1.1 お嬢様の事務所開き
身体の冷え込みに、少年は薄目を開く。布団を手繰ろうとしたものの、それは何もないところを往復していた。どうやら毛布を蹴飛ばしていたことを自覚して、身震いを一つ。
「……」
本人は声を上げたつもりでいたが、眠そうな息が漏れただけに留まった。寝起きが悪いわけではないが、彼の頭はまだまだ本調子には程遠い。昨夜も遅くまで続いた業務のため、寝不足に陥っていることが悔やまれる。
(今、何時?)
働かない喉の代わりに、瞳を緩慢に動かしながら少年は状況把握に努めた。朝には違いないが、外はまだ少しばかり薄暗い。ようやく回り始めた頭は、起きるにはやや早い時間であることを理解していた。もう少しダラダラとしていても良いのだが、すっかり目が覚めてしまっては、今更眠ろうとも思わない。
「――っ!?」
よからぬ気配を感じて少年は飛び上がる。彼の仕事が執事であることを鑑みても、慌てるような時間帯ではない。だというのに、執事の習性からか、起き上がらねばならないと直感をしていた。
「リカルド! リッカルド、いないの!?」
彼が飛び起きると同時に、声が屋敷を打つ。その声はささくれだった心すらも癒すような愛らしいものであったが、少年――ゾフィの胃や心は、むしろ若干荒れていた。寝起きで感覚が鈍っているにもかかわらず、主人の声に含まれる魔力の波が荒立っていることをはっきりと感じ取れてしまう。
「あぁ、もう!」
短く吠え、ゾフィは申し訳程度に掛かっていた布団を跳ね飛ばす。脳の回転は未だ本調子ではなかったが、身体は半ば自動的に支度を整えていた。どこからどう見ても少年に違いないが、ドアノブに手を掛けた頃には立派な執事のそれになっている。
目には見えない主人の魔力を感知できる――それは身の回りのお世話を任されている執事としてはうってつけの能力であるが、おちおち寝坊も許さないそれには舌打ちの一つもしたくなろうというもの。彼の心にあるものは今や一つ、“トラブルは避けたい”というものだった。
引っ越した先から、ご近所さんに苦情を訴えられるのは困る。冷静に事態を処理するため、少年は主人のもとへと急いだ。
とはいえ、まだまだ青さも見える。いつの間にか癖となってしまった、誰にも聞こえない程度のため息を吐きながら、彼はベストを羽織り階下を目指した。
「お、お嬢様……」
既に仕事用に頭を切り替えていたにもかかわらず、若い執事は思わず呻き声を漏らしてしまっていた。急ぎ対面した主人の眉間に、不機嫌そうな皺が刻まれていることがはっきりと彼の瞳に映る――悪いことをしておらずとも、出会い頭で美人に睨まれてしまえば、ついつい呻いてしまうというものだ。
「何?」
下僕の姿を視界に納め、主人である少女は眉を一層釣り上がらせていた。お嬢様こと、ルーリア・フォン・シュトライヒャーは、良くも悪くも目立つ人物であった。
偉そうに仁王立ちする姿でさえ、どこか気品が窺えるのは、お嬢様と呼ばれるに相応しいと言うべきか。薄暗い室内であっても、緩やかなウェーブのかかったブロンドは見て取れる。
相貌は少女のそれであるが、この年齢特有の可愛らしさと美しさを同居させていた。今でこそ険のある表情が勝っているが、笑えばそれだけで周囲を思わず笑みに変わることは想像に難くない。少女と大人の中間、発展途上の危うさが漂う姿は、世間の注目を集めてもいた。
そんな可愛らしい少女は、声を凄めて従者へ落胆の言葉を吐く。
「あなたはお呼びじゃないわゾフィ。暇があるなら、リカルドを早く呼びなさい」
「いやいや、お嬢様……」
主人の言葉にもかかわらず、少年は片目を覆って唸っていた。お嬢様の愛らしさを差っ引いても、朝から胃がキリキリと痛んでしまうことを止められない。
少年執事はいけないと思いつつも、サイレントため息を重ねる。主人がお求めのリカルド執事長は、今この場に居よう筈もない。だが彼の主は、その名を呼んで怒り心頭なのだ。
「聡明なお嬢様なら既にご承知と思いますが、リカルド執事長はご不在でございます……」
深慮に深慮を重ね、言葉を選びに選んでゾフィは告げる。それなりに永く仕えているため、保有する魔力に匹敵する程の“勘違い”を、ルーリアが発揮しているのだと瞬時に理解をしてみせていた。
主の間違いを正すのも執事の務めであるが、この少年は今一つ主人を直視出来ずにいた。何と表現したものか、どことなく罪悪感を覚えてしまったゾフィは、明後日の方向へ視線を彷徨わせていた。
「え――リカルド、いないの?」
「いませんよ、ルーリアお嬢様……」
「へぇ、いないんだ。そうなの」
騒がせて悪かったわね、とお嬢様は肩から力を抜いていった。眼光も同時に緩やかなものとなれば、つられて少年執事も脱力をしてみせる。
(ああ、良かった。お嬢様、自分で気づいてくれたんだ)
「で、なんでリカルドいないの? 職務放棄?」
「――――もうっ!」
思わずゾフィは天を仰いだ。このお嬢様の返答に、神経質な少年は胃に熱を覚える。
「え、何、何なの?」
対してお嬢様は目を見開き、ポカンという音がよく似合う表情を浮かべていた。この何もわかっていないという表情を前に、直視を躊躇っていたことすら少年は忘れていた。少女には拾ってもらった恩があるのだが、今この時は苛立ちの方が優った。
「いいですか、ルーリアお嬢様!」
「はいっ!?」
「……」
「血相変えて、何なのよ、ゾフィ」
思わず駆け寄って肩を掴んだものの、少年はフリーズしてしまう。主人に対する不敬もあったが、接近するとどうしても肌の白さが目に入ってしまった。ネグリジェ姿だったお嬢様は、掴まれたついでに胸を上下させる。
圧巻とも言える光景が目の前に広がっていたが、生来の生真面目さから、ゾフィは一度頭を振っては主人を悟すことに神経の全てを費やした。
「いいですか、お嬢様?」
「あ、はいっ」
事態がよく呑み込めず、ルーリアはサファイアの如き鮮やかな瞳を白黒とさせていた。ゾフィがあまりの険相で迫るものだから、主人もついつい素っ頓狂な声を上げながら後ずさる。その戸惑いを察した少年は、これを機とばかりに畳み掛けた。
「つい先日のことですが、お嬢様は旦那様に啖呵を切って屋敷を飛び出したんですよ。お屋敷の執事長が、こちらにいらっしゃる訳はないじゃないですか!」
「あー……」
少々間の抜けた返答を浮かべつつ、ルーリアは手を合わせた。それは納得のいったような、思い出したような表情だった。朝から騒がせるだけ騒がせて、一人スッキリした表情を浮かべる人物を前に、少年の胃は一度は忘れた痛みに襲われる。
「あー……じゃないですよ、お嬢様!」
「えー」
「えー、でもありません!」
鳩尾を押さえては、似合わぬ青筋を浮かべたゾフィは主人へと説教を始める。
つい先日に旦那様と喧嘩別れをして実家を飛び出したこと、旦那様の影響力が及びにくい地域へやってきたこと、ボロ小屋は厭だと言って執事長に急ぎこの屋敷を買い付けさせたこと、部屋の内装にも文句を言ったこと、その執事長も今や実家へと戻ったこと……少年執事の説明は長々と続いていたが、掻い摘んで言えばこれらのようなことだった。
「ご理解いただけましたか、お嬢様?」
「ええ、理解したわ。あなたの口調、ますますリカルドに似てきたわね」
理詰めで主人をやり込めようとするところとか、そっくりだわ。続くその言葉に少年は膝を追って床に這いつくばった。
「どうしたの、何で泣くのよ?」
寝起きこそ傍若無人な振る舞いをしていたルーリアであるが、今ではいつもの天真爛漫さ(天然とも言う)を取り戻している。自由過ぎる彼女は、相手の感情の動きなど気にもせずに、今では彼へと心配そうな瞳を向けていた。
「ええ、いや、なんでもないで――――」
す、という残り一音が告げられなかった。顔を起こした彼の前には、屈み込む主の姿がある。視線の先には、丁度図ったようにルーリアの胸が見えた。
「ちょっと……聞いているの?」
「聞いてます!」
きょとんという表現が似つかわしいようで、お嬢様は上目遣いに若い執事を見つめる。その無防備な姿に少年の心臓はこの上なく早く打っていた。どことなく、お嬢様が魔力を高めているのではないかと錯覚を覚え、最早わけのわからない状態へ陥っている。
「何を言ってるのよ……顔も赤いし、風邪でも引いた?」
少年の動揺には全く気づかず、手のひらが執事へと近づけられる。そのひんやりとした心地よい感触に、少年は一層身を固くしてしまう。
「――――っ」
「はて、熱はなさそうね」
依然手を当てたままの姿勢で、小首を少女は傾げていた。だがこの瞬間に、少年は体温が急激に上がっていったかのような感覚に囚われていた。
「ま、いいわ。リカルドがいないということも、思い出しました」
フリーズしてしまった執事の有様には、これ以上つっこむことはしない。寝起きこそ習慣で執事長を探したが、この少年が執事として優秀であることは、彼女が一番よく知っている。熱がないのであれば十分に働けるだろうと、主は一人で首をコクコクと振って納得していた。
「ご、ご理解いただきまして、何よりです」
返事には若干の時間を置いたものの、執事として平静を精一杯保ってみせる。少々どもってしまうことはさておき、純朴な少年はルーリアの言動の一々に翻弄されている。そもそも大のつく程のお嬢様である彼女は、着替え一つをとっても従者に任せる程――屋敷内であれば、あられもない姿でうろつくことは常である。
ましてルーリアにしてみれば、永い付き合いのゾフィは弟のようなもので、異性に見られているという意識もへったくれもなかった。
少年がこうして動揺するのは、端的に主人への憧れからであるが、そこを理解しているのは執事長と彼女の母親くらいのものであった。
「ま、いいわ。風邪を引いていないのでしたら、リカルドの分まで――否、それ以上に働いてお見せなさいな」
「……はい。では、早速朝食の準備を」
コンコン――ゾフィが観念して立ち上がろうとした頃、玄関をノックする音が響いた。
「誰かしら」
「来客の約束なんてなかった筈ですがね……と、今参ります」
お嬢様に小声で答えつつ、執事は扉の鍵を外した。早朝と言っても差し支えないこの時間帯に、どのような人物が訪ねて来ているのか。心中で首を捻っていると、扉の隙間から白髪の男性の姿が窺えた。
「朝早くから申し訳ございません」
完全に扉が開かれる頃には、髪の色と同様に年季の入った声が屋敷の廊下に響いた。姿とともに印象に残る声音から、少年執事は人物を思い出していた。
「あ、ザビーネ様の――」
「ルーリア様には、主人がいつもお世話になっております」
「こちらこそ、ルーリアお嬢様がご迷惑ばかりをおかけしております」
言葉の途中であったが、ビシリとした礼の姿にゾフィは思わず背筋を正していた。ルーリアの友達であるザビーネの執事もまた、少年が見習うべき人物の一人であった。
「ごきげんよう、アベル。ザビーは元気かしら?」
二人が挨拶をしているところであったが、ルーリアは構わずに会話へ割って入った。身長の高い老執事に対して、威圧し返す訳でもないが強い口調は、どこかこの少女に似合ってさえいた。
「お嬢様っ!」
「……何よ?」
先程までの露出が多い姿のままではないか、と少年は焦りから大きな声を上げてしまう――が、不機嫌な言葉を返した主人は、いつの間にか丈の長いカーディガンを羽織って悠然と佇んでいた。
「すみません、何でもないです」
「ゾフィはたまに変ね。まぁ、いいわ。それで、ザビーはどうなのかしら。元気ならいいわ。もし、仮に、私の手紙を呼んでアベルが来たとしたのなら――」
「残念ながら、ルーリア様の予想通りです。主人は今、少々困ったことになっておりまして……」
(ん、何の話だ?)
二人のやり取りを前に、ゾフィは少し首を捻っていた。会話の内容がまるで見えないどころか、面倒くさがりのお嬢様が手紙を出していたということにも驚いていた。否、むしろきな臭さを感じていたと言ってもいい。
「聞けば、ルーリア様はこの地に事務所を開いた、とのことでしたね」
「ええ、その通りよ」
「事務所!?」
執事でありながら、全くの初耳であることに少年は更に驚きを増していた。続き確認の声を上げようとも思ったが、お嬢様の眉間の皺が深くなっていたのでやめた。
(事務所って何! ここには、旦那様への反発やワガママから引っ越して来たんじゃなかったの!?)
疑問は胸中に留めたが、そのことが却って胃を強く刺激してきていた。魔力は人一倍高いが、お金の勘定すら面倒くさがるこの主人には事務所など無理――ゾフィが顰めながらも目を向けると、二人の会話は続いている。
「ザビーネ様へのお手紙に、詳しい業務については書かれていなかったそうですが、頂いた、“困ったら来ていいよ”その言葉を頼りに、私はこちらへ遣わされたのです」
「まぁ、早速来てくれたのね! 流石は我が一番の友、ザビーだわ」
あっはっは、と豪快に笑うルーリアの姿は、世間が称する“輝かしさ”を証明するようであった。一方のアベルは、表情を渋いものへと変えながら言葉を紡いでいた。それもその筈、彼の使える主はルーリア以上の権力を持った貴族だ。身内で解決できなかった問題を、友達とはいえ職業が定かでない彼女へ依頼するのは、何とも情けないことだろう。
項垂れる老執事を前に、少年がどうしたものかと頭を回すのも束の間。彼の主人は、あいわかった、と威勢の良い声を上げている。
「心配なくてよ、アベル。ザビーネはこの探偵事務所の記念すべき一番目の依頼主よ!」
「え?」
間の抜けた声を上げることは、執事失格とリカルド執事長がこの場に居れば窘めたかもしれない。だが、従僕は声が漏れることを止めることが出来ずにいた。何せ、お嬢様が言ったことが理解出来ない。まったく微塵も理解できない。幻聴ではないだろうかと祈ってすらいた。
だが、ビシッと勢いよく指差す主人を見ては、耳にしたことが現実のものあると理解せざるを得ない。
「この名探偵、ルーリア・フォン・シュトライヒャーにかかれば、どんな事件も即、解決!」
探偵事務所とは――ゾフィの知識が正しければ、事件や人の行動を調査する地道な仕事の筈だ。その筈だ。人様から頂いたお手紙への返事すら渋る人物には、とても渋るような職業ではない。断じてない。
「探偵っ!?」
繰り返されたその職業に、半ば無意識に声を発しながら少年は思考をフル回転させた――探偵など、考えることが嫌いなお嬢様には限りなく向かない職業ではないか。これなら、魔力にものを言わせて、魔物の襲撃を受けて廃墟になった町を更地に戻す仕事の方が遥かに現実的ではないか……夢であってくれ――などと、何度も視線を主人と依頼人の従者へ往復させていた。
が、彼の声にならない願いはまったく二人に届かない。それどころか、老執事の返答に少年は頭痛を覚え始めていた。
「おお、ルーリア様が開いた事務所は、探偵事務所でしたか。これは何とも心強い!」
「任せておきなさい。ゾフィが駆けずり回って、私が推理するもの」
バッチリね――その言葉を耳にして、少年は再び床に膝を着く。見習うべき先輩執事の顔に生気が戻っていくことを喜びつつも、目一杯その顔面をぶん殴ってやりたい衝動にも駆られていた……主人の顔を潰すようなことをすることはしないが。
(お嬢様には無理でしょうよ!)
率直な感想が少年の胸を打つ。何故だか視界がぼやけているのは、涙が滲んできているからということに本人は気付かない。このワガママなお嬢様に、推理などという地道な作業をさせてはならない。証拠を集めることは自分がしても、ルーリアが点検などという作業をする姿は、はっきりいって少年には想像もつかなかった。
「ゾフィ殿、よろしくお願いいたします」
どう断ろうかと視線を動かした結果、老執事と目が合ってしまった。同時に、お願いの言葉が告げられてしまう。
「では、立ち話もなんですからお上がりなさい。ゾフィ、準備よ。それと――今日からここは探偵事務所ですからね」
言葉は限りなく丁寧であるが、下僕へと向けるその瞳は好奇心から爛々と燃えている。心なしか、溢れる魔力からお嬢様の肌ツヤがよくなっているようにも見える。対照的に、彼女の執事の顔色は青白いものへと変化しているようでもあった。
「……はい」
結局のところ、主人の命に逆らう余地などは端からない。お嬢様は一度言いだしたら聴かないことを承知している下僕は、心配事を己の胃がもつかどうかに切り替えることに努めた。