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二頭立ての大きな馬車が三台ほど慌ただしく通りすぎていくのが見えた。
その中から、羽飾りを付けた兜を被る隊長らしき人物が慌ただしく屋敷の中に駆け込んでいった。
「あれは……蛮族か魔物にでもやられたらしいね」
初めて聞いた言葉だった。蛮族、というのは彼の知識で説明可能なものであったが、その後に続いた魔物なる言葉については不吉な予感以外の何ものも彼の脳裏には浮かばなかった。
「あんた、魔物を知らないのかい?」
女将は呆れるような声音で彼の無知を咎めた。曰く、神代の時代からの人類の敵であり、奴等がいなければ人類の歴史は1000年進んでいたであろう……等々。彼は溜め息をついた。
どうやらここは、彼の想像を遥かに超える劣悪な環境であるらしかった。
武装した兵士数十人を軽々といなすような化物がうろついているとなれば、彼が街に辿り着くまでに何もなかったのは奇跡という他ないだろう。
彼は背中に冷たい汗をかきながら、街の外には出ない決意を固めた。そして昼になり、石のようなパンをかじり、拷問のごとき労働をこなし、体を拭き、泥のように眠った。
一ヶ月ほど、ひたすらそんな生活の繰り返しであった。帰りたい、という気持ちは無論あったがそれ以上に飢えへの恐怖もあった。
野宿が出来るような体質でもないし、まして食事抜きではそうそうに干からびて魔物とやらの餌になるのが関の山であろう。
その恐怖から逃れるために、彼は働くしかなかったのだ。
「おい、チビ助」そんな生活を続けていたある日のこと、日雇い連中のリーダー格から勇は呼ばれた。
勇は175cm程度の身長はあり、決してチビ助と呼ばれるようなサイズではないはずだが、溜まり場の筋骨隆々たる男達からしてみれば、立派にチビと呼ばれる資格があるらしかった。
「男爵様がお前に仕事を頼みたいらしい」
勇は驚いた。天上の存在たる貴族様が日雇い労働者の自分を知っていることにである。
男爵からやれ、と言われてやらない訳にはいかないから、勇は屋敷に向かおうとしたが、ふと立ち止まってこう考えた。
「不敬罪で殺されたりしないかな」
勇に貴族相手の立ち振舞い等わかろうはずもないから、この考えは全く当然のものであった。しかしここの下層労働者達がそれを知っているとも思えず、困った勇は唯一のあて、つまり宿の女将に聞くことにした。
結局一ヶ月が過ぎても同じ宿の同じ部屋に泊まり続けていた勇は、知り合いと言えるくらいには女将と親しくなっていた。
あるいは、という一縷の望みをかけて彼は宿へと歩を向けた。
「そりゃ名誉なことじゃないか」
女将――マグダレーナという名前らしい――は勇を褒め称えた。
彼は全く知らなかったが、彼の評判は悪いものではなかったらしく、日雇い連中の中に丁寧な仕事をするやつがいるらしい――といった噂が男爵のもとまで届いたらしかった。
勇としては、男爵に首を落とされない為にも貴族へどのように接すればいいのか考えることに忙しく、好評判に有頂天になる暇はなかったのだが。
「よっぽどのことをしなけりゃ大丈夫さ。向こうだって日雇い連中なんかに礼儀なんて期待してないよ」
勇は安堵した。確かに、考えて見れば屋敷の中には専用の掃除夫なりメイドなりがいるのだから、勇が頼まれることなど精々どぶさらい程度だろう。
どぶさらいに礼節もあるまい、ということで勇はそのまま屋敷に出向くことにした。




