二神抄.激突・前編
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「うわっ」
振り返った瞬間に、熱波が吹き荒れた。自分の事を精一杯に庇うだけしか出来なかった。何が起きた? 何だこれ? 何がどうなってんだ? さっぱり分からない。
「っ!」
ただ、守れなかった、自分自身すら。
「隼斗っ!」
急に体が不安を訴えてきて、血の気が引いた。鳥肌が立った。ただ足が地面に着かなくて、サウナ室の中で吹き飛ばされたような圧迫感のある熱風に弾かれた。
「隼斗、大丈夫か?」
でもそれはすぐに安堵に変わった。脇下からぐっと胸を交差して掴む腕。吹き飛ばされた向きとは逆に体がその力に反転した。
「稲浪っ」
稲浪が俺を抱えていた。でも、足は地に着かない。浮いてるんだって稲浪の柔らかいものを感じながら不思議と恐怖が消えた。
「降りるぞ、隼斗」
すっと、足が地面に着いた。全身の力が抜けていたのがすぐに立ち上がれなかったことに気づく。その間も稲浪が支えてくれて、やっと立ち上がると忘れていた熱さが甦る。
「な、何が起きたんだ……?」
物凄い熱気と風。さっきまで見えていた琴音さんとつばさ君の姿が焔で見えない。
「分からぬ。じゃが、ババ様と姉上が焔の向こうに飛んで行ったのじゃ。我の焔では追いつけなかったのじゃが……」
稲浪も状況は分からないみたいだ。でも、向こうには二人が……。
「っ! 琴音さんとつばさ君はっ!?」
轟々と燃える炎。そっちには琴音さんとつばさ君が。
「待つのじゃ隼斗っ! 今焔に飛び込めば、隼斗が灰になるぞ」
稲浪に引き止められる。もしかして、さっきの二つの熱気は空狐と九稲さんだ。一瞬のことで分からなかったけど、さっきの空狐の言葉、あれは戦線離脱した二人を殺しに行ったのかもしれない。まずい。あの二人があんな焔の使い手を相手に出来るはずが無い。
「稲浪っ! どうにか出来ないのかっ?」
そして俺は縋るしかない。俺が闘えるはずが無い。
「落ち着くのじゃ、隼斗。姉上が参っておる。今は焔が消えるのを待つのじゃ」
予想以上に落ち着いてる稲浪に、俺まで力が抜ける。でも、心配だ。あんなにいきなりの攻撃で容赦がほとんど無かった空狐だ。あんな一瞬で俺の横を通り過ぎたんだから、逃げ切れるはずが無い。焔が消えるのを待つしかなかった。
「ほぉ? 我の足蹴に追従するとな。是、驚きよの」
居た。焔が消えて、空狐の背中と九稲さんが見えた。
「お褒めに預かり光栄の所存です」
空狐と九稲さんの片手同士が触れ合っていた。いや、そのわずかな隙間に焔が渦を巻いてる。小さい渦なのに、あの焔の熱がこっちまで吹き付けてくる。
「焔玉じゃ……焔玉が出来ておる」
稲浪がその小さな焔を見て、驚いていた。
「危険じゃ……琴音とつばさが危ういぞ」
「え? それって……い、稲浪っ!?」
急に稲浪が俺の横から青い焔を纏って飛んで行った。稲浪の熱が俺の上着の解れを散り散りにさせた。と言うか、稲浪の動き、早いんだな。見えなかった。
「稲浪。そのお二人を早くっ」
九稲さんが稲浪に何かを言っていた。俺にまでは聞こえなかった。
「うむ。琴音っ、つばさっ。来るのじゃ」
稲浪が空狐と九稲さんの近くに倒れていた琴音さんとつばさ君を抱えて、また焔を纏ったままこっちに来る。
「ほっほ、美しきかな、姉妹愛、とな?」
空狐が笑ってる。やっぱりお婆さんには思えない。
「空狐。貴女は、これの理を解しているはずです。何故、このようなものを戦闘を離脱するものに放つのですっ?」
九稲さんが怒っていた。目つきがこっちを向いているから良く見えた。稲浪の怒ってる時よりも恐い。
「戯言よ。創世たるは、唯我独尊。逃げようが逃げまいが、いずれは果てる。ならばこの空狐、即を以って楽を得させんとする。親切心と言うものよ」
何か言い争いのようなものが聞こえるけど、はっきりとは聞こえなかった。その間に稲浪が二人を抱えて戻ってきた。
「琴音さん、つばさ君、大丈夫ですか?」
「は、はい。私は。で、でも、つーちゃんが」
琴音さんには怪我も無いみたいだ。
「つばさ君っ!」
稲浪の腕の中にあるつばさ君。神子服の背中が焦げて破れてる。背中が酷く赤く染まってる。
「隼斗。我は早急に二人を離脱させてくるのじゃ。隼斗は極力姉上たちに近づくではないぞ。我が戻るまで逃げるのじゃ。良いな?」
有無を言わせない顔に、肯く他は無い。
「つーちゃんっ! しっかりしてっ」
その間も琴音さんがつばさ君の目を覚まさせようと呼んでる。でも、つばさ君は意識が無いのか返事が無かった。俺にはどうすることも出来なくて、ここは稲浪に任せるしかない。
「琴音、案ずるでない。神子たるは人間を越える強靭を持ち得ておる。我がNBSLに連れて往く。参るぞ」
稲浪がそのまま二人を抱えて、すぐ戻ると言い残して青い焔の固まりになって駆けていった。早すぎて、何が何だか整理出来ない。
「九稲さんは……」
逃げるべきなんだろう。でも、分からない中で逃げても、周りの破壊された建物がある以上、逃げ場なんてあるのか? ガラス片、コンクリート片、粉塵が舞ってる上にこの熱気。汗が滴る。動けるはずがなく、俺は九稲さんと空狐に視線を戻す。
「創世において、背を向けることこそが愚行。ですが、離脱するものを殺めるなど言語道断。やはり貴方は危険すぎる存在。今ここで、妖狐九稲が滅します」
九稲さんが紅い焔を全身に纏った。髪が揺れてる。燃えないんだとか思う時点で、俺は少し余裕があるのかもしれない。
「ほっほっほ。良い良い。我を楽しませよ。だがの、主も解しておろう? 焔玉は双が焔を得てしてあるものよ。我は撃つことも滅すことも容易い。しかし、主はどうなのじゃ?」
熱いのに、静かになっていく。まるで九稲さんと空狐の手のひらの中にある、あの小さな焔の玉が音を吸い込んでいるみたいに。九稲さんの表情が怒りの中に、苦渋が出てた。
「そうであろう、そうであろう。妖狐と言えど、所詮は善狐。仙狐ならぬは弱きものよ」
「たとえそうであろうと、私は私の責務を果たすだけです。全力を持って貴女を押さえます」
その時、あの焔の玉から輪っかの形をした焔が二人の間の壁になっているみたいに飛んだ。離れるに連れて輪が大きくなって、最初に地面が解けた。オレンジにアスファルトが光ってる。
「え……?」
そう思ったのも束の間。上空に広がった輪がビルに触れた。触れた所から破壊じゃなくて、解けた。ビルを真っ二つに溶かして、ビルを構造していたものがドロドロになって、ゆっくりと地面の草を燃やした。似た光景を見たことがある。溶岩だった。
「うそ、だろ。コンクリートを……?」
コンクリートが溶けるなんて、強酸性雨で溶けるのは知ってる。でも、熱で溶岩のようになるなんて、熱いのに寒気がした。ビルが解けた部分から歪んでいく。通りに居る二人の両サイドのビルが同じように解けていく。窓ガラスがあちこちで砕けて、空から降ってくる。
「やば……」
俺は慌てて後退した。熱も恐い。汗で服が張り付いて気持ち悪い。少しふらふらする。でも、逃げないと。ガラス片に触れれば血まみれだ。逃げ場が多そうに見えるビル街なのに、この辺りの封鎖地域は、ビルが倒壊しているのが当然のように廃墟だ。逃げ場なんてビル街の方がどこにも無い。とにかく離れよう。
「ふむ。良い眼よの。ならば見せてもらおうかの」
「っ!? 空狐っ!」
「ほっほっほ。我は退くことも出来ると言うものよ。見せてみよ、九稲。焔玉を打ち消す力とやらをの」
一度振り返る。空狐が浮かんだ。そう思った瞬間だった。
「うわぁっ!」
背中から強く押されたように、熱波が吹き抜け、俺の体が地面から浮いた。その勢いは、解けていたビルまでもが倒壊させて、通りを封鎖した。
「あぐっ……っくぅ……」
運が良いのか悪いのか、ビルが倒壊して背中からの熱波が止んで、飛ばされた体が落ちて、滑ってこけた。
「っつ〜。な、何だ……?」
少し擦り傷が出来た。微妙な痛みは後を引くから嫌いだ。でも、それ以上に振り返って、唖然とした。そこに立っていたはずのビルが、物凄い熱を帯びて赤く光っている。
「熱っ!」
サウナなんてものじゃない。本能が危険だと身体を走らせた。熔けている。俺の背中にあったものたちが。俺はどこかの火口にいたのか? そんな風にすら思える、建築物の熔解。信じられない現実が背中から焼こうとして、逃げるしかない。異常も異常だ。どんどんビルが倒壊して、熔けて、通りが赤い川になっていく。この辺りにいたはずのNBSLの人とか警察関係者たちはどうなったのか、助けを求めようにも姿がなかった。
「ふむ。やはり妖狐ごときに抑うるは否のようだの」
逃げていた方向、ビル六階ほどの高さに、空狐がいた。俺のことなんか見てなくて、俺の後ろの惨状を静観してる。今のこれは、空狐の仕業、なんだよな?
「ほれ、そこいく人間よ」
「うわっ」
降りてきて、俺の前に立った。見た目は子供、素性は稲浪たちよりも年上のババ様。目の前にいて、恐怖が襲う。殺される。俺なんか一発で。そう思ったら引き返そうと身体が動いて、止まる。
「焦ることもなかろう。それとも焔の川に焼かれたいのかえ?」
後ろはゆっくりと蕩けるように熔けていく灼熱。汗が止まらない。肌に焼けるような熱が痛みを与える。水が欲しかった。水道なんて見当たらない。時々蒸気が勢い良く噴出してる場所がある。多分、そこに水道管か何かがあるんだろうけど、飲めたもんじゃない。
「な、何を、した……?」
稲浪に助けを求めようにも、つばさ君を連れてNBSLに行ってる。九稲さんの姿は、倒壊するビルの向こうで見えない。俺の目の前には空狐。一対一の構図が求めないのに出来てしまう。さらに背中から迫り来る溶岩のような流れ。俺はここで死ねと言うことか。それしか悟れない。
「何をした、とな。何もしてはおらぬな」
言い切られる。でも、信じられるか、そんなこと。
「稲浪が言ってた。焔玉とか言うの、お前が、だ、出したんだろ?」
子供なんだ。どう見ても。でも、子供なのに恐いって思う俺がいる。
「ふむ。主よ、何も知らぬと見るが、まことに稲浪の赫職かえ?」
分からないことに素直に首を傾げる子供の仕草。つい、屈んで目線を合わせて話そうとする、見下しのような感覚がある。
「稲浪の? う、うん、確かにそうだけど?」
「その割には、得てして知らぬことが多いようだ。稲浪とやら、言葉にせなんだな」
一人で納得している。見る限り、闘う意思は感じられない。
「そ、その、焔玉って、何なんだ?」
つい、緊張を解いて、尋ねてしまう。
「簡単なことよの。仙狐なる我が導き出す烈なる焔。あらゆるものを焼き尽くし、溶かし去る。妖狐とて御するは叶わんのであろう。結果がこれと言うものよ」
振り返る。梅田の一角がなくなっていく。豪快な音とかないんだ。ただ、沼地に沈んでいくみたいに、高層ビルまでが地面に埋まっていくように無くなっていく。焔の川の中にあちこちで小さな焔が何かを燃やしていく。その全てが灰になることも無く、熱と光を発し続ける。本気で危険だ。逃げないと、俺も熔けて死ぬ。冷や汗が垂れた。
「な、何でこんなこと、するんだよ?」
「何でとは、是、疑なり。創世たるは神子の戦。ならばこそ、出会いし神子は生くか逝くかであろう? この狭き界で害なく終える戦など、神子は持ち合わせてはおらぬものよ」
確かに、こんなビル群で戦闘をして、被害を出さないのは無理だ。でも、だからって全部を破壊しようとしてる、これは別問題だろ。
「焔玉は御すべく力なくは、留まりを知らぬ焔。快天に煌めく星のごとく、御さねば一帯は果てるかの」
自ら生み出した焔を、もう過去の産物のように放置する。許せないとかじゃなくて、信じられなかった。自分の焔なのに関心が無い。町が破壊されようと、誰が死のうと、空狐にとっては炎を生み出した時点で興味はなくなってる。恐ろしいとしか思えない。目の前の小さな狐の耳をピンと立てた女の子を。
「焔帝、七の舞」
差し出す手のひらの中に煌めく焔。熱に耐える九稲は、その強大な力を前に次第に表情が濁る。だが、焦りはない。その表情は凛を留め、手のひらに焼きつく焔玉に静かに息を吐いた。そして九稲は静かに焔玉から手を離し、その場で舞を舞う。全身を焼き尽くす焔の中で、九稲の身体を焔が走る。炎の中の焔は色を増し、九稲の正面にある小さく凝縮された太陽の縮図のような焔玉を覆っていく。同時に九稲の背中から一つの灼熱色の焔が空へを昇る。破壊されていく町を包み込むように、一本の焔の柱が空を覆い始める。
「空狐、貴女の好きにさせるほど、私は寛大ではありません」
焔玉が九稲の焔に包まれ、激しさを増してさらに圧縮されようとする。一方で被害が拡大していく周囲の惨状を炎が覆い尽くす。焔のドームが出来上がり、被害がその壁に遮られる。
「ほっほ、九稲め、少しはやりよるようだの」
空狐が笑った。でも俺は、動けなかった。空狐の目が、殺戮を楽しむような恐ろしさを醸し出している。下手を踏めば、すぐに灰になる。そんな予感がした。子供なのに、目つきだけは稲浪がババ様と呼ぶに相応しいような力量を覚える。
「うわっ!」
そう思ったのも束の間。背後から真っ赤すぎるくらいに赤い炎が目の前に降り注いできた。
びっくりして尻餅をついた。俺の眼前に焔の壁が燃えている。
「ほぉ。なるほどのぉ。かような真似をしてくるは、七の尾、か。九稲よ、姿を我が前に晒せよ」
空狐が俺を追い越す。小さな背中が揺らめいて見えた。俺には見えない何かが空狐を守るように、小さな背中を陽炎のように纏っている。何となくそれだけは分かった。
「く、九稲さんっ!」
でもそれ以上に、目の前の焔の壁の中から全身に焔を纏い、赤白の神子服が靡く。
「九稲、さん……」
生きていたんだという安堵。でもすぐに異変に気づいた。
「ほっほっほ。久方に戯れられそうだの」
空狐は笑っている。口調はどこか古さがあるのに、声はやはり子供。
「空狐。貴女が犯したこの罪、これは許されることではありません。恐らく、日本国における創世の中で、甚大な被害を被ったことでしょう」
鋭く怒りを含んだ感情の言葉。別人に見えた。九稲産の瞳が焔と同じように赤く輝いている。綺麗と言うよりも、これも恐怖だった。俺のことは届かなくて、俺は路肩の野草のように二人の視線に取り入れられていなかった。
「それこそ愚かなり。我は葬ることをしたまでよ。これは戦であろう? 戦場に罪があるとな?」
挑発的な物言いに、九稲さんが焔に包まれた腕を翳す。そこには渦を巻いている焔の玉があった。でも、さっき見えたものより小さい気がする。でも、何だろう。物凄く嫌な予感が冷や汗なのか、暑さの汗なのか、分からない汗が出てきた。
「人々は生活を育み、人は生きているのです。私たち神子に、それを犯す権はありません。その罪、この焔をもって鑑みなさい、空狐」
九稲さんが焔を持つ手ではない、空いた手を横に伸ばす。それでもその手には焔が宿っていて、そこから焔が焔のドームに伸びた。
「真に壮観なり。人栄など、我が焔の前に岩と化す。見よ。これこそ理。我らが今こそ、治むるは、人界なり」
空狐が満足げに笑んでいる。でも、俺は唖然としていた。焔のドームが九稲さんの腕の焔と同化して、莫大な焔が九稲さんの中に取り込まれた。あれだけの焔を稲浪より艶やかに見えないでもないけど、比較的華奢な体のどこに収まっているのか、不思議だった。でもそれ以上の驚愕の世界が、背景になっていた。
「な、何、これ……」
空が開けていた。昼過ぎの白さのある青空が、視界を覆い尽くすように見下ろしている。大府大阪に来て、見たこともないくらいに広い空があった。でもその下は、なくなっていた。
「仙狐とて、身を引かれた身。罪と罰を解さぬなど、誰が聞き入れましょう? 覚悟は宜しいですね?」
青の空と、黒い大地。熱は冷めない。白煙が立ちこめ、焼臭が鼻をつく。溶けた溶岩は固まる。固まっているんだ。黒に熔けたあらゆるものが、一面をアスファルトのように蔓延っている。遠くに見える景色。数百メートルは軽く焦土と化していた。俺が知る大阪の都会並木がどこにも無かった。
「ほっほっほ。良い良い。かかってきやしゃんせ、九稲?」
それでも空狐の楽しげな宴は終わらないんだ。その挑発に九稲さんが焔玉を持つ手を赤く鋭い瞳で掲げ、放った。
その瞬間は、本当に一瞬。目の前が真っ赤に染まった。眩しすぎて目を腕で覆い隠した。
「何を勘違いしておるか、九稲」
「……やはり、通用はしませんか」
腕を退けて、視界が開いた時、俺はいつの間にか大地にねじ伏せられていた。誰かの直接的な作用じゃなくて、何か、もっと強大なものに踏まれるように。
「あ、ぐっ……」
重たかった。ただからだの自由を奪われて、重量を覚える。それから、空が赤くなった。
「焔玉は我の生み出したる焔。触れることなど容易すぎるわ」
空を見上げた。それは焔の空。爆発だったんだ。九稲さんの放った焔の玉。それを空狐は容易く弾いて、空で爆発した。だから重たくて熱いんだ。もう熱さに感覚がおかしくなってる。どうすることも出来なくて、どうしようもない。
「しかし、我に焔を振るった。如何なることがあれど、これは戦よの。手加減はもうせぬぞ」
空狐が俺の視界から消えた。
「受け立ちましょう。貴女を粛清するが、私の役目なのです」
そして、九稲さんが焔の尾を引きながら飛び上がった。空には三つの焔が飛び交っている。赤い焔と、橙の焔。その二つの合わさる焔。青空が消えた。
「お、俺、どうすれば、良いんだ……?」
蚊帳の外だ、俺。空を飛行機雲みたいに空狐の橙の焔と九稲さんの赤い焔が飛び交ってる。俺が見た、稲浪との戦いとはその規模がまるで違う。
「これが、神子、なんだ……」
勝ち残ることを前提にした神子の創世が、こういう力の衝突がある。稲浪のことはまだ知らないことが多い。その中でこんな戦闘を目の当たりにして、何も考えられなかった。
「この程度か、九稲よ」
空狐が片腕に宿した焔で、九稲の焔を振り払う。縦横無尽に飛び回る九稲に比べ、空狐はその場で炎に合わせて身体の向きを変えるだけ。大きく動くことは無い。
「蛇焔、一の舞」
空狐の挑発に、九稲が空中での動きを加速する。舞を踊るように九稲の身体が宙で焔を躍らせる。空狐はただ眺めるだけ。そこに九稲の背後から一陣の風を纏う焔が立ち上る。九稲を越える焔の規模は大蛇のごとく、九稲の身体を取り巻く。
「ほっほっほ。蛇焔を使役しておるか。我の知る好し頃の九稲ではないようだの」
「無論です。私はこの近畿を仕切うる神子なのです」
だからこそ、町を破壊した空狐には罰を与える。九稲の目の色は怒りを含むように赤く、冷静に対峙している。巨大な蛇焔が獲物を狙うように風の中で燃えている。
「ならば仕向けてみよ。我は逃げはせぬぞ?」
空狐は耳で挑発するように動かす。九稲が腕を横に出した。
「行きなさい、私が焔よ」
静かに九稲が腕を空狐へと手向ける。それに合わせて巨大な焔がうねりながら飛んでいく。もはや誰に見られようと無関係な戦闘。勢いを増しネズミを喰らわんとするように焔が空狐に襲い掛かる。空狐は何もしなかった。ただ、どこか楽しげであり、何かを含んでいるように口の端を上げ、蛇焔の中に身を飲み込ませた。
「…………」
九稲は己の背後、腰部から伸びる焔の先、空狐がいたであろう空間を凝視する。風に赤い髪が揺れ、香りが流れるように九稲の髪からは火の粉が煌めいて飛んでいる。それを地上から呆然とへたり込んでいるように隼斗は、息を呑んでいた。
「さて、次は如何に我を楽しませる?」
「っ! ……あぁっ!」
蛇焔の中から、その焔を串刺しにするように、一閃の雷鳴のような焔が突き抜けた。九稲の小さな悲鳴と共に、その身体を黄色の焔が焼く。九稲の焔とは比にならない小さな一閃。だが、その到達速度は稲光をも越える兆速で、焔が九稲に直撃して爆発すると共に、空に九稲を中心にした炎の波紋が走った。回避しようにも蛇焔の動きでは対応できず、九稲は蛇焔を解放し、己から焔を吹き出し、空狐の焔を払った。それでも神子服の端に焦げが出来ていた。
「妖狐九稲よ。技は得てして一を出すものではないぞよ。常に二は繰り出しておらなんざ、間に合いはせぬ」
蛇焔が消え、空狐はそこにいた。だが、その小さな身体は無傷で、異質なものがその全身を包み込んでいた。
「神通力、ですか……?」
空狐の周囲の空間が揺らめいている。だが焔ではない。空狐の姿が揺らめいているだけで、透き通っている何か。それこそ蛇のようにうねり、時折焔が稲光のようにその何かから噴出する。
「仙狐なればこその、焔の使いよ。我とは別離した自我において、我を守るのもよ」
姿を明確に捉えることは叶わないが、その焔の使いは、動いている。空狐の姿が揺らめいているのが、せいぜいの判断材料だが。
「私の焔を食らう使い魔とは、少々軽率に存じておりました」
九稲に微かな笑みが浮かぶ。
「真に力を見せてみよ。さもなくば、我より往くぞ?」
だが、空狐は下らない戦いを続ける気はないようで、瞳は笑ってはいないが、声は笑っていた。と、同時に空狐の姿が空間から消えた。
「っ!」
九稲が眼前で焔を纏った腕で崩御姿勢をとる。そこへ、無邪気な笑みと言うよりも、殺し合いを楽しむ鬼のように勢いづいた表情で、空狐の拳が焔の尾を引きながらそこへ突出したように打ちつけ、九稲の身体が宙を滑る。
「対応速度が若干遅いの?」
「あなたが早すぎるだけ、ですっ」
九稲がそこへ焔を発す。だが、空間には何もない。空狐はいなかった。九稲が繰り出す焔の間逆の方に空狐が狂演したように九稲に焔を打ち込む。それでも九稲も簡単には受け入れはしない。
「独焔、三の舞」
九稲の腰部から焔が人の形に変化し、九稲に並ぶ。
「ほぉ、焔の化身とな。まことに九つが焔を司るようになったようだの」
九稲の轟々と燃える炎の化身に、空狐が一度距離をとった。
「ええ。あなたのそれには、到底及ばないのでしょうが」
仙狐と善狐には決定的な違いがある。仙狐は、千年の時を超えて存在する。故に空狐はあらゆる神通力を身に付けている。それこそ、狐の階級において、空狐は千年を生きる天狐より、さらに三千年を経ている。もはや神の領域としての地位がある。狐は力を得ることによって、尾を増やす。しかし、九の尾を身に付ける狐は、やがてその尾を減らしていく。故に空狐には焔を宿す尾はない。あるのは耳だけ。あとは人型。不要なものを切り捨て、得たものは濃縮する。もっとも威厳と脅威を人間が感じるものは九尾。だが、狐にとっての脅威は尾を捨てた零尾の狐。それが仙狐たち。
「無論なり。しかし、一匹より二匹。我に相対するのならば、数もまた力であろう。本気にて参れ、九稲」
神通力の一つ、神足通。空狐が風のように姿を消す。九稲には掌握は出来ない。だからこそ、九稲は視界を閉じる。
「源焔」
黄色の焔が空間から噴出し、空狐の周囲に吹き荒れる。
「焼き尽くせ、我が焔よ」
言葉だけが轟き、姿は見えない。
「焔帝、七の舞」
九稲に無数の焔の柱が襲い掛かり、九稲が焔のドームを張る。熱風が吹き荒れた。空狐の焔を受け止めるが、
「甘いの。戒爆」
「独焔っ」
焔帝の防御のドームに突き刺さる無数の焔が、空狐の言葉と共に戒めのごとく爆発する。空に烈風が吹き、遠くを飛行してきたNBSLの恐らくは監視ヘリだろう。烈風に急激に高度が降下した。九稲は焔帝の中で、意識を集中させ、独焔を操る。空狐の使い焔とは違い、独焔は自らが御するようだ。命じられた独焔が、焔帝を破壊せしめんと爆発しているのを見下ろしていた空狐へ襲い掛かる。
「ふふっ、良いの。我はかようなものを待っておったものよ」
九稲を模した独焔が焔を空狐に放つ。だが、空狐は笑顔でその焔を片手で受け止めた。
「失せろ」
そして、空狐は鼻で笑い捨てるように腕を振るう。そこから溢れた焔が、雪崩のように独焔を飲み込み、赤い焔は黄色の波に打ち消された。
爆発が収まり、九稲が再び姿を現すと、空狐が手のひらから焔を幾つも放つ。
「っ……恐ろしいお方……っ」
九稲も同様に焔で受け止めるが、数は圧倒的に空狐が勝り、九稲が交わす度に町へ焔が降り注ぐ。
「避けても良いのかえ? 町が燃えておるようだの」
「っ!?」
ただでさえ、地上は一区画を穢土と化している。それに加えての空狐の焔が火災を呼んでいる。NBSLの車が消火に当たっているようだが、きりが見出せない。
「その姿では、我を倒すは叶わぬぞ?」
能力を使役すれば、同然疲労は蓄積する。九稲は先ほどから大技を放っている。当然九稲の疲労は明らかに増している。
「……いいえ、私が役目は人々の生活を守り通すこともありのです。害を及ばしたりはしません」
「そうか。なら、果たして見せよっ!」
空狐が少しばかり本気でも見せようと、一歩踏み出すように宙を蹴る。姿はそれで消えた。
「っ!」
九稲の目の前で焔が炸裂し、その中から小さな少女の拳が打ち抜いてくる。九稲が受け止めるが、少女の姿には不相応ではない圧倒的な力に、九稲に苦渋が浮かぶ。
「本意を見せてみよ、我が可愛い孫よ」
拳を打ち込み、九稲が腕で受ける。
「隙を見せては射抜かれると言っておろう」
拳に意識を向けていた九稲に、拳を繰り出したまま空狐が脇腹に蹴りを打つ。
「っく……」
全身に焔を纏っている九稲だが、それでも、その衝撃に表情が苦痛に歪んだ。それでも攻撃の手は止まず、空狐を取り巻く使いの見えない焔と共に、垂れ流しにされているような空狐の焔が、空狐の攻撃とは別に襲い掛かる。
「どうした? 舞わぬのかえ?」
口調にも表情にも疲れを見せない空狐。遊ぶことに夢中で疲れを知らない子供のように九稲に攻撃を止めることが無い。
「お戯れを……」
九稲の弱点でもあるのだろう。空狐は悪戯な笑みで訊きつつも攻撃は激しさを増す。拳を打ち込んでは、蹴りを加える。九稲も防ぐが、そこへ焔が襲い、相殺する焔にも徐々に疲労が見える。そして何より妖狐としての九尾の尾の力を使役しようにも、その隙を与えない攻撃の連続に、舞うことが出来ない。
「ふふっ、まだまだよの、九稲。さも疲労が露呈しておるがの?」
拳に烈火を宿し、打ち込む。防いでいた九稲の焔が打ち破られる。
「っぁあ……っ!」
九稲の長く赤い髪が大きく乱れ、九稲の身体が落下する。
「これで終わりではなかろう」
「あっく……っ」
落下する身体に、空狐は両手を組み合わせ、肢体を反らせる。勢いをつけ、落下する九稲へ向かって。
「九尾を見せよ。我はひ弱な輩を相手にするなど、つまらんぞ」
反らせ、勢いをつけた両腕を、九稲の腹部に叩きつける。九稲の瞳が大きく開き、口から胃液が逆流した。しかし身体は叩きつけられた勢いに、加速して焦げ落ちたビルへ落ちた。
「やれやれ、だの。既に我らは目視の渦中の中であろう。何を努めることがあると言うだか」
舞い上がる粉砂塵を見下ろす空狐は、小さく息を吐く。そして視線は上空で戦況の始終を監視するようにホバーリングしているヘリへ向く。
「NBSL、か。我が愛しき孫をここまでひ弱にさせたるは」
九稲から興味を失ったように、空狐がヘリに腕を伸ばす。
「我が孫よ。ババよりのせめてもの手向けよ。安らかに散り、人界より離れ、再び魔となせ」
空狐から焔がヘリへ飛び、大蛇のごとくヘリを飲み込んだ。焔に包まれ爆発を起こすが、それすらも焔は飲み込んだまま、空狐が引き寄せるように腕を引いた。
「創世など、人の戯画。ならば我は見せよう。神の戯画を」
ヘリを飲み込んだ巨大な焔が、上空へと舞い上がり、九稲が落ちたビルへ向かって、空狐が振り下ろした。
「あ、ああ……うそ、だろ……」
あんなに強くて、俺たちを守ってくれた九稲さんが、落ちた。俺の目の前のビルを突き破った。空には小さな空狐が見下ろしていた。最初は優勢かと思ったのに、何が起きてるのか分からないままに、九稲さんが空狐に叩きつけられるように落ちてきた。
「く、九稲さんっ!」
たまらずに駆け出した。まだ熱過ぎるくらいに黒焦げの道路に、九稲さんが横たわっていた。このままじゃ火傷する。九稲さんの服に火がついたから。俺は走った。
「うおっ、と?」
踏み込んだ瞬間、ぐにゃりと足が沈んだ。まだ固まってなんかいなかった。ゴムが焼ける匂いが鼻について、持ち上げる足に違和感があった。
「熔け、てる?」
靴底がボンドをついた指を引き離すように糸が引いた。かすかに足に熱を感じる。
「やばっ」
そう思った瞬間に、俺は自分の事よりも、九稲さんを見た。急がないと九稲さんが俺の靴みたいになりそうだった。
「九稲さんっ!」
意識がないと思ったけど、俺の声が聞こえたのかゆっくりと身体を起こす。その瞬間、手が燃えた。俺の靴底が解ける溶岩のようなビル跡に素手をついた。火傷じゃ済まないはず。
「はや、と、さん……逃げて、下さ、い」
起き上がる体が燃えている。赤かった瞳が元に戻ってる。それに服も焼け焦げてる。驚きしかない。でも心配が今は勝った。
「ここは危ないですっ! 早く離れましょう」
駆け寄る頃には、足は少し熱い湯に浸けてるような熱さがあった。
「平気、です。それよりも、隼斗さん、逃げて、下さい……ここは、危険で、す」
さっきまでの力強さのない九稲さん。腕を取ろうとしたけど、躊躇った。炎が肢体を包んでる。しかも熱かった。分かってるように九稲さんが自力で起きた。
「稲浪の所、へ、急いで、ください。空狐は、まだ、戦いを、終えていません……」
立ち上がると俺よりも小さかった。燃える炎を振り払うように衣を正すと、空を見上げ、俺もつられた。
「え……?」
空には、空狐の姿が小さくあった。でも、その後ろの空には、燃え盛る焔が球になっていた。もしかして、また? そんなことが脳裏を過ぎる。
「ここにいては、私にもお守り差し上げる猶予はありません。ご自信の神子の下で、身を潜めて下さい。空狐は、恐らく狐を狩るはずです。私は抑えることが精々かもしれません」
「そ、そんなっ。じゃ、じゃあ稲浪にも……」
手で遮られる。
「いいえ。私一人で十分です」
振り向く九稲さんは、小さな笑みを浮かべていた。でも俺には、それがなんと言うか、遺言に聞こえた。
「で、でも、あんな力に……」
空に広がる絶望を呼ぶような焔。地上と空からの熱が唇をすっかり乾かしている。喉が痛い。
「ご心配ありがとうございます。ですが、私は、これでもNBSLの監視神子なのです」
「……え?」
カミングアウトに、言葉が消えた。
「ですので、お痛いが過ぎる神子には、お仕置きをしなければなりません。隼斗さん、どうぞ、稲浪のことをよろしくお願いいたします」
九稲さんが全身に焔を纏って、また瞳の色が変わった。なのに、俺は不安だった。勝てる予想なんか消えた。だって九稲さんは傷ついているのに、上空にいる空狐は平然としてる。
「……それでは、ごきげんよう」
「く、九稲さんっ!」
吹く熱風に顔を覆った。燃える炎の音が遠ざかり、九稲さんが空に舞った。俺は何も出来なくて、呆然と見ようにも、足からの熱に耐えられなくなって、慌ててその場を離れた。次に見上げた瞬間には、二人の神子の小さな姿が巨大な焔の眩しさに見えなくなっていた。
「稲浪、まだ戻ってこないのか……」
俺にはどうすることも出来ない。九稲さんはまるで勝てなくても、何とかして一手を打とうと、捨て身に見えた。いや、たぶんそうなんだ。あんな少女の空狐でも、詳しくは分からないけど、圧倒的な壁がある。監視神子って言っていたから、きっとその役目を果たすために、一人で闘う気だ。守ってもらったのに、俺には何が出来るんだよ……。
「くそっ」
初めて、神子の闘いで悔しいと思った。
今回は、一気の乗せると量が多いので、前後編に分けました。後編はサイクルをおって、更新します。
次回更新予定作は「ハウンと犬の解消記」です。
予定日は9月7日です。