開幕.一神抄
これも予定より早い更新です!
とは言っても、ちょっと長くなりそうなので分割更新しますので、次回予告のコーナーは次の続編掲載時にします。
「な、何だ、これ……」
翌朝、いつものように稲浪に抱きしめられて、幸福と苦痛で目覚めた。そして寝ぼけ眼で相変わらずの捲れるネグリジェに、下半身に自制を働かせて朝食を用意する。その傍らで朝のニュースをつけていると、いつもならトレンドを紹介するコーナーのはずが、緊迫感漂う中継映像が流れてた。
《ご覧いただけますでしょうか? まるで隕石の衝突でもあったかのようにビルは倒壊し、道路は焼け焦げています。辺りは焦土の臭いが立ち込め、所々の水道管、電線、ガス管が破裂し、警察と消防による規制線が張られています》
―――あれ? ここって、大阪、だよな?
とっさに言葉も出ない。瞬きが無駄に多くなる。味噌を溶く手が止まる。何が起きた? これは映画か何かの紹介か? そんなことしか浮かばない。
《松本さん、現場の混乱はどのような感じでしょうか? それから死傷者の情報は入っていますか?》
スタジオの様子がワイプに出ている。どう考えても宣伝映像じゃない、現実。右上にあるニュースの題が、『大府大阪 梅田地区大爆発事故』と出てる。
《えー、現場は渋滞が起きています。地下鉄、JRともに環状線は一部区間で折り返し運転を行っており、現場周辺への立ち入りは完全に遮断されています。情報によりますと、被害者の数は倒壊したビルの爆発に伴うガラスの破損などで軽傷者が数名程度病院で治療を受けている模様で、死者に関しては不明とのことです》
場面が空撮に変わる。
「おいおい、ちょっ、マジ、これ?」
沸騰する鍋を止め、リビングのテレビに寄る。明らかに俺の知ってる町並みだったものだ。それが何? 特撮でもしたのかとか考えてしまうくらいに、大地震でも起きたのか? と思うくらいに街が崩壊してる。
「ふぅ、さっぱりしたのじゃ。隼斗、朝餉は出来ておるのか?」
「あ、稲浪。これ、見てみろよ」
朝食どころじゃない。髪を下ろしたままでさっぱりしたんだろうけど、今だけは稲浪を見てる場合じゃない。
「ん? 何じゃ、ここは?」
混乱と驚愕に囚われてる俺だってのに、稲浪は首を傾げるだけ。すげぇな、これ見て動揺しないのか?
「梅田だよ。ほら、こはくさんの太陽の丘があるところから近い」
「おぉっ! あそこじゃったか。して、これは何事なのじゃ?」
「分んねぇ。何か爆発があったらしいけど……」
どう考えても爆発には思えない。崩壊したビルの痕跡と道路に沿って焼け焦げてる街路樹とか、明らかにおかしい。それに空撮映像にNBSLのトラックが幾つも現場に入ってる。
「よもや、かような事態が起きるとはの。こはく殿は無事なのじゃろうか?」
けど、やっぱり稲浪は動揺しないで、静かだ。それはそれで珍しいんだけど。
「いや、太陽の丘はここから少し離れてるから大丈夫だろ。つーか、仕事、どうなるんだ?」
現場も現場に、俺のバイト先の事務所のビルがある。見覚えのあるビルを見つけて、モニターを凝視した。ビルは倒壊はしてないけど、立ち入り規制区域内にあった。
「あ、稲浪。悪ぃけど、魚焼いてるから、皿に移しといてくれ」
「うむ。相分かった」
タイミングよく携帯が鳴った。会社からだった。
「はい、あぁ、おはようございます」
映像が浮かび上がる。
《今、テレビをご覧になられていますか?》
「はい、何かすごいことになってますね……」
何となく稲浪の様子を見て分かった。事故なんかじゃなく、神子の戦闘の痕跡だと。ただ、稲浪は無関係だからか、自分の空腹が優先らしい。意外と手際よく俺と二人分の食事を寄ってくれてた。
《ええ。事態の収拾と会社ビルの修復に当面の間、業務は他社へ委託することになりましたので、申し訳ありませんが業務は停止となります。その間の間は希望者への派遣業務を紹介していますが、風祭さんはいかが致しましょうか?》
早い対応だと思った。今朝ニュースになったばかりなのに、もうそこまで他社と連携が取れているなんて。まぁ所詮はバイトの俺には従うしかない。
「あの、それは希望しなくても、いずれは復就出来るんでしょうか?」
《現段階では大阪支店を始め、一部支店の営業の継続となりますが、会社ビルの修復後にはそのつもりを予定しています》
他の仕事を紹介してもらえるのは、悪い相談じゃない。でも、迷った。金に困ることはない。
「隼斗。朝餉の支度が出来たぞ。早う食するのじゃ」
「えっと、じゃあ、また業務が再開してから連絡をもらえますか?」
《では、当面の間は給与の支払いも不能となりますが宜しいですか?》
「はい。それで構わないです」
《では、今月分の支払いは給与日の支払いとなりますので、ご確認をお忘れないようお願い申し上げます》
そこで話を終わらせて通話を切った。
「これ隼斗。朝餉が冷めてしまうではないか」
「ああ、今終わったよ」
稲浪の急かしに、思わずそう言ってしまう。恐らく今日から俺はプー。しかも大金持ちの。でも、今は状況が分からないから、それでも良いか、とどこか納得してる俺もいた。
「何じゃったのじゃ?」
「仕事。当分は会社がほら、あれだから業務がないってさ」
せっかくいつものように早起きしたのに、意味がなくなったな。
「それは何じゃ? 隼斗は今日より働きはせぬと言うことなのか?」
「まぁ、そう言うことだな」
牛丼店のバイトも辞めたし、これで稲浪がいなければ本当にダメ男だ。
「ふむ。働かざるもの食うべからずと言う。爛れた日々を送るわけにはいくまい」
稲浪に意外な一言を言われた。少し驚いた。
「まぁ少しは創世のことを知る良い機会だし、何かしら調べてみようと思う」
「ならば我も手を貸すのが、我が務めであり、働きじゃ」
相変わらず緊迫した映像を映し出すテレビを他所に、稲浪はいつもと同じ様子で朝食に箸を進ませていた。
食後、時間も空き家事を済ませ終えると、いよいよ暇になる。今まで規則正しい生活をしていたから、手が空くとどうも落ち着かない。
「なぁ稲浪。これ、やっぱ神子の闘いのせい、なのか?」
気になってつけっ放しにしていたテレビは、番組を変更して特集を組んでいた。災害のようで、そうじゃない。人為的でいて、人為的でない。けど、それを知るのは一部。
「様子からして恐らく狐か聖獣族の手技じゃろう」
「狐? 聖獣? 何だ、それ?」
狐は恐らく稲浪や、稲浪のお姉さんなんだろうとは分かる。
「よく見てみよ。これは明らかな焔じゃ。神子の中で焔を操るは狐族、もしくは聖獣族に部類する者だけじゃ」
稲浪がテレビを指す。焦げ付いた木々や解けた壁面や車。確かに焔の熱ででもなければ、まずその状況には至らないと理解できる。
「そうなのか? じゃあ、これって稲浪のお姉さんの可能性も?」
稲浪は俺と家にいたアリバイがある。琴音さんとつばさ君もそれは知ってる。そうなると俺が知るのは稲浪のお姉さんだけ。
「姉上がかような真似はせん。恐らく不調整神子の可能性もあろう」
最近、どんどん知らない言葉が出てくるよなぁ。辞書引いても出てこない言葉だし。
「未調整?」
「つばさもその類じゃ。最終調整を受けぬまま嵩天原へ来た神子は、能力の開花が未熟な者も居ると申したであろう?」
「ああ、前に言ってたな」
だからつばさ君は力が未熟で、琴音さんと俺は手を組んだ。
「その逆も居ると言うことじゃ。未調整は力を開花させ、かつ抑制を行うのじゃ」
稲浪が不意に掌に狐火を起こす。少し熱い。そして相変わらず不思議でならない。
「我も抑制を受けた身。故にかように操れる。じゃが、抑制を受けぬ神子は発動させた能力を常力とし使役する。そこに加減はないのじゃ」
ポッ、と稲浪が狐火を消す。これが加減しているのは知ってる。エンとか言う神子との戦闘で使った比じゃない。
「状況を我が目で見ぬことには何とも言えぬが、恐らくいずれかじゃろう」
そこで会話が途切れる。災害対策本部だとか様々な中継を挟み、現場の状況が刻一刻と告げられて、上空のヘリやら野次馬の姿が多くなっていた。
その時、ドアフォンが鳴った。
「はーい」
稲浪を残して玄関に行く。
「あ、隼斗さん。いらしたんですね」
「琴音さん、おはようございます。つばさ君もおはよう。どうかしましたか?」
「うん」
琴音さんだった。つばさ君は何か照れてるみたいなそっけない返事。慣れたから良いけど。
「ええと、その、今朝のニュースのことで、なんですけど」
どうやら琴音さんも考えてることは同じだったらしい。
「あれ、絶対神子の仕業だぜ。俺分かるんだよ。俺と同じ未調整って奴の仕業だ、絶対」
「と、つーちゃんが言うもので、隼斗さんたちにもと思いまして」
琴音さんに比べれば、俺たちの方が確かに詳しい。琴音さんを出来るだけ危険な目に遭わせない様に言わないだけで。
「あ、じゃあ、どうぞ。ちょうど稲浪ともそのことで話してたので」
二人を招き入れる。
「お? 琴音につばさか。如何用じゃ?」
「おはようございます、稲浪さん」
「おっす」
「稲浪、琴音さんたちもこれ、気になったって」
相変わらず映るテレビ画面の惨状。全員の視線を集めていた。
「なぁ、これ絶対どっかの神子だよな?」
「うむ。かような真似は人間には出来まい」
神子同士、やっぱ何か通じ合ってるみたいだ。
「こんなことが近くで起きるなんて、思ってもみませんでした、私」
「俺もです。創世を浅く考えてましたよ」
ですよね、と俺と琴音さんの乾いた笑いも重なった。
「今は私たちは何もしてませんが、こういうことが大々的になるとさすがに考えなければいけませんよね?」
「やっぱりそうなんですかね。出来ることならこのままってのが理想ですけど」
何があったのかは知らないけど、あんなことに巻き込まれたら、この間みたいにはまずいかない。下手したら死ぬ。だったらこのまま隠れて……。
「相手は何奴かは知らぬが、我が同域においてのこの始末。NBSLが動き出さないわけがないじゃろうな」
「当たり前だろ。映ってんじゃん」
つばさ君がテレビを指す。確かに公安機関の白や赤の車の中に、幾台もの黒の車が停止している。規制線のように道路を封鎖してる。上空からの映像じゃないと、きっと見えない。
「我らは破壊をせしめるが故に闘うのではない。これは罪じゃ」
稲浪が言う。
「罪、ですか?」
琴音さんは規模の大きさにこれが犯罪とは思えないように首を傾げる。俺もそうだけど。
「罪って何?」
「悪いことをすることだよ」
つばさ君は根底を知らないみたいだな。自分の事を未調整って理解してるくらいだから、きっとこれを見ても悪いことだって認識は薄いってことか。ちょっとだけ、つばさ君が戦闘力を大して持っていないことに安堵してる俺がいたりした。
「罪には罰を。罰には粛清を。恐らく狗が放たれておるやも知れぬ」
稲浪の言葉に、俺たちは稲浪へ意識が映る。
「なぁ稲浪。その狗ってのはやっぱ別格なのか?」
前に別格の強さってのを聞いた覚えがある。もしかして、これくらいの力はあるんだろうか?
「別格は別格じゃ。じゃが、奴らはマスターよりの調整を受けきっておる。愚弄を働きはせぬじゃろう。なればこそ、狗は嗅ぎつけ牙を剥く。そうならば、この程度では納まらぬやも知れぬ」
この惨状をこの程度と括る稲浪には、呆気に取られると言うか、稲浪は一体何を知っているのか、興味心もあった。
「でも、もしですよ? もし、仮にそうなってしまった場合、大府はどうなるのでしょう?」
琴音さんの不安に小さくなる問い。
「大丈夫だって。琴音は俺が守ってやるんだからさ」
つばさ君は、きっと理解はしていないだろう。その言葉は今は浮いていた。
「うん。でもね、私はツーちゃんのことも心配なんだよ?」
でも琴音さんはやはり女性だ。身を屈め、つばさ君と目線を合わせて優しく言う。
「俺は負けないって。琴音は気にしすぎなんだってば」
「そうは言ってもね……」
「つばさよ」
強く言うにもつばさ君は子供。琴音さんは困ったように苦笑する横で、稲浪は凛とした目で見つめる。相変わらず綺麗な目してんなぁ、とかこれが俺の神子かぁ。と改めて想い直すものが多いな、稲浪は。
「威勢は認めよう。我は嫌いではない。じゃが、威とは得てする力を誇るもの。安易たる威は虚でしかない」
「なっ、なんだよっ。俺だって闘えるんだからなっ」
稲浪の言葉は、弱いくせに見栄を張るなと俺には聞こえた。
「闘えるというのは、如何なるものでも可能じゃ。神子での戦闘と戦を同等に捉えておる時点で、未調整たる誠の証じゃ」
「い、稲浪。それは言いすぎじゃ……」
「分からぬが故の愚行がこれじゃ。赫職と契った神子は、汝が欲の下の行いは慎みを知らねばならぬ」
愚行として映し出される梅田中心街。未だに白煙が所々に立ち上っている。
「よく分かんねぇよ、そんなこと言われても」
稲浪の話はつばさ君にはまだ少々小難しかったよう。分からないでもない。
「ならば、赴くかの。己が目で世界を知ることこそが万時の自制を得んとするのじゃ」
稲浪の唐突な提案。一瞬何を言ったのかと思った。
「ちょっ、待てよ稲浪。まさかここに行くのか?」
「無論じゃ」
即答ですか、そうですか。素直に納得できるわけがないじゃないか。
「あ、あの、でも、ここって立ち入り禁止区域ですよね? 近づいても分からないと思うんですが……」
その通り。空撮映像から分かる通りに、現場付近にはNBSLのトラックが道を封鎖して市民は立ち入りが認められていないと報道されている。
「我らは創世の神子と赫職じゃ。現場を指揮するは当にNBSLじゃ。警察など所詮は着せものじゃ。我らの立ち入りを制限するは、マスターのみ」
「え? 入れるの?」
つばさ君もよく分からないのか、意外そうに聞く。
「我は白狐。我が焔は最強じゃ」
あぁ、分かったぞ。何日も稲浪と生活してると。
「それで粛清、とかないよな?」
「さぁの。その時はその時じゃ。我が焔を以ってすれば狗であろうと恐るるに足りぬ」
突破する気だ。しかも闘う気まで満々ときたか。
「え? 本当に行くんですか? これからですか?」
琴音さん、今は貴女の驚きに俺は全くもっての賛意を示します。行きたくないという驚きに。
「戦において先手は必勝じゃ。不視なる神子の情報を得ることも戦においての糧となるというのもじゃろう?」
そりゃぁ、こんなことがあったんなら、何かしらの情報が欲しいと思う。いつ何があるか分からない世の中なんだから。本当に。でも、だからって唐突にも程があるだろ。
「面白そうだし、琴音、行こうよ」
「つ、つーちゃん? 遊びじゃないのよ?」
「平気だって。稲浪が言うんだから。だろ? 稲浪」
「うむ。如何なることがあろうと、この白狐稲浪が相手を仕ってくれようぞ」
あぁ、神子の二人は行く気満々だってのに、俺は反比例した気持ちの重たさを感じる。
「どうしましょうか、隼斗さん」
「どうしましょうか……」
琴音さんと顔を見合わせる。
「支度をするぞ。つばさよ、神子装束を纏ってくるのじゃ。戦なきとは限らぬからの」
「分かった。琴音、一回帰ろう」
「え? あ、つ、つーちゃん?」
早く、と琴音さんがつばさ君に連れて行かれた。ぽつんと部屋に残される俺と稲浪。元に戻っただけなのに、何か落ち着かない気分だった。
「本気か?」
「無論じゃ」
稲浪は寝巻き以外は常に神子服。もう見慣れて最初に比べてドキドキ感がなくなったとはいえ、ショート丈の前のスカートから見える真白に近い妖艶な太ももには、視線がいつも追いかけてしまう。後ろはロング丈になってるのに、何で前はそんなにオープンなんだか。
「反対したところで無駄なんだろうけどさ、大丈夫なのか?」
「断言は出来ぬ。ただ感じることは出来る。神子が集うやも知れぬ。じゃがの、白昼の戦を好む神子はおらぬ。万一が起ころうと我がおる。我は負けぬ。隼斗が恐れるならば、無用な戦はせぬとここに誓って申ずのじゃ」
そう言うことじゃないんだけど、言い返しても無駄だと悟った。稲浪がリビングに置いてるワイドミラーで、何もせずとも凛々しい姿だってのに、まるで今までの神子との戦闘とは異なる何かを感じているような、相手に対する己の最大限の魅を以っての敬意を示し、神子としての威厳を纏うとするように、身なりを整えていた。ただの女の子の鏡見とはまるで違う。ウェーブの流れる後姿には、それを見ているだけで何もいらないようなものすら感じてしまった。
「うむ。整ったのじゃ」
振り返る姿に舞う髪と後ろのスカート。青く微かに上に上がる瞳が俺を捉える。
「では、往くかの、隼斗よ」
楽しいことを待つのではなく、自ら赴くように自信に溢れた綺麗な笑顔で俺を魅惑する。
「稲浪、こっちは準備できたぞー」
「来たようじゃの」
「……はぁ」
素直に行くぞと稲浪の誘いに乗れるほど、俺は強くもないしドキドキもしない。代わりに出たため息は、もう諦めでしかなかった。
「何事もありませんように……」
玄関先で俺たちを呼ぶ琴音さんたちの下へ、俺は稲浪の後姿を焼きつけるように追った。
《現在、現場付近はNBSLの大型トラックによって地上からでは現場を確認することは出来ません。ですが辺りには焦げ付いた鼻につく臭いが立ち込めており、現場に向かう警察、消防員はガスマスクなどの装備を身に付けています》
案の定、現場はトラックの向こうで何も見えなかった。幾社もの報道関係者がカメラを廻し、中継をしている。野次馬も多い。この中に、もしかしたら神子や赫職がいるのかもしれないと思うと、稲浪とつばさ君の服装は、ここに敵がいると相手に教えているような気がして周囲に無意識に変化しつつある警戒に体が硬くなった。
「なんか臭くない?」
「そうね。嫌な臭いかも」
つばさ君と琴音さんが花と口にハンカチを当てた。二人だけじゃない。野次馬の大半もタオルやハンカチ、上着で目だけを出してる。
「死人じゃの。それも焼死の香りじゃ」
「香り、か? 臭いじゃないか?」
稲浪の表現に、どう考えても漂うのは嫌な、吐き気のする臭い。何度嗚咽が出そうになったことか。古い公衆便所の糞尿の臭いとはまた違う、燃え尽きた焦げ臭さと生物を焼いた鼻を突く生臭さのような臭い。胸の中から気持ち悪い何かが出そうだった。心なしかこのあたりは暑く、それがまた助長させる。
「人間と我らの感じ方は異なるのじゃ。じゃが、痕跡は残っておる」
稲浪が少し鼻を上げた。小さくスンスンと嗅いでいた。俺は布で隠しているのに、稲浪はこの臭さを物ともしていない。さすがは犬の仲間なんだろうな。でも、どう見ても外人の稲浪だと変だ。
「やはり、じゃの」
暫くあちこちに鼻を向けていた稲浪が息を吐いた。
「何だよ? 何か分かったのか?」
「うむ。我の存ずる神子が来ておった」
「え?」
つばさ君の問いに答える稲浪に、俺たちの声が重なった。
「じゃが、おかしい」
稲浪が腕を組んで考える。似合わないな、稲浪が腕を組んで考える仕草は。それはどうでもいいんだけど。
「何がおかしいんだ?」
「神子とは、姉上がおる残香があるのじゃ」
そして俺たちの声は重なる。
「え? 稲浪さん、お姉さんがいるんですか?」
「稲浪、お前姉ちゃんいるのか?」
「姉って、前に言ってた?」
琴音さんたちと俺の驚きは違う意味だった。
「我が姉は名を妖狐九稲と申すのじゃ」
そう言えばそうだった。でも、どうしてここに九稲さんの匂いがあるのか?
「もしかして、これって稲浪の姉ちゃんの仕業か?」
「そうではない。じゃから我も考えておるのじゃ」
「どうしてここにお姉さんがいたのかを、ですか?」
琴音さんの勘の良さに稲浪が肯く。稲浪のお姉さんの話は稲浪から聞いている以上、俺としてもこの所業が九稲さんの仕業には思えない。
「うむ。姉上の匂いは確かじゃが、どうもおかしいのじゃ。かすかでしかないが、別のものも感じるのじゃ。それは我も分からぬ。そやつの所業か否か、確かめようぞ」
稲浪が歩き出す。匂いを追っているのか、俺たちも自ずとついていく。
「そこの。ここから先は立ち入り禁止だ」
案の定、黒光りするトラックの手前で完全武装に近い格好の警備に止められる。
「そこの退け。我らは創世の神子と赫職じゃ」
行き止る俺たちを他所に稲浪は堂々と対峙する。頼もしぃな、全く。
「神子? 赫職? 何だそれは。下らんことを言うならさっさと帰れ」
けど通じない。
「何じゃと? 貴様。我らを知らぬと申すのか?」
「何を言っているんだ? いいからそこを退かんか。邪魔だ、邪魔」
稲浪の物言いもあっさり払われる。
「あ、あの、稲浪さん……」
「だめじゃん」
琴音さんとつばさ君はこの先に行けるとついてきたが、結局ダメだったことに苦笑と言うか、あちゃぁと表情を渋らせていた。俺もだけどさ。
「稲浪、やっぱ戻ろう」
「ならぬ。そこの戯け。我は聖誇なる狐が白狐稲浪じゃ。我の行く手を阻むとは何たる愚行か分かっておるのか?」
「ここはコスプレ会場じゃないんだ。いいからさっさと帰れ。これ以上邪魔をすると公務執行妨害の現行犯だぞ」
物凄く俺たちを面倒そうに見てくる警備。よく見れば話が通じないことがよく分かった。
「おい、稲浪」
稲浪の手を引いて一歩下がらせる。警備が俺のことをお前がこいつの男か? と妙な睨みを利かせてきた。間違ってはないけど、何だか理不尽な気もした。
「何じゃ? 何をする?」
「稲浪、あの人は警察官だ。きっと話が通ってないんじゃないか?」
全員が男を見る。
「あっ、本当ですね」
「なんて書いてあんの、あれ?」
よく見れば、警備の胸には大府警と書かれていた。この間のNBSLのエージェントと似た格好だったから気づくのが遅くなった。
「連携が取れておらぬのか。なっておらんのじゃ。我が物申してくる」
事情が分かったからか、稲浪が今度はNBSLの関係者を出せとか言いに行くんだって、稲浪の顔を見て分かった。絶対またひと悶着を起こす気だ。嫌な予感の的中率は高い。だから止めに稲浪を追った。
「貴様、警察の者じゃな? 貴様では話にならぬ。NBSLの者を出せ」
「またお前か。関係者以外の立ち入りは禁止だと言っているだろ。こっちはお前の相手をしているほど暇じゃないんだ。これ以上は本当に逮捕するぞ」
「何じゃと貴様っ! 我が申しておるのじゃ。貴様は大人しく賜っておくが人の定めじゃろうが」
「お、おい、稲浪、止め……」
「そこの警備の方。その方々を通して差し上げなさい」
留めに入ろうとした時、トラックの間から女性が出てきた。
「は? 何を急に仰るのです?」
警備が振り返ると当時に、稲浪の声が警備の背中を超えた。
「姉上っ! やはり居ったのじゃな?」
「え? 稲浪さんのお姉さん?」
「あいつも神子?」
稲浪の声に隣に来た琴音さんとつばさ君が声を漏らす。
「あの人が……」
稲浪のお姉さん? 俺たちの目の前に来た巫女服のような赤と白の着物を纏った、金髪の稲浪とは似つかない赤く風にたゆたう長髪。瞳も紅く姉妹には見えない。
「久しぶりね、稲浪。元気そうで安心したわ」
「姉上よ、これまでどこに居ったのじゃ? 我は心配したぞ」
二人が、間に警備を挟み言葉を交わす。警備は状況が分からないようで二人に視線を行ったり来たりさせてる。
「私は大丈夫よ。それよりも……」
不意に稲浪から視線を外した紅き瞳が俺を射抜いた。
「初めまして、風祭隼斗さん。私が稲浪の姉、妖狐九稲と申します」
「あ、は、はい。初めまして。あれ? 何で俺のことを……?」
稲浪と出会ってから一度として稲浪はこの人には会ってないし、俺たちとの接点はないはず。
「あ、もしかして……」
そう言えば、その出会いこそが九稲さんの仕業じゃなかったっけ?
「ええ、その節は申し訳ありません。本来ならばあのようなことは創世としては罰すべき汚行」
「いえ、そんな。むしろ、俺は嬉しかったですから……あっ」
九稲さんがぽかんとした顔で見てくる。そして俺は何と恥ずかしいことを言ったんだと、気づいた。
「うふふっ。稲浪。やはり貴女の目は確かだったみたいね」
「うむ。無論じゃ。何より姉上より享受の恵ものじゃ」
俺を見る九稲さんと稲浪の目が和やか過ぎて恥ずかしい。
「それはそれとして、稲浪、そちらの方々は?」
「我らは協定を結びし、琴音とつばさじゃ」
「は、初めまして」
「あんたが稲浪の姉ちゃん?」
「ええ、初めまして。いつも妹がお世話になっております」
深々と一礼する姿が、美しいと言葉が似合う。でも、やっぱり稲浪と姉妹だと思う。服装こそ日本人、と言うか巫女さんっぽいけど、顔はどう見てもやっぱり外人。変な感じだ。
「隼斗さん、このお方々と協定を結ばれているのですね?」
問いかけの割りには聞いているようには聞こえなかった。けど、稲浪と最初にいた頃みたいに妙な緊張に
「は、はい。そう言う形になってます」
「私たちではこのことには非力と言いますか、不似合いなもので。それで隼斗さんと稲浪さんに協力していただいてます」
「燕子つばさ、あなたはまだ最終調整まで受けていない未調整ね?」
「だから何だよ。俺じゃねぇからな。俺、こんなこと出来ないもん」
九稲さんがつばさ君を見る。
「誠じゃ、姉上。つばさは未調整とは言え、代償たるは戦闘力の劣勢じゃ。かような真似は不可能じゃぞ」
「ええ。それは分かっているわ。これを引き起こした不貞の神子は存じているわ」
え? 俺たちは皆して同じ顔で九稲さんを見た。
「姉上、存じておるのか?」
「そのことは創世の神子と赫職として権利あることです。私がご案内致しましょう」
九稲さんがついて来て下さいと背を向ける。稲浪の凛とした姿が誰に似ているのか、その背中に知ることが出来た。
「稲浪さん」
「何じゃ、琴音?」
「お綺麗なお姉さんですね」
「うむ、我が自慢の姉上じゃ」
揺れる髪と、淑やかな歩き、香る後姿に思わず見とれてしまった。稲浪が誇らしくするのもやっと理解できた。こんな姉がいれば確かに自慢したくなるよな。こんな姉ならだけど。
「おい隼斗。目がえろいぞ」
「なっ! 何言ってるんだよ、そんなのじゃないって」
つばさ君に横腹を叩かれた。まさかツッコまれるとは。子供の目線も侮れないな。
「あ、ちょっと? え、えっと、良いのか? と言うか、今のが、そうなのか?」
警備の男が取り残されたことは、きっと気づかないままだった。
続編掲載は、まだ未完結なので、それが終わってからですが、他作品にも書いている通り、これからは他作品の連載を順次再開させますので、暫くお待ち下さい。先に九つの作品の連載を再開する予定なので。