚めた隼斗が瞼を開けると、瞬間、全身が凍りついた。けたたましく鳴り響くアラーム。不意に感じた痛みに稲浪の目が瞬時に開く。
「・・・・・・・・・」
寝惚け眼だった隼斗が、パッチリと目を開き、稲浪を見ている。その目は、やっちまったぁーと、酷く後悔している目だった。
「隼斗・・・・・・?」
稲浪が自分の顔に乗せられているものと、隼斗の怯えるような顔。それに稲浪が何かを空気から読んだようだ。
「あ、お、おはよう、稲浪」
取り繕うに言う隼斗の挨拶は、震えていた。ピーとうるさいアラームを稲浪が手を伸ばし止める。すると訪れる静寂。微かな朝陽の明かりで、稲浪の口の端が上がる。そこには寝ていたあどけない少女のような表情ではなく、好敵手と対峙した時のような微笑だった。
「・・・・・・隼斗、我に何か恨みでもあるのか?」
「な、ないないないないっ!」
ジンと感じる鈍い痛みに、稲浪は何をされたのか理解したのだろう。心地より眠りの中に突如訪れた頬を打ち付ける痛み。
「ほぉ? ないと言うに、我を打つか。なかなかない趣味をしておるようじゃの」
艶のある稲浪の声。だが、隼斗は背筋を伝う冷や汗に、笑うしかなかった。
―――パァァン。
「どうじゃ? 目は覚めたかの?」
「はい。覚めました。もうばっちりと」
じんじんじんと感じる、遥かに自分がしてしまったこととは痛みの違う痛み。涙目になっている隼斗。
「これからは、朝の目覚めはこれが良いか? ばっちり覚めるであろう?」
「いえ、どうぞご勘弁下さい。寝惚けてたんです」
横になりながら、稲浪にヘコヘコと頭を下げる隼斗。それを横になりながら、うむ、と頷く稲浪。二人からすれば、普通に謝っているだけだろうが、横になっている時点でそれほど誠意を感じられなかった。
「じゃ、じゃあ、俺朝ごはんの用意するから」
「うむ。頼むぞ」
稲浪はもうしばらく横になるようで、隼斗が先に体を起こした。
「ぶっ!?」
起きようとすると必然的に体を包んでいた毛布がずれる。その瞬間隼斗は思わず噴出してしまった。
「い、稲浪・・・・・・」
「ん? どうしたのじゃ?」
稲浪が隼斗を見るが、その視界が毛布に覆い隠された。隼斗が毛布をバッと稲浪の体にかけたのだ。
「な、何をするのじゃ」
「何をも何も、稲浪っ、その格好は何だよっ?」
毛布がずれて現れた稲浪の寝姿。
「格好? ん?」
稲浪が毛布を持ち上げ自分の体を見る。
「まくれておったか。どうりで、肌寒い気がしておったのじゃ」
毛布を捲った稲浪。そこには、ネグリジェが寝返りを打つ度に捲れ上がったのか、ほぼ上半身裸で、下着一枚の姿があった。昨日の既視感を思い出した隼斗には、朝から眼福以上の刺激があったようだ。
「これからは、それ、止めてくれ」
「何故じゃ? これは肌触りも良く寝やすいのじゃ」
稲浪は散々隼斗に見られても構わないと言っていただけに、やはり気にしてはいないが、隼斗にはまだ割り切れていない部分があるようだ。
《いただきます》
朝のある意味情事未遂? からしばし、ようやく落ち着いた朝の空気がリビングに漂う。
「何じゃ? 今日はやけに忙しいの?」
正面に座っている稲浪が、隼斗にもう少しゆっくりと食え、と促す。
「時間がないんだよ。昨日飯を炊くの忘れてたから、余計に時間食ったしな」
ぱくぱくと次々と、ご飯おかずおかずご飯味噌汁の繰り返しで隼斗が箸を運ぶ。時間は既に八時三十分過ぎ。バイトの出勤時間は九時十五分。ちなみにバイト先までは電車で約三十分。そろそろ出る支度をしなければ遅刻。接客業のようにすぐに取戻しが出来るわけでもなく、遅刻すれば、次の担当に回されるか、今日一日は欠勤扱いされることもあり、隼斗は急いでいた。
「ごちそーさんっ」
稲浪がまだ半分も食べていないうちに、隼斗が、日々の命に感謝する気もなく手を合わせる。
「人間は忙しいものじゃな。ゆとりを持つことを知らぬのか?」
とりあえず自分の分だけ先に食器を洗い、身支度を整える隼斗。それを呆れたように見ながらものんびりと朝のニュース番組を見ながら、稲浪が朝食を取っていた。
「あ、稲浪。昼はとりあえず、おかずは作ってるし、ご飯と味噌汁は余ってるから、それを食うか、適当に好きにしといてくれ」
「うむ。そこまでせずとも我一人でも大丈夫じゃが、了承した」
何だかんだ慌てつつも、隼斗は稲浪のことも考えていたようで、稲浪も感心していた。
「じゃ、俺行くから、琴音さんの手伝い、ちゃんとやっといてくれよ」
カバンを肩に掛け、隼斗がドアノブに手をかける。
「任せておけ。じゃが隼斗。汝も神子には気をつけよ」
「は?」
車に気をつけろ、などなら子供じゃないんだから、と笑ってそのまま出ていただろうが、稲浪の言葉に隼斗が首を傾げる。
「神子は神子同士で闘うが義じゃ。じゃが、中には赫職を襲う神子も居る」
稲浪がそう言うと、隼斗の腕に目を向ける。その視線に隼斗も自分の腕を見る。
「我ら神子は赫職と契ろうとそうでなかろうと、この社会に解放たれた時から、基は敵じゃ。中には赫職を倒すことで、その神子を手中に収めようと言う輩も居ると姉上が言うておった。用心するに越したことはない」
隼斗の手の甲には、ハッキリと刺青のような模様があった。何も知らない人間からすれば、刺青やファッションの一部にしか認知されないだろうが、神子や同じ赫職紋を持つ赫職にしてみれば、その紋で創生に参加しているか否かの判断材料になる。稲浪はそれを警戒しろと言っているのだろう。
「大丈夫だ。仕事中は軍手をしてる。バレはしないだろ」
「じゃが、油断はするでないぞ」
「ああ。それじゃ行ってきます」
隼斗が稲浪の忠告を受けながら、家を後にした。
「何事もなければ良いのじゃが・・・・・・」
稲浪の吐息が立ち昇る味噌汁の湯気を揺らめかせた。
「おはようございます」
満員電車に揺られ、NBSLビルを眺めながら隼斗はギリギリに到着した。
「隼斗、さっさと支度して来い。出発すんぞ」
「あ、はい。すぐ行きます」
奥の更衣室で作業着に着替えると、休む間もなく隼斗は今日の仕事に借り出された。
「珍しいな、お前が遅刻ぎりぎりに来るなんて」
話しかけてきたのは隼斗と先輩である湊川昴さん。名前だけで見れば、音楽でもやって、二枚目の少し謎を含む良い男っぽさを感じさせる。
「いえ、ちょっと、色々ありまして・・・・・・」
だが、隼斗の隣で車を運転している男。さすがは運送業に携わっているだけあって、体つきがごつい。二枚目には見えないこともないが、どこか違う顔。無精ひげを蓄え、あまりやる気を感じさせるような目じゃない。
「女か?」
「え? いや、えっと、う〜ん・・・・・・」
そう言われると、返事に困る。女であることは確かだけど、女じゃないと言えば女じゃない。でも、女。考えれば考える程、今置かれている状況を昴さんに説明出来ない。
「んだぁ? ハッキリしねぇ奴だな」
「あはは・・・・・・」
守秘義務のこともあり、無関係の人間に素直に事情を話すわけにもいかず、隼斗は苦笑するばかりだった。
「ところで、今日の現場は?」
隼斗が話題を持ち替える。
「今日は孤児院だ」
「孤児院、ですか?」
信号に捕まり、トラックが止まる。隣には無人バスと行き先を告げると、各タクシー会社の中央情報センターからの情報で勝手に走ってくれる無人タクシーが並ぶ。今じゃ徐々に無人化が進んでいるが、それでもまだまだ車などの移動機関は人の手が多いほうであった。
「新しく出来るんだと。昨日までに大方の搬送は終わったが、残りの分だ」
「珍しいですね。この辺りに孤児院が出来るなんて」
大府大阪の中心区梅田。かつては西日本の中心的都市だったが、今じゃ日本の中心都市だ。昔と変わらないのは、鉄道や航空関係の施設で他は大阪湾に完成した各省庁施設や国会議事堂が新しいが、梅田で何より変わったのは、NBSLのビルが建ったこと。町の様子がそれに合わせるようにガラッと景観が変わった。
「全国から人間が集うからな。子供見捨てる親も居るんだろ」
あまり興味無さそうに昴がトラックを走らせる。
「子供、可哀想ですね」
世辞のような隼斗の言葉。自分は家族が居るから、そういう子の事情や心情を酌むことが上手く出来ないようだ。
「そうでもないぜ。孤児院を仕切ってるのが、べっぴんだからな」
ありゃ、良い女だぜ。と昴がにやける。
「べっぴん、ですか」
今の隼斗には、それがどれほどのものだか、上手く想像出来ない。元々は基準は低いほうだったが、稲浪と出会い、その基準が大きく変わった。街行く女性に昴が、良い、と目星をつけても、隼斗には、基準が稲浪であるため、そうでもないようにしか見えなかった。
「あれ? 昴さん」
「あん?」
声だけ隼斗に向ける昴。
「その首の刺青、いつ入れたんですか?」
「ん? ああ、これか。こりゃ刺青じゃねぇよ」
不意に隼斗が昴を見て気づいた。今までは何ともなかった昴の首に刺青のようなものが出ていた。
「そうなんですか?」
「こりゃ、お前のそれと一緒だ」
昴が前を向いて運転したまま、隼斗に言う。
「えっ?」
その言葉に隼斗が自分の腕を反射的に見る。
「赫職紋だろ、お前のそれも」
「なっ!」
昴の言葉に隼斗の目が大きく開く。
「お前も巻き込まれちまったんだなぁ」
「しっ、知ってたん、ですか? ってか、昴さんもっ!?」
家を出る時、稲浪に他の赫職にも注意せよ、と言われていた直後に出会った新たな赫職。しかも、自分のバイト先の先輩。隼斗は動揺を隠せないようで、ひたすら驚いていた。
「あー、心配すんな。俺は、契った神子にも赫職にも興味はねぇ。別にやることあるからよ。襲ったりしねぇから安心しな」
ぶっきらぼうに言う言葉に、隼斗は驚きながらも順応していた。
「他にやることですか?」
隼斗がバイトに就いて以来面倒を見てくれている昴。冗談は多いが嘘は言われたこともないためか、その言葉を素直に受け入れたようだ。
「ま、お前には関係ねぇことだ。お前はお前の神子と適当にやっとけ」
昴が笑う。
「な、何をですかっ!」
「何をって? そりゃあ男にゃナニがついてんだから、それをだ。良いか? この国を生み出したイザナギとイザナミは鶺鴒の交尾を見てヤッタんだ。同じことだろうが」
その笑いに、ただ新神話の創生をしろと言っているわけじゃないことは隼斗にはすぐに分かった。
「で、お前の神子ってどんなだ? 女か? 男か? いや、さっきのこともあるから、女だろ? しかも、あれだけごまかしたんだ。良い女なんだろ? 紹介しろよ。ってかやらせろ」
「だ、ダメにきまってるじゃないですかっ!」
獲物を待つ獣のような雰囲気に、隼斗は断固拒否していた。そんな冗談と分かり合えるやりとりをしているうちに、トラックが停車した。
「ここですか」
「おら、ぼさっとしてないで、働け」
仕事モードに切り替えると、二人は話を区切り働き出した。
「あ、はいっ」
一階建ての平屋のようだが、元々は家じゃないような造りで、太陽の丘、と手作りらしい温かみのある看板があった。昴は先に搬送の連絡にでも行ったようで、隼斗がトラックの荷台から、荷物を降ろす準備をしていた。
「隼斗、挨拶しろ」
建物から戻ってきた昴が女性と共にトラックに来る。
「あ・・・・・・」
隼斗が昴ではなく、女性を見て声を漏らす。
「初めまして、如月こはくと言います。今日はお願いしますね」
優雅で上品な笑みを浮かべる。荷解きがあるからか、黒髪をポニーに括り、大した格好ではないが、それでも稲浪の気高き気品のある雰囲気とはまた異なる、安らぎの温もりを感じさせる大和撫子のような雰囲気があった。
「は、はいっ。風祭隼斗です。今日はよろしくお願いしますっ」
軽く挨拶を済ませると、先日までに届いた荷物の整理にこはくが戻り、隼斗と昴は早速荷下ろしに取り掛かった。
「どうだ、美人だろ。ありゃ」
「そ、そうですね。確かに綺麗な人ですね」
高くなっていた隼斗の基準にも十分に満ち足りるほどで、稲浪にも引けを取らないように思えた。
「あれが園長なんだからよ、全く、ここで暮らすガキが羨ましいぜ」
昴の言うことに、隼斗も思わず頷いた。様々な事情で預けられる子供たち。心だけじゃなく体に傷を負っていることもざらじゃないが、それでもこはくがこれからの面倒を看てくれるとなると、羨望が湧くことも否めなかった。
そんなことを話しながらも、二人は慣れた手つきで机やテーブル、棚などを運び入れる。
「もう、入園者は決まってるんですか?」
トラックから全ての荷物を降ろすと、人手が足りないため、二人も荷解きを手伝う。だが、若干昴は面倒臭くなったようで、隼斗に回される仕事が多くなっていた。
「ええ。明後日には二人が来る予定で、その後は希望や相談所からの紹介があれば、と言うことになっているんです」
不躾な問いにもこはくは表情を変えることなく答える。
「ここは、お一人で経営というか、やられるんですか?」
先ほどからこはくと隼斗、昴の三人だけ。他に職員らしい姿はどこにもなかった。
「それほど多くの子供を預かるわけじゃないですから、私一人で十分だと思って」
「まぁ、人手が要りそうになれば、こいつを使ってやってくれて構わないぞ」
家具の設置をしていた昴が、隼斗の首に手を回してくる。
「えっ? ちょ、昴さんっ!?」
「まぁ、良いんですか?」
昴の言葉にこはくの表情が嬉しそうに輝く。
「ああ。使ってやれ。こいつ、最近調子乗ってるから、何させても良いぜ」
にっこにっこな少々気色悪い笑みを浮かべて昴が隼斗をこはくに売る。どうやら、さきほどの稲浪を紹介しろと言うことを拒否されたことへの仕返しなのだろう。大人気ないが、本当に人手不足なのか、こはくは助かります、と隼斗に微笑む。
「もう、何でもしますよ・・・・・・」
こはくの笑みに照れながら、押し負けるように隼斗苦笑した。
「ありがとうございます。風祭さん」
まぁ、こんな人と仕事出来るなら、良いか。
すっかりこはくの笑みの虜になったようで、気合を入れなおすと隼斗は俄然やる気を出していた。
「単純だろ? あいつ」
「ふふっ、可愛いじゃないですか」
その様子に昴とこはくが少しだけおかしそうに微笑んでいた。