五神噺.稲浪と夜
「隼斗、風呂が沸いたぞ」
「さんきゅ。先に入って良いぞ」
浴室のほうから聞こえる稲浪の声に、隼斗がベランダから応える。取り忘れていた洗濯物を取り込んでいるようで、男物だけが風に揺れていた。
「何を言う。汝も入るのじゃ」
洗濯物を取り込み、室内に戻ると、稲浪が来い、と堂々と呼ぶ。
「いや、俺、洗濯物たたむから先に入って良いって」
隼斗はそう言うが、稲浪も譲らない。
「赫職である隼斗より先に入るわけにはいかぬ。それにこの我が背を流してやると申しておるのじゃ。早うせぬか」
稲浪の申し出に隼斗がカーペットに足を滑らせ、取り込んだ洗濯物を撒き散らす。
「な、何言ってんだよっ」
背中を流すから早く来い。稲浪のその言葉に隼斗が紅潮して焦る。
「今更なことを言うでない」
「いやいや今更じゃないだろ」
昨日今日で知り合ったばかりなのに、今更も何もない。確かに隼斗は稲浪の一糸纏わぬ裸体を目の当たりにした。だが、それは故意ではなく事故のようなものだった。目を逸らすことで回避出来たことでも、風呂となると、そうもいかない。ましてや背中を流すと言うことは、ただでさえそれほどの広さのない浴室で、さらに距離が近くなる。そんな考えと、今朝の稲浪の姿を思い出してしまったのか、隼斗は必死に稲浪の申し出を断っていた。
「我に遠慮は要らぬと申したであろう。早うせい。我は体が冷えてきたぞ」
稲浪はどうやら隼斗もすぐ風呂に入ると踏んで、既に服を脱いでいるのだろう。隼斗が恐る恐る、いや、むしろ、男の性で洗面所の鏡がリビングからでも見えるため、そこを見ると、案の定、真白な背中に金髪を結い上げて、うなじを露にしている稲浪の後姿があった。
「か、風邪引くから、とにかく先に入れってっ!」
「では、隼斗も入るか?」
「あ、ああ、洗濯物たたんだから入るから、稲浪は先に入れって」
互いに譲らない攻防がしばらく続いたが、隼斗の言葉に、必ずじゃぞ。と渋々根気負けした稲浪が浴室の戸を閉める。
「はぁ、さすがに入れないって」
一息吐きながら隼斗が、散らばった洗濯物をかき集める。
「まさか、これからも、こう言う事が続くのか?」
稲浪のことだ。自分が納得する形にならない限り、譲らないだろうなぁ。頑固と言うか、太い筋が通ってそうだし。今朝だって同衾も甲斐性だとかで、平気で隣で寝てたし。
「ま、まさか・・・・・・」
隼斗がはっとして寝室の戸を開ける。備え付けのタンスに空きがあったからと、稲浪の送られてきた衣類などを仕舞うように言っていたが、隼斗はそれにではないものを見て、どこか照れくさそうに後頭部を掻いた。今朝まではベッドの上には枕が一つだった。大府に出てきた時に持参した寝具で、元々はクッションのようにふかふかな物だったが、数年も使うと、座布団になるんじゃないかと思わせるほど潰れた枕。だがそれでも愛着が在ったのか、今日の今朝まで使っていたが、今隼斗の見つめる先のベッドには、それがなかった。
「おいおい、俺の枕はどこ行ったんだよ?」
ベッドには枕があった。一つだけ。だがその大きさは一人分ではない。ゆうに二人は共に寝られるであろう、抱き枕のような大きさの新品の枕。
「こんなの買った覚えないぞ?」
ふかふかモフモフで、固い枕より、柔らかい枕のほうが好きな隼斗にしてみれば、新品で寝てみたい願望があった。
「ん? 電話か?」
ピリリリと、携帯が鳴り、リビングに戻り出る。
「風呂も同衾も赫職の甲斐性なのだよ。契りを結んだ稲浪は、既に君の嫁も同然。何をしたって稲浪が拒否しなければ問題ない。かつては据え膳食わぬは男の恥と言う素晴らしい言葉があったのだよ」
「っ!?」
電話に出た瞬間、一歩的に誰かがそう言い、隼斗が固まった。
「さぁ、素っ裸の据え膳稲浪が待ってる。お風呂にゴーしていっただきまーす、だっ!」
電話越しにどこか興奮気味の男が隼斗を促す。
「ちょっ、な、何で知ってんですかっ!?」
隼斗は電話に出る手前、その電話が何処からなのかを見ていたため、驚きは一入だった。
「NBSLはCIAもKGBもSISも内閣情報調査室も世界各国の諜報機関なんて目じゃないのだよ」
電話の相手はNBSL日本を取り仕切る所長である、山田大郎。それで間違いはない。隼斗がとっさに慌てて部屋中をくまなく見て回る。
「そんなことをしても無駄だよ。私は全てを見通す力を持っているのだよ」
「なっ、何で知ってんですかっ!?」
隼斗が部屋に盗聴器などが仕掛けられていないかを見ているようだが、電話の向こうで大郎は高笑いをするばかりだった。
「ほら、早くお風呂にゴーしなければ、稲浪が怒って出てきてしまうよ?」
「ちょっ、た、大郎さんっ!?」
人の話を無視して好きに語る大郎の言葉は、間違いないようで、浴室の方から稲浪の声が聞こえていた。
「はっはっは。では私はこれで失礼するよ。稲浪とは仲良くするのだよー」
電話の向こうから、エコーがかかり、大郎の声が幾重にも響きながら通話が切れた。
「な、何だったんだよ、今の・・・・・・」
一方的に喋るだけ喋って切られた電話。壁に耳あり障子に目ありの気がして、隼斗が呆然と部屋中を見回すが、何処にも盗聴器などが仕掛けられている雰囲気はなかった。
「NBSL、恐ぇぇ・・・・・・」
部屋名ことまで監視されているような気がしてきて、隼斗の動きが若干慎重になっていた。
「隼斗っ! いつまで我を待たせれば気が済むのじゃっ!」
「うおっ」
リビングに戻ると、バスタオル一枚を巻いた全身が火照っている稲浪が怒って立っていた。
「後から入ると申したくせに、いつまでも入ってこぬではないかっ!」
待ちくたびれて上がってしまったではないかっ、と隼斗に迫る稲浪。火照った艶のある肌と、鼻腔を擽る優しい香りに思わず隼斗が息を呑む。だが稲浪はその様子とは裏腹に形相は険しかった。
「い、いや、洗濯物たたんでたら所長さんから電話があって、今まで話してたから・・・・・・」
まぁ落ち着け、と隼斗が稲浪にどうどう、と両手を広げて言い訳をする。
「何? 会長じゃと?」
「あ、ああ。俺は入ろうと思ってたんだよ。でも、所長さんがなかなか話を切ってくれなくてさ」
そんなことはまるでなかった。むしろ隼斗は大郎に稲浪の待つ風呂へ行け、とけしかけられた。だが、約束を破られ憤怒している稲浪に真実を話し、その後起こりうるであろう惨劇を予想してしまい、いかにもその通りになろうとしていたため、大郎に責任転嫁していた。
「隼斗、それを貸すのじゃ」
稲浪が隼斗の携帯を取り出し、メモリーに登録してあった大郎の連絡先を見つけると、通話ボタンを押した。
「じゃ、じゃあ、俺、風呂入ってくるから、ごゆっくり」
嫌な予感がした隼斗が、それほど大したことではない、ただ背中を流すから一緒に入るぞ、と簡単な約束をしておきながら放置されたことに対して、その原因が大郎だと聞かされた稲浪の怒りは、そっちに向いたようで、真実が露になる前に風呂へと逃げた。
「会長っ! 貴様っ! 何故我の邪魔をするかっ この戯け者めがっ!」
風呂に入る瞬間、稲浪の怒声が響いたが、隼斗は身を小さくして、そそくさと浴室の戸を閉めた。
「ごめんなさい、所長さん・・・・・・」
せめてもと、浴槽の湯に身を委ねながら、隼斗が合掌していた。
「隼斗、ようやく上がったか」
「ああ、って、またすごいの着てるな・・・・・・」
風呂から上がり、Tシャツと短パンを穿いた隼斗がリビングに戻ると、先ほどまでの怒りは沈んだようで、テレビを見て寛いでいた稲浪がいた。
「これか? これは姉上の下がりじゃ」
一瞬絶句した隼斗。だがそれは嫌で衝撃的なものを見たからではなく、稲浪の容姿に何の違和感も感じさせないその姿に見とれるように驚いていただけだった。
「お姉さんの? お姉さんもそういうの着るんだ?」
「うむ。じゃが、我には正直あまり姉上には似合うておらぬように見えていたんじゃがな」
稲浪が着ている服。俗に言うネグリジェだ。シルク生地のような光沢のある淡いピンク色が稲浪の容姿に映えている。どこぞの少々古い映画なら、ヒロインものじゃないかと思わせる。男勝りにも思える喋り方とは対照的な、フリフリピラピラのフェロモンムンムンな見た目に、思わず隼斗は言葉を出せなかった。日本人女性が着ていれば、少々違和感を否めないかもしれない。だが、稲浪は名前こそ日本人っぽさがあるが、容姿は完璧に欧米人だ。普通のパジャマ姿よりは断然似合っていた。
「どうしたのじゃ? そっちばかりを見おって。何もないぞ?」
冷蔵庫から風呂上りにミネラルウォーターをコップ二杯ほど飲んで、隼斗がようやく一息つく。だが、その視線はどこか明後日のほうを向いていた。
「夜景を見てるんだ」
「カーテンが閉まっておるのにか?」
稲浪が隼斗の見ている方向を見ると、しっかりとカーテンが引かれ、夜景など見えはしなかった。
「・・・・・・テレビの音を聞いてるんだよ」
「ならば正面を見れば良いではないか」
ソファに腰を下ろした隼斗の隣に、初めは床に座っていた稲浪が移動してきて、二人の正面にテレビがつけられているが、隼斗は稲浪とは逆の方向を向いていた。
「首が曲がって動かないんだ」
「ならば我が治してみせよう」
隼斗が声を漏らした瞬間、後から稲浪に耳をふさがれるように、稲浪の両手が顔を掴む。
「では、行くぞ」
隼斗の返事を聞くまもなく、稲浪が勢い良く隼斗の首を捻った。
「うおっ!」
勢いが強かったのか、九十度曲げれば正面を向くのだが、隼斗の頭は百八十度回転し、痛みに声を上げたのではなく、首を捻られ、向いた方向には、目と鼻の先に稲浪の顔があり、その少し下に視線を動かしてしまった隼斗の眼前には、隼斗が稲浪を視界に捕らえないようにしていた原因の一つである、ネグリジェに包まれた胸元が目に入った。パジャマのように服として成立するよりも、下着としての分類に入るためか、ピンクの生地の奥に、見える稲浪の胸の全て。いくら先ほど大郎が神子は嫁のようなものだと言われたからと言って、隼斗はそんなすぐには意識変換出来ず、極力意識しないように努めていたが、目の前に稲浪が恥じることなく晒しているのを目の当たりにすると、さすがにまだ稲浪に対しては微かに壁のある隼斗には、かなりの威力があった。
「うむ。これで大丈夫であろう?」
「あ、ああ。ありがとな。治ったみたいだ」
満足げな稲浪の微笑みに、隼斗は首を押さえて言葉を震わせていた。
「ん? 何じゃ?」
未だに胸がドキドキとしている隼斗と、先ほどよりも隼斗にくっついている稲浪。のどかな睡眠前の時間を過ごしていると、突如室内に音楽が響いた。
「誰か来たんだろ。ここのマンション、ピンポーンとか普通の呼び出し音じゃないからさ」
「そうであったか」
音楽のような呼び出し音に不思議そうにしていた稲浪が、頷き、隼斗が玄関へと向かう。
「あれ? 琴音さん?」
「あ、夜分遅くにすみません」
玄関を開けると、控えめな態度の琴音がいた。
夕方つばさを運び、用があったら遠慮なく、と言っていたので、琴音が何か用があって訊ねてきたのだろうと、隼斗は思い、琴音を部屋の中に招いた。
「お邪魔します」
「琴音か。どうした?」
おっ? と稲浪が部屋に入ってきた琴音を見る。
「稲浪さん、こんばんは」
「うむ。如何用じゃ?」
隼斗に勧められ、琴音が腰を下ろし、隼斗がお茶を用意するが、稲浪はそのままソファに座ったまま琴音を見る。
「明日にでもしようと思っていたのですが、早いほうが良いかと思いまして」
これ、どうぞ。と琴音が箱をテーブルに置く。箱からは甘い香りが漂い、稲浪の鼻が真っ先に捉えた。
「けーき、とか言う菓子か?」
食べたことはないが、知識としては認知しているような稲浪の物言い。
「はい。今日は色々とご迷惑をおかけしましたので、そのお詫びに、と」
「わざわざありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。あっ、ありがとうございます」
お茶を入れてきた隼斗が差し出すと、頭を低くした琴音が受け取る。
「隼斗」
「良いんじゃないか? 別にまだ遅い時間じゃないし」
興味津々、話に聞いてずっと楽しみにしていたことが目の前にあるようで、稲浪の目が輝いていた。今狐の状態になれば、犬のように尻尾を振っていそうだった。
「おおっ、これがケーキなるものか。色鮮やかで甘美な香りじゃ」
「一つか二つにしとけよ。太るぞ」
初体験に先ほどまでの凛々しさではない、少女のようなあどけない無垢な笑みを浮かべる稲浪に、隼斗も琴音も苦笑していた。
「つばさ君は、大丈夫ですか?」
稲浪との戦闘で、疲労しきっていたため、隼斗も少々気がかりであった。
「あの後、夕食を食べて今はぐっすり寝てます」
琴音の穏やかな表情から隼斗も安堵した。問題はないようで、後は疲れがまだ残っているだけのようだ。
「稲浪さん、お味はどうですか?」
バクバクと食べるのではなく、稲浪は一口一口を吟味してから口に運んでいた。
「口に広がる果物の香りと酸味、クリームの甘すぎない甘さが見事に合致しておる。非常に美味じゃ。かようなものを知らぬかったとは、幾分損をした気分じゃ」
稲浪の少々興奮している表情からも、二人は稲浪がケーキを本当に始めて食べたのだと、笑みを浮かべていた。
「琴音、これは何ぞ? こちとは違うようじゃが?」
「それはタルトですよ。稲浪さんが今食べてるロールケーキとはまた違うものですよ」
フルーツの詰まったロールケーキを食べながら、稲浪が箱に入っている他のケーキにも興味があるようで見入っていた。
五個入っているケーキ。稲浪が一つ食べて、残りは四つだが、そのどれもが違う種類のもののため、目移りして味わってみたくなっているようだ。
「別に一気に食う必要はないんだぞ?」
「もう一つくらい問題ない。我は動くでな」
稲浪が動けば問題ないと、先ほどのチェリータルトに手を伸ばし、小皿に取る。子供らしいその様子に琴音は微笑み、隼斗は苦笑いを浮かべていた。
「そう言えば琴音さん」
「はい?」
稲浪のことを視界に入れないようにしたのか、それともただ隣に居たいだけなのか、隼斗が稲浪の隣に腰を下ろし、琴音を見る。
「新神話の創生ってやつで、所長さんとは何を話しました?」
隼斗は、まだ右も左も分かっていない。琴音もつばさと出会い一週間ほどだが、それでも自分よりは知っていることが多そうで、気になった。
「山田さんと、ですか?」
どうやら、神坐天照と言う名は所詮は自称で、つばさも稲浪同様に琴音に指摘したようだ。
「俺は稲浪のことと、創生の為に勝ち残ることを聞かされたんですけど」
「私は、それと他にツーちゃんや稲浪さんのような神子のことを少し聞きましたよ」
「他の神子、ですか?」
琴音の言葉に、隼斗が思い返すのは、隣で美味じゃと微笑ましくしていながらも、ネグリジェ姿で視線を横に向けると胸と下着が透けている稲浪と、自分を突き飛ばし、稲浪の逆鱗に触れた少々小生意気な態度の少年、つばさ。そして、稲浪との出会いを演出したと言う稲浪の姉の九尾の九稲の三人だけ。他にも神子がいることは大郎の話の中からでも判断出来たが、どれほどの数がいて、稲浪やつばさのような能力を持っているのか、と言うことは何も分からなかった。
「はい。山田さんの話では、日本には全部で百人の神子がいるそうです」
「百人、ですか」
多いのか少ないのか正直、微妙。大府だけで百人とかなら多そうだけど、全国に百人となると、良く分からない。
「じゃが、少なくとも七人は既に赫職と契っておるはずじゃ」
稲浪がお茶で口直しをしながら、話に加わる。
「そうですね、私もそう思います」
稲浪の言葉に琴音も頷く。
「どういう、こと?」
一人蚊帳の外の隼斗が二人を見る。
「我の赫職は隼斗、汝じゃ。そして琴音の神子である燕子の小童」
「そして、北海道・東北、関東・中部、近畿、中国・四国、九州・沖縄地方のそれぞれには、その神子たちを監視するためにNBSLに遣わされた神子が一人ずつ配置されているそうです」
「恐らくそやつらは、既にNBSL内の人間か、会長と契っておるのじゃろう。でなければ、そのような役目を背負えるのは限られておる」
二人の会話に、隼斗が半口を開いたまま聞いていた。
「ってことは、まだ赫職の居ない神子が全国には九十三人いるかもしれないってこと?」
隼斗の疑問を二人は否定した。
「恐らくその可能性は低いと思います」
「うむ。我や小童のように赫職と契った神子は他にもおるじゃろう」
「そうか。でも、いずれにせよ、その神子たちと稲浪は闘うんだよな?」
そう運命付けられた神子。そして、その先に繋がる全貌の明らかにされていない新神話の創生。NBSLが何を目論んでいるのかなんて、バイトに明け暮れていた隼斗には知る由もなかった。今までNBSLなんて、電車からその巨大なビルを呆然と景色の一部としてしか見たことのなかった自分に降り注いできた、突然の関わりに未だ腑に落ちない部分を感じながらも、その中で出会った白狐稲浪。気が強く、自信過剰にも思える自信とそれに見合うだけの下地を持ち合わせていることを知り、そして、優しさも兼ね備えている憎めない存在。その神子の赫職になったことで、まだ漠然としているが、燻るように湧く不安のようなものがある。それが湧いたのは、夕刻の琴音の神子であるつばさとの戦闘。傷つくことこそなかったが、相手のつばさは疲労困憊だった。相手の神子は言え、気がかりになることは否めなかった。
「無論じゃ。我らはそのための神子。志同じであろうが、我らは、二つは一つになれぬ。一つが引くしかないのだ」
稲浪の言葉に、隼斗も琴音も静かになる。
「隼斗さん、稲浪さん」
だが琴音がしっかりとした目を二人に向ける。
「私は勿論ですが、ツーちゃんは闘うと言う事には向いていません」
「燕子である以上は、それは仕方在るまい」
「ん? どう言う事だ?」
隼斗が稲浪を見る。
「燕子はつばめの幼体じゃ。つばめになれば我のような戦闘での力を持つが、幼体にはその術など備わってはおらん。小童は能力開花の第一段階で高天原嶌を出たのじゃろう。隼斗が汝らを仲間だと言った。我はそれに従い、汝らを襲う輩から守護をする」
隼斗が第一じゃがな、と頼りになる力強い言葉。
「ありがとうございます、稲浪さん」
そのことを今日は話したかったもう一つのことのようで、琴音が稲浪に頭を下げる。
「畏まるでない。我も琴音には礼がある」
感謝しておるぞ、と稲浪が琴音に礼を言った。いまいち分かっていないようで、琴音が不思議そうな顔を浮かべる。
「ケーキのことですよ。な? 稲浪」
「うむ。かような美味なるものを食せたのじゃ。大きな借りを得たと思うて良い」
満足げに稲浪が琴音に向かって笑みを浮かべる。
「満足していただけたようで良かったです。でも・・・・・・」
琴音が稲浪に向かって手を伸ばす。
「おっ?」
「ふふっ、付いてますよ、クリーム」
優しい笑みを浮かべて琴音が稲浪の口はしについたクリームを拭う。隼斗からは逆のほうに付いてたようで、見えなかったが、琴音の指先には白いクリームが付いていた。
「あっ・・・・・・」
不意にポッと琴音の顔が紅潮する。
「ご、ごめんなさいっ。ついツーちゃんと同じように思っちゃって」
動揺する琴音。稲浪の口はしについていたクリームを指で拭うと、つばさにはよくしていたのだろう。その指を琴音は迷うことなく自分の口に運んだ。気を緩めていたせいで自宅と思ってしたことでも、隼斗と稲浪の目の前だったため、それが羞恥心を沸騰させたようだ。
「気にするでない。女同士じゃ」
「そうですよ。俺も気にしませんから」
「あ、うぅ・・・・・・」
二人に言われると、さらにそのことを実感してしまったようで、琴音が小さくなっていた。
しばらく、一人にパニックになっていたが、ようやく落ち着くとお茶を啜る。稲浪もケーキで心も満たされたようで、悠々に寛いでいた。
「そう言えば、琴音さんは東京に居たんですよね?」
緊張を解くように隼斗が尋ねる。
「はい、昔は首都だったそうですが、生まれた時には大府大阪になっていましたから、あまり実感はありませんでしたけど」
隼斗と同じようなことを琴音も感じているようだ。
「東京では何をしてたんですか?」
見た目とその纏う雰囲気から隼斗は自分よりも歳上だと思っていた。だが、歳を聞くことは野暮な気もして、とりあえず目上に対しての言葉遣いだけを心がけていた。
「友人とフラワーショップをしてたんです」
「それじゃあ、オーナーだったんですか?」
「いえ、そんな大したものじゃないですよ。小さなお店ですから」
先ほどまでの取り乱しようもなく、落ち着いた雰囲気に戻っていた。
「それじゃあ、つばさ君とはどういう経緯で?」
隼斗は稲浪の姉に騙されたといっても過言ではない出会いだったが、琴音とつばさはそう言うものではないように感じていた。
「ツーちゃんは、お店と隣のアパートの合間に蹲っていたんです」
『じゃあ、琴音。それ外に出したら今日は上がって良いよ』
『うん、分かった。お疲れ、沙紀』
『お疲れ様〜』
花屋の仕事は想像以上に大変。よく小さい女の子は夢見るけど、実際は肉体労働の体力勝負の世界。朝、市場から買い付けた花を商品にするために、店で処理し、花によって処理方法が異なるため、種類別に処理する。その初めの段階を水あげと言い、いらない葉や茎を切り、花の吸水が悪くなり、保ちも悪くなるためきちんと処理する必要がある。
『ふぅ、疲れたぁ』
日持ちの悪く、売り残りの花などはほとんど処分するため、営業の終わった二十時以降も仕事はなかなか終わらない。
花屋の仕事は基本は水替え。買い付けた花や陳列している花が折れたり枯れたり、汚れている部分を取り除き、花の茎の足を二〜三センチを切り落として綺麗な水に入れる。花と水の入ったバケツは重く、花の本数が多いほど気合が要る。それは販売後空になったバケツの整理もあるため、この水替えは体力をとにかく使う。
『よしっと。今日も一日終わりね』
店と隣に立つアパートの間にあるちょっとした空間。そこに自転車で通う琴音と、共に店を立ち上げ、オーナーと言うあって、ないような肩書きを持つ友人の沙紀。彼女の乗る大型バイクも止まっている。その奥にダンボールや花のゴミ捨て場があり、無人ゴミ回収機が道路に埋め込まれた誘導センサーを元に、順序と時間通りに早朝に回収に来る。
『あれ、琴音。まだやってたの?』
帰り支度を終えた沙紀がライダージャケットとデニム姿で出てくる。
『今終わったところ。私ももうすぐ帰るわ』
『そう。じゃ、そこの鍵お願いね。他は施錠したから』
水あげと水替えの後は、手入れだ。メンテとも呼ぶこともある。切り花は鉢物も手入れが必要で、自宅でなら良いことでも店では商品としてお客に出すため妥協はしない。水やりはもちろんのこと、枯れたり汚れた花や葉を取り除き、花鉢の場合、水やりは花びらが痛まないように花びらにはかからないように水をやり、観葉植物はたっぷりと葉水を霧吹きなどでかける。小さな虫や幼虫、ナメクジなどの花や葉を傷める可能性のある虫を取り除くこともれっきとした仕事。嫌々なんて通用しないのも慣れないと辛いもの。
『うん、お疲れ様』
『じゃね』
ヘルメットをつけ、先がバイクにまたがりエンジンを掛ける。底から湧き上がる重低音が夜の闇に吹き上がる。エンジンをある程度温めた沙紀が琴音に、腕を上げながら帰宅していくのを琴音が見送った。
『私も帰ろうっと』
誰も見ていないからか、琴音がうーんと両手を夜空に掲げ背伸びをする。
『う・・・・・・うぅ・・・・・・』
どこからか、暗闇の中から小さな呻き声が聞こえた。
『え・・・・・・?』
そして花屋の仕事での華と言うものは、やはりなんと言っても花制作。花屋に勤める者のセンスと腕が問われる一番の見せ場。店内陳列物に関しては製作者の好みや半端物を使って制作し、それを気に入ったお客様が購入する。それ以外は要望に応え制作する。希望の花や色、予算、用途内で短時間で出来るものから少々手間の掛かるものなど千差万別にニーズに応えることは、熟練した腕が必要になる。
『うぅ・・・・・・』
『な、何・・・・・・?』
店とビルの合間にある小さな空間のため、微かな明かりしかなく、琴音がその声に、体に緊張を走らせる。
『うぅぅ・・・・・・』
花屋としては、お客は人それぞれ完成が異なるため、お任せされるよりも、具体案を出してもらう方が事を円滑かつスピーディに進められるため、好まれることが多い。プレゼント用にラッピングしたアソートフラワーを作ったりすることも仕事で、ギフト用や仏花、墓花など生活に密着したものや、お稽古花や開店花、葬儀花、会場花、生け込み、結婚式ブーケなどの一般的な生活とは少々離れたものも制作する。それをただ制作するだけなら良いが、大抵はお客の目の前で作ることが多い。じーっと見られることへのプレッシャーにも強くなければ、勤まらない、体力と精神力を使う仕事。それが花屋と言うもの。
『だ、誰か、いる・・・・・・の?』
声のした方に、へっぴり腰になりながら琴音が恐る恐る歩く。合間の先に広がる住宅街の路上の街灯の明かりが、二つの陰をはっきりと映し出す。
『うっ・・・・・・うぅ』
一つは琴音。細く長い影が弱々しいシルエット生み出している。
『え? こ、子供・・・・・・?』
もう一つの影。小さく丸っこい。だが、その陰が琴音が気づいた瞬間、トサッと音を立てて倒れた。
『えっ、ちょっ、・・・・・・』
駆け寄るとハッキリ分かる。それが少年であると。周囲に人影も気配もなく、琴音が少年を抱き上げる。
『ちょっと、君!? ・・・・・・っ!』
街灯の明かりで微かに見えた、少年の服から露出した肌。擦り切れたような幾つもの切り傷。ほんのついさっきついた傷じゃない。既に自然止血し、黒く酸化した血液がかさぶたを作り出すための覆いになり始めていた。
『た、大変っ!?』
琴音が少年をお姫様抱っこで抱き上げると、店の事務所兼休憩室に運ぶ。思っていたよりもずっと小さな体。そのあちこちに出来た怪我。生易しい子供の喧嘩だけで出来るような傷じゃない。
『沁みるだろうけど、ちょっとだけ我慢してね』
運が良かったのか、花屋は手傷など日常茶飯事。常備していた消毒液も傷薬も包帯も大方は揃っていた。
『どうしたの? こんなに傷だらけになって』
気を失ったのか、横になったままの少年。そのおかげで琴音の処置は難なく終わった。幾つも貼られた絆創膏。濡らしたタオルで、琴音が顔や手足に付いた汚れを拭き取る。
『喧嘩、じゃないわよね?』
琴音もその少年の様子に唸る。大怪我と言うほどでもないため、病院へ連れて行くほどでもなく、かと言って、むやみに少年を連れて帰ることも、家族のこともあるだろうから、気が引けた。
『沙紀に連絡・・・・・・ううん、ダメね』
つい先ほど帰った沙紀に連絡すれば、飛んで戻ってくるだろうと琴音は読んでいた。仕事終わりに呼び戻すことに、琴音は気が引けていた。
『今日は、ここに泊まり、かな』
置いて帰るわけにもいかず、琴音が小さくため息を漏らす。奥の棚には着替えやタオル、毛布が常備してあった。イベントなどの仕事が入ると、夜分遅くまで仕事が終わらないこともあり、仮眠室としても使うことがあり、琴音も何度も寝泊りしたことがあった。
『ちょっとここで休んでてね。ご飯とか買ってくるから』
シャワー室もあるため、生活は出来るが、食材までは茶菓子以外は置いておらず、買いに行くしかなかった。
『ん?』
少年に毛布をかけ、琴音が立ち上がった瞬間違和感を感じた。
『あっ』
少年が琴音のロングスカートを掴んでいた。何処にも行かないで、とでも言うようなほど、ギュッと掴んでいた。
『大丈夫よ。すぐそこのお弁当屋さんに行くだけだから、すぐに戻るわ』
宥めるように琴音が優しく言うと、少年の手がスルッとスカートを撫でるように離れた。
「じゃあ、それがつばさ君との出会い、ですか?」
「はい。ツーちゃんに、今回の事を聞かされて、その後に山田さんから電話があって、ごちゃごちゃしている間に、こうして大府に移ってきたんです」
「何もわざわざ来ずとも、NBSLの支社に往けば良かったではないか」
隼斗は大阪に出てきて稲浪と出会ったため、本社ビルへと赴いたが、全国の主要都市には必ずNBSLの研究施設があり、稲浪が言うにはそこでも赫職申請は受け付けているようだ。
「そうなんですけど、東京には知り合いは沙紀しかいなくて、こういうことですから、相談もするに出来なくて・・・・・・」
「本社がある大阪なら、と言うことか?」
「まさか来たその日に、赫職と神子のお二人にお会いするなんて思ってもみませんでした」
苦笑を浮かべる琴音。それは隼斗も同じだった。
「まぁ、知り合ったのも何かの縁ですから、これから一緒に頑張りましょう」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
「ふむ。我も久しく頼むぞ」
稲浪以外の二人は、未だにハッキリとしたものを感じてはいないようだが、とりあえずは、と言う事なのだろう。稲浪だけが二人とは違う思いで頷いているようだった。
「では、夜分失礼しました」
「いえ、こちらこそ、ケーキありがとうございました」
隼斗が玄関まで見送り、琴音が一礼して家を後にする。
「あ、そうそう。隼斗さん」
「はい?」
隣室のため、五秒も戻るのに時間は掛からない。思い出したように琴音が振り返る。
「私だから良いですけど、稲浪さんの格好、もう少し気をつけたほうが宜しいですよ?」
うふっ、と微笑みながら、琴音がおやすみなさい、と自宅の扉を開け戸を閉めた。
「いやっ、ちょっ、こ、琴音さんっ!?」
今の言い方と微笑み、絶対俺の趣味だとか思ってたよな? ち、違いますよ。違うんですからねっ。俺の趣味じゃないんですからねっ!
思ったところで、既に琴音は自宅に戻っている。一人残された隼斗は静かに玄関を閉め、鍵をかけた。
「はぁ・・・・・・ライトオフ」
廊下の電気がぱっと消える。リビングには稲浪が居るため、温度センサーが働き、廊下の照明だけが落ちた。
「ろうふぃはのひゃ、ふぁひゃと?」
「何言ってるかわかんないって」
リビングに戻ると、歯磨きをしながら稲浪が隼斗の様子に首を傾げていた。
「どうしたのじゃ、隼斗?」
洗面所から戻ったばかりのようで、立っていたため、振り返った稲浪の全身が隼斗の視界に飛び込み、琴音の言葉が隼斗の脳裏で反芻していた。
「何でもない。それより、そろそろ寝るか」
「うむ、そうじゃな。我は長起きは苦手じゃ」
色々と激動だった一日がようやく終わろうとする、夜十一時。バイトのある日は寝るには早いが、休日だとすることもなくなり、睡魔がやってくる。簡単に部屋の様子を確認し、隼斗が寝室へと向かう。それに続くように稲浪もその後追って寝室へ入る。
「明日は何をするのじゃ?」
寝室のカーテンを閉めている間に稲浪がもぞもぞとベッドに入る。
「俺はバイトがある。さすがにいきなり神子と闘うことなんてないだろ。稲浪は琴音さんが引越しの荷解きで大変だろうから、手伝ってあげてくれよ」
欠伸をしながら隼斗が、ライトオフ、と言うと部屋の電気が消え、隼斗もベッドに入る。
「よかろう。ケーキの礼じゃ」
「頼んだぞ」
そう言うと、二人同時に目を閉じる。今まで感じなかった女の香と、温もりがすぐ隣にある。彼女のいた頃はそんなものを何度か感じながら眠った隼斗だが、ここ数年はそれもなく、一人静かに寝床についていた。自分以外の息遣いを感じながら隼斗は、少々気持ちの高まったまま、欠伸を漏らし、眠りに就いた。
「って、違うだろっ!?」
ガバッと隼斗が起き上がる。ライトオン、と同時に再び寝室に照明が付き、眩しそうに稲浪が目を開ける。
「なんじゃ? 忙しないぞ」
「何で稲浪と一緒に寝てるんだ、俺っ!?」
何の違和感もなく、隼斗は稲浪の隣に入り、稲浪もまた違和感なく隼斗の寝るスペースのために体を端に寄せていた。
「何を言うか。昨晩も同衾したではないか」
「いやいや、同衾って・・・・・・」
隼斗にはその意味が、アッチの方の婉曲表現を指しているようだが、稲浪にはその意味が、辞書通り、普通に男女が同じ夜具の中で一緒に寝ること。だと言う意味を取っているようだ。
「神子と寝るも、赫職の甲斐性じゃ」
あっさりと言い切る稲浪に、一人興奮した面持ちの隼斗は、傍から見れば少々馬鹿にも見える。
「女子と寝たことはないのか?」
「いや、なくはないけど・・・・・・」
「ならばよかろう。じゃが、これよりの我以外と同衾は赦さぬぞ」
そう言うと、稲浪は我は眠いのじゃ。邪魔するでないと言い残し再び目を閉じた。
「え、ちょっと、おーい?」
五秒も経っていないのに、稲浪は既に隼斗の声を聞いていないようで、一定のリズムで呼吸を繰り返していた。
「ソファで寝るか・・・・・・」
昨日は狐の姿だったから、気にもしなかったが、今日はさすがに、さぁ寝るぞ、と言う気にはなれなかった。
「お?」
立ち上がろうとするが、途中で体が動かなかった。
「おいおい、マジかよ・・・・・・」
狸寝入りをしている様子はない。本当に眠かったようで、乱れることなく呼吸のリズムが整っていく。それが就寝している何よりも証であり、隼斗が頭を掻いた。
「稲浪って、結構甘えん坊か?」
隼斗のシャツを掴んだまま安らかに眠る稲浪。起きている時の凛々しさではなく、表情自体は造形の良さから来る美人顔だが、その寝顔はあどけなさがあった。それを見て諦めたように隼斗がベッドに入り、少しだけ稲浪から距離を取るように、端の方で稲浪に背を向けた。
「静まれー、静まれー、俺ぇ・・・・・・」
隼斗は眠りに就くまで、隣から聞こえる息遣いと、香、温もりに呪文のように呟いていた。