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ルードヴィヒの涙

作者: 橘エリー

壊れやすいほどの繊細さを持った女性を主人公にした小説を書きたいと思っていました。そのような時、自身のヨーロッパ旅行の思い出と恋愛体験が瞬時に融合しストーリーが浮かびました。そして三日間で書き終えた作品がこの小説です。

大人の落ち着いた女性にふさわしい男性に「拓人」を選びました。彼もまた思慮深い控えめな男性です。ドイツ、ロマンチック街道の美しい中世の街並みに触れながら、どうか皆さんもご一緒に拓人と詩音の愛の変遷に触れてください。

ルートヴィヒの涙   

                     



第1章  ヘルシンキ国際空港  



 その飛行機は、定刻に二十分ほど遅れて空港に着陸した。

あたりはほんのりと薄暗く感じられ、もう夕方と言っても良い時刻になっていた。               

事前の機長からの報告では当地の天候は曇り、気温は摂氏2℃、小雨のぱらつくこともある、ということであった。 

機内右側の窓寄りに座席を取っていたので、飛行機の小窓から外の様子がうかがえた。         


「ああ、この景色と空の色はあの日と変わらないな」

と拓人は、心の中でつぶやいた。      

たしかに七年前、まぎれもなく『ふたり』で見た風景であった。              


「あの時、彼女は黙って窓の外の景色を見ていたはずだったが・・・」              


拓人は、あの日の彼女の面影を思い出していた。

それは、視線は窓の外にそそがれているようであったが、しかし実際にはその風景ではなくむしろ自分の心の内を視ていた、そんなふうに今の拓人には思い返された。しかしそれも『今となって』のことであり、そのときに自分がどのように彼女を視ていたのかは、もう記憶にはなかった。


それは、はっきりとしない、曖昧で漠然とした映像としてしか残っていなかった。

「いつもの彼女らしくとても凛としていて、しかも透き通るように美しい横顔であったはず」

拓人はそう信じていたい欲求にかられた。

そしてもう一度、考えてみた。

「あの聡明さの中に、彼女が信じた明確な何かが隠されていたのだろうか?」

と。


快晴の成田空港を定刻より少し遅れて離陸し、広大なユーラシア大陸の上空を飛行している途中、  

「下に見えるのはオビ川です」      

と機内で女性の声によるアナウンスがあった。

拓人が窓から下方を見ると、そこはいちめんの白銀色で、その中にぽっかりと巨大な、大地の裂け目の様なものが見えた。それはそこだけが深く青みがかっており、当然それがオビ川なのであろう、と彼は思った。     

しかし、その後の記憶が拓人には鮮明ではなかった。オビ川は、日本人の感覚からは計り知れないくらいの大きさを持ったユーラシア大陸の、日本側から見ればおよそ三分の二程度を飛行したあたりを流れている。ドイツのフランクフルトを最初の目的地とする拓人にとっては、全行程の半分は通り過ぎたあたりであった。

「少し飲みすぎたのかな」

と彼は思った。


飛行機が日本海を横断し大陸にさしかかった頃から、拓人は客室乗務員にオーダーを重ねた。

たしかワインをグラスで三杯もらった後、スコッチのオンザロックをやはり三杯飲んだはずであった。


しかし十時間近い長旅ではあったが、思っていたほどには疲れは感じなかった。

北欧の四月の初旬は、まだ春と呼ぶにはあまりにも寒すぎるようであった。            

拓人は、肩に掛けていた薄手のセーターを頭からかぶり袖を通すと、機内から降りる準備をした。              

混雑する機内から客室乗務員が立つ出入り口より機外に出ると、彼は列の中ほどをゆっくりと歩きながらターミナルに入った。

そこからはウィンドー越しに、空港の外が見渡せた。

やはり針葉樹林が見える。その上部はぼんやりではあるが、白く雪が被っているようにも見えた。そしてあの日と同じ鉛色の空が、あたりを覆い尽くしていた。                

「北欧の街には、やはりこの空の色と木々が似合うな」

と今さらながらに拓人は思った。

ラフマニノフを聴くのに、ヤシの木や真っ青な空は不釣り合いである。彼はそう感じていたのであった。                  

フィンランドの首都、ヘルシンキの国際空港に着いた拓人であったが、乗継便の出発時刻までには、まだかなりの時間があった。

彼はどこかコーヒーでも飲めるところはないかと、周囲を見渡してみた。

いつも欧州への出張では、目的地の最寄りの都市への直行便を利用するので、久しぶりに訪れたこの空港の勝手はすでに記憶から薄れていた。      


そういえば機内の乗客はほとんどが日本人であったが、と拓人は思い返したが、ほんのわずかな人数だけ欧州人と思われる人たちが乗っていた。そして総じて彼らは皆、薄着であった。


海外出張が珍しくない彼にとって、これはいつも見る光景である。寒がりで厚着の日本人は、カーディガンの上に更にブランケットを要求する人もいるが、そんな中、ほとんどの外国人は半袖のTシャツか薄着で過ごしていた。これには白人も黒人も違いはなかった。ただ、日本人だけが寒がるのであった。         

機内で見知った顔の日本人数人が、こちらに向って歩いて来た。五十歳はとうに越えていると思われる男女が、何かを話しながらロビーのあちらこちらに散らばっている。

若いカップルたちはなぜか皆、姿を消していた。

いったいどこへ行ったのか、拓人にはわからなかった。       

年配に見える男女たちは自分と同じ、少し休める場所をさがしているのだろうか、と彼は思った。

同じ機内には、ヨーロッパへのツアー客と思われる人たちが相当な人数、乗っていたように思えた。

彼らの中の何人かもが、ここから更にどこかへ乗り継ぐのであろうかと、ふとそんなことを拓人は考えたが次の瞬間、それはどうでも良いことだと思った。そしてもういちど、外の鈍色の空を見た。                 

この陰鬱な空の下で、あの日、彼女はいったい何を視ていたのであろうか。心の中には何が宿り、何を感じ、何を思っていたのだろうか。


そしてその時、すでに「そのこと」は決められていたのであろうか。                 どれほど考えても、拓人には答えは出せなかった。

ただただあの日と同じ、北欧の一都市のさびしげな風景が自分を包み込んでいる、と感じる以外にはなかった。


そしてその寂寞感ともいえる心情の根源はまぎれもなく、      

「いまはひとりである」

という決定的なことがらから来ていた。          


「詩音」


拓人は、『あの日』から今日ここに至るまでに、いったい何回呼んでみたであろう彼女の名を、今いちど心の中に呼び起こした。

そして、彼が数えきれないくらいに口にしたその美しい名は、北欧の夕暮れの風景にとけこんで行き、まるでグリーグのピアノ協奏曲を聴いている様な錯覚を拓人にもたらせた。


      


        第2章 東京Ⅰ オフィス

 


 「おい中町、部長は何だって言っていた?」

と、フロアーの隅に設けられたパブリックスペースで、ぼんやりと外を眺めていた拓人の横に腰掛けながら、市川が聞いてきた。


市川は拓人の三歳年嵩で役職は課長代理であった。

拓人が勤める大手電機メーカーは、この五十五階建て高層ビルディングの二十五階から四十四階までをテナントとして借りていた。


彼の所属する営業本部営業三課は最も上の四十四階に配置されており、そしてそれぞれの階の東側の隅に、コーヒーブレイク用のスペースが設けられており、各々好きな時間に休憩が取れた。

しかし時勢から、喫煙は禁止されていた。                  

拓人が部長の木内に呼ばれたのが午前中の十一時過ぎであった。それを横目で気にしながら市川は外回りに出かけ、つい先ほど帰社していた。                

「山口と荻田が大変そうなので、悪いが助っ人を頼むって」

と拓人は、木内から言われたままを市川に説明した。

山口と荻田は拓人と市川の後輩であり、大切なプレゼンテーションを目前にして、三課を代表してドイツの営業所に行っていた。


「じゃあ、しばらくシュトゥットガルトに行けってことかい?」       

市川はさらに聞いた。喫煙者の市川は、煙草の吸えないこの場所ではいつもそわそわとしていた。                 

もともと、山口と荻田にはまだ荷の重い仕事であったが、経験を積ませたいとの木内の意向で現地に先乗りしていた。

拓人にしてみれば、こうなることは想定の範囲内であった。

「そういう事になりますね」       

という拓人の答えを聞いた市川の目には、人懐こい笑顔があった。          


拓人がこの会社に入社以来、市川とはずっと同じ部署であった。仲の良い先輩後輩であり、仕事上でも私生活においても固い友情で結ばれている拓人と市川には、二人にしかわからない意思の疎通と微妙なアイコンタクトがあった。


拓人がしばらく日本を空けるとなると、その代わりが務まるのは市川以外にはいなかった。もちろん大手企業であるからには拓人の先輩と呼べる営業社員は何人もいたが、彼らは皆、拓人よりはるかに能力が低かった。

そんな彼らに拓人の顧客の面倒を見るなど、出来ない相談であった。そもそも、木内と次長の山川がそのようなことを許すはずがなかった。                  

市川の「何かを言いたそうな目」を見て、拓人には彼の「魂胆」がすぐにわかった。

拓人の留守中、顧客の面倒を見る代わりに拓人が帰国した際には何かを奢らせようというのである。

市川にしても難易度の高い拓人の顧客管理を短時間で引き継ぎ、且つそつなく社内を含めて、すべての人を満足させられるのは自分しかいない、ということは充分に承知していた。

しかしそれは決して自惚れではなかった。   


「その時は、寿司か河豚でいいよ」        

市川は笑みを浮かべながらそう言った。

「すべてはそういうことだな」

と、拓人も笑い返してうなずいた。                                                         

 タクシーを降りて、自宅のあるマンションの八階に向かうエレベーターの中で腕時計を見ると、すでに日付けは変わっており午前三時に近かった。拓人は自分の部屋の鍵を回し、ドアーを開いた。

面倒くさそうに靴を脱ぎ、突きあたりのリビングルームまでゆっくりと歩くと、ソファーにジャケットを投げ掛け、そのまま床に足を投げ出して座った。


そして前日の午後からの出来事を、もういちど反芻してみた。               


先輩の市川に木内との話の内容を問われて、彼はそれを市川に伝えた。そこまでは至極当然の流れである。しかしそれは失敗だったのである。拓人は迂闊にもその日が金曜日であることを一瞬忘れていた。 

「そういう事なら善は急げ。早速、これから打ち合わせをしよう。

七時に『いま川』で良いな」

と市川は言い置くと、さも忙しそうに自席に戻って行った。


拓人はその時になり自らの失敗を悔いたが、すでに時は遅かった。   

それは「金曜の夜」を、市川が見逃すはずはなかったし、当然の「事の流れ」として、本日の払いは拓人であることは疑いようがなかった。体よく彼は市川の垂れた針に掛かってしまったのであった。      


『いま川』は年に数度、懐の温かい時にしか訪れない高級割烹であった。


元々は拓人や市川をとても可愛がってくれた、元取締役の遠藤が通っていた店である。しかしふたりとも遠藤に何回か連れて行ってもらううちに、いつの間にか遠藤のいない時でも自分たちだけで通うようになっていたのである。


いつも多くの人で賑わう赤坂見附の駅を降り、放送局の方へと向かう細い路地を、幾つかの角を折れながら歩いて行くと、左側に『いま川』はあった。

店には拓人が電話をして、座敷の用意を頼んでおいた。       

「まあ、とりあえず乾杯だ」       

市川はそう言ってグラスのビールを一息に飲み干した。

その日も、一緒に退社すれば周りの目もあり角が立つので、市川が先に退社し三十分遅れで拓人が社を出た。市川は先に店に着き拓人を待っていたのであった。そんなことからして、ふたりは普段から「あうんの呼吸」が合った。


一杯目を一気に体に流し込んだ市川はビール瓶を手にし、自ら二杯目を自分のグラスに注いで、

「まずは仕事を片付けてしまおう」

と、拓人がドイツに行っている間の主な顧客のフォローについて話し合った。


抜け目のない拓人と市川は、普段から万一に備えて、互いの顧客に面通しをさせていた。それは同行営業や酒宴を通じてである。

そのようにしておくと体調の悪い日や急用で出社がままならぬ時に、「スムーズ」に休暇が取れるのであった。この「手法」もやはり元取締役の遠藤から伝授されたものだった。


しかしこれには「コンビを組む二人」が同等の能力を持ち、常日頃より仲が良く、さらに営業成績に優れ且つ木内と山川からの信頼を得ている、という条件をすべてクリアーしていなければならなかった。

そして、いつもは市川がこの「手法」で休暇を取るのであるが、今回は拓人がこれを使う番であった。                  

「活きの良い比目魚が入ったので如何か?」

と女将に勧められた二人は素直にその勧めに従っていた。

「お前も、こうなることは予想していたのだろう?」

と市川は好物の刺身を頬張りながら言った。  

「まあ、そんなところですね」        

と拓人は『もうひとつの事』を市川に切り出すタイミングを見計らいながら答えた。    


 前日、木内との話が終わった後、「一緒に昼飯でも食うか?」と誘われたが、至急の用件が残っており拓人は木内の誘いを断らざるを得なかった。

ようやく片がつき腕時計を見たらすでに二時を回っていたのである。誘うべく同僚も見当たらず、仕方なく拓人はひとりで地下二階にある喫茶店に向かい、遅い昼食を摂った。


店の中はランチタイムも過ぎてがらんとしており、拓人のほかにはひとりしか客はいなかった。拓人はテーブルに来たウェイターにコーヒーとサンドイッチをオーダーし、ほんのつかのま手持無沙汰になった。


その時に、いままで拓人の心の中で永年に渡って燻ぶり、蓄積され続けていた「澱」のようなものの正体が見えたような気がしたのである。そしてそれは、その正体を現すと、雷雲の如く一気に拓人の心を覆い尽くし、まるで魔物が迫りくるかのように彼にその「実行」を迫った。              


 拓人は決心した。それは自らの意思のようでもあり、あるいは得体の知れない大きな力によって突き動かされている感覚でもあった。何かに「あと押しされている」という切迫感かも知れなかった。

いずれにしろ、彼の心の中に明確な使命、とも言える感情が芽生えたのである。           


 「詩音に『逢いに』行こう。詩音と歩いた『道』をもういちど、訪ねてみよう」 それは拓人にとって、永年の躊躇からようやく解放された「必然」であるようにも思えた。    




        第3章 フランクフルト            



 数時間の乗り継ぎ時間が過ぎ、拓人はフランクフルト行きの飛行機に乗り込んだ。成田からここまで来た航空会社と同じであったが、今度の飛行機は成田出発便と比べ、いくぶん小型であった。

拓人の座席は、横七列の機内の左側窓寄りであった。

もっとも機内は空席も多少は有り、どこにでも自由に座れる雰囲気ではあったのだが。             


フランクフルトまでは長いフライトではなかったので、きちんとした食事は提供されなかった。拓人はコーヒーのサービスを頼んだ。この便の出発までかなりの時間があったのだが、結局彼は何をするでもなくただぼんやりと空港での待ち時間をやり過ごした。

しかし何もしない、というのも余りにも怠惰に感じたので、持参した携帯プレーヤーでマーラーの交響曲を聴いてはいたのだが。                            

しばらくすると客室乗務員がコーヒーを運んでくれた。

「濃い目のコーヒーを」とリクエストしたのだが、すでに出来上がったものをポットから注ぐだけだとしたら、と考えて拓人はひとり苦笑した。


あの日、木内から呼ばれ市川と『いま川』で「打ち合わせ」をした夜、拓人は市川に「もうひとつの事」を伝えた。

それは、詩音と歩いたドイツの街々を、もう一度ひとりで訪ね歩いてみたい、ということであった。

しかしそのためには、シュトゥットガルトで待つ山口や荻田と合流する前に、一週間ほどの時間が必要であった。

その間のフォローを市川に頼んだ際、一瞬の間があったが、市川は何も言わずに引き受けてくれた。

そして、飲み直しの二軒目を出てそれぞれがタクシーを拾って乗り込む別れ際、市川は拓人にこう言った。        

「ちゃんと帰って来いよ」        

きちんと拓人を見ていつになく真剣な視線を送ってきた市川に、

拓人はうなずくように返事をし、軽く右手をあげた。

そしてひとり、帰路についた。市川の言わんとしていることが、拓人には瞬時に理解が出来た。

そしてその友情に、拓人は心の中で感謝した。


週明けの月曜日に出社すると、拓人は早速、木内と山川に休暇の取得を願い出た。

二人の最初の反応は共通したものであり、一瞬狐につままれた様子であったが、 

「ひとりでドイツの街並みを歩いてみたい」

と拓人が言うと、了承してくれた。   

「わかった」              

申し合わせたように二人の返事は同じであり、ともにそれ以外は何も言わなかった。そしてその日から拓人は早速準備に取り掛かり、チケットの手配をした。荷物は必要最小限としてなるべく少なめにし、出来る限り小さく纏めた。

そして七年間、ついに処分することが出来なかったガイドブックを本棚から取り出しバッグに詰めた。

それは、詩音とドイツを訪ねた時に、ふたりで買い求めたものであった。 


 

 ドイツの玄関口とも言われるフランクフルトの街明かりが、遠くに見えてきた。間もなく着陸態勢に入る、とアナウンスがあった。

拓人はシートを直し、ベルトを確認した。

そして聴いていたブラームスの3番を消して、静かに目を閉じた。        

彼はドイツという国が持つ、独特の静寂に身をゆだねてみたいと思った。いや、そうするべきなのだと思った。

そうする以外に

「詩音の声を聴くことは出来ないであろう」

拓人は高度を下げながら滑走路に近づく機内で、そう固く信じるようになっていた。              



        第4章 東京Ⅱ 出逢い         



 拓人が詩音と初めて会ったのは、重要な顧客を招いての新製品の発表日であった。拓人が勤める会社ではこの様な時、都内の有名なホテルの大広間を借り切る。そして運営は仮設の設営から受付、諸々の進行までをすべてイベント会社に委託するのが常であった。

その時の総責任者は次長の山川であったが、イベント会社との折衝や実務の取り仕切りは、拓人がもう一人の先輩社員とともに任されていた。                  

その日は予定通りの十八時に商談も兼ねた発表会が終わり、招待客もすべて会場をあとにしたのち、会社側の関係者とイベント会社のスタッフで簡素な慰労の会が行われた。発案は山川であった。

社員だけで酒宴を開けば、必ず仕事の延長となり「反省会」になってしまう。それでは慰労の会にはならないであろう、という山川の心配りであった。顧客を招いていた大広間よりはやや小さめの部屋に移っての、ささやかな立食の会であった。 

その時、拓人に軽く小皿にオードブルを取り分けて持ってきてくれた、イベント会社の女性社員がいた。

その女性と一緒に、拓人のいたテーブルに来たのが彼女であった。     

胸のプレートには「高岡詩音」と書かれてあった。                  

拓人の横に来た女性とは、何度かの事前の打ち合わせで面識があった。しかし詩音は、会社側との事前の打ち合わせにはいちども出席していなかった。つまりその日、拓人と詩音は初めて顔を合わせたのであった。

拓人にオードブルを持ってきてくれたイベント会社の社員は、とても美しい女性であった。

しかし、詩音の美貌はその比ではなかった。群を抜いた美しさであった。

余り目立つことが許されない場であったため、一様に女性たちは控えめな服装であったし、もちろん詩音も同様で装飾品なども質素なものであり、施された化粧もきわめて薄いものであった。

しかし、街を歩くどのような高価な宝飾品で身を飾った女性でも、詩音には到底太刀打ちは不可能であった。       

拓人は最初、詩音を初めて見た時、あまりの美貌にしばし言葉を失ったほどだった。

彼女は、それほどに美しかったのである。       


会社にとっても大切な一日がつつがなく終わったことで、会社側関係者もイベント会社のスタッフも、ともにリラックスした雰囲気でパーティーを楽しんでいた。各々のテーブルでも、今日の反省というよりはプライベートや趣味の話などで盛り上がり、拓人のテーブルでも、七、八人が時には大きく笑いながら語り合っていた。

彼はとなりに来た女性とずっと話をしていたが、そのあいだ詩音は二人の間には決して入り込もうとはせず、カクテルグラスを持ったまま、時に静かに微笑を向けるだけであった。

しばらくしてから拓人は、話をしていた女性と詩音に断りを入れ、他のテーブルのスタッフたちに挨拶をするためそこを離れた。

そしていくつかのテーブルをまわり、労をねぎらったあと、

もういちど先ほどのテーブルを見ると、詩音はまだそこにいたのである。詩音と一緒にいたもう一人の女性はもうそこにはおらず、他のテーブルに移ったようであった。

詩音はそこに、ひとりで立っていた。

拓人は詩音のいたテーブルに戻り、そして彼女に話しかけてみようと思った。 

「打ち合わせの時には、いらっしゃらなかったようですが」

詩音はまだ、先ほどと同じカクテルグラスをそのまま持っていた。      

「ちょっと待っていて」         

拓人は詩音が自分の問いに答える前にその場をはなれ、彼女のために新しいカクテルグラスを持って来た。そして、新しいものに取りかえるよう、詩音にすすめた。詩音はだまってうなずいた。その時だった。

拓人が右手で差し出したグラスを詩音が受け取ろうとし、詩音が持っていた古いグラスを拓人が受け取ろうとした瞬間、ほんのわずかであったが、ふたりの指と指が重なり、触れ合ったような気がした。それはほんの一瞬のことであったが、拓人には永遠に感じる時間であった。

そのとき詩音は、微かにではあるが頬を染めた様に拓人には思えた。      

「ありがとう」             

詩音は拓人の目を直接見ることなく、そう言った。   

拓人が初めて聴く詩音の声は、そこはかとなく憂いが感じられ、恐らくは決して積極的ではないのであろう彼女の性格を伝えているようでもあった。しかしそれでいて限りなく甘美であり、一瞬で拓人の心を虜にしてしまうような声だった。  

そのあと拓人と詩音は、しばらくふたりだけで話をした。

その中で、詩音が四月に入社したばかりであり、そのため事前のスタッフ会議には出席していなかったこと、そして今回のこの発表会が、詩音にとっては初めての大きな企画への参加であったことなどを、拓人は知ったのである。   


時計の針も八時近くになりそろそろ会も終わりそうな雰囲気になった時、詩音は自分の胸のネームプレートを左手のひとさし指で差して、

「これで、『しをん』と読みます」

とささやくように拓人に言った。

「はい。良い名前だと思います。教えてくれてありがとう」

拓人はおそらくはそう読むのであろうと思ってはいたが、詩音が自分から話してくれたことに何か特別の感慨のようものを自身の中に感じた。

そしてそのままパーティーは無事に終わり、参加した面々もそれぞれ部屋をあとにして行った。     

拓人と詩音は並びながら歩いて、ロビーまで行った。

そして別れ際、拓人は詩音にひとこと声をかけた。

「それでは」

「はい。それでは」

詩音は拓人を今度はまっすぐに見て会釈をし、同僚たちとホテルをあとにして行った。


 結局その日は「名前の読み方」以外の、「詩音の個人的な事」については拓人も何も聞くことはなく、もちろん詩音からも話すことはなかった。

しかし拓人はこの日以来、詩音が心のなかの多くを占めるようになり、詩音の面影が脳裏から離れなくなってしまった。



        第5章 東京Ⅲ 原宿                

 


 その日から十日ほど後であっただろうか、拓人は偶然にも街で詩音の姿を見かけた。それは原宿に本社のある顧客での商談が終わり、少し街を歩きたくなった日のことであった。

帰りは銀座線を使おうと、表参道を歩いている時、通り沿いのカフェの椅子にひとりで座っていた詩音を、ウィンドー越しに見留めたのである。                

その時の拓人には、なんのためらいもなかった。

のちになり思ったことであるが、なぜあの時、詩音は本当にひとりなのか?と自分は疑わなかったのだろうか。

もしかしたら相席の人がおり、たまたま席を離れていただけかも知れなかったし、あるいは待ち合わせの可能性もあったわけである。しかし拓人は瞬時に、しかも一直線に店のドアーをくぐり、彼女の座る席に向かったのだった。         

 

「あの時の詩音は、まったくと言ってよいほど表情を変えなかった。自分にはそれが最初、とても不思議だったのだ」

拓人は「偶然」にも、詩音と再会した時のことを思い出していた。             

 

 飛行機はフランクフルト空港の滑走路に車輪をつけ、徐々に速度を落としながら誘導灯に導かれ、大きくカーブを切った。     

拓人は、ターミナルビルに点在する明かりを見ていた。

それは、どうしても塞ぎがちになってしまう拓人の心に、小さな温かさを与えてくれるろうそくの火のようでもあった。         


 ごく普通に考えれば、あまりの偶然に驚きの表情を浮かべても良いはずである。しかし詩音は顔色をほとんど変えることもなく、憑りつかれたように拓人を見ていたのであった。

拓人の方が、一瞬なにが起きているのかを理解できない状態になったくらいであった。


「しかしあのときの詩音の瞳は、真冬の湖のように清らかに澄んでいた。あの曇りのない、そして不純物を一切感じさせない視線に自分は惹きつけられてしまったのだ」     

拓人はいま、そう追想していた。                            

 その日、詩音の座っている席のそばまで歩み寄った拓人に、

詩音は手にした文庫本に落としていた視線を上げて目を合わせた。ふたりのあいだに、しばらくの時間があった。     

「おひとりですか?」         

「はい。ひとりです」

「ここに、座ってもよろしいですか?」   

拓人は押しつけがないように、ゆっくりと聞いた。

「はい。どうぞ、お座りになって下さい」          

詩音は座っていた椅子から立ち上がって、拓人にさしむかいの席を勧めた。

そこは、店内のカウンター内からは角度的にちょうど陰になる席であった。

詩音は、ハンドバッグを自分の横の椅子に置いており、椅子の背もたれには薄手のカーディガンが掛けられていた。

そして詩音の手にあるその本は、革製のブックカヴァーでとても大切そうに包まれていた。

拓人はオーダーを取りに来たウェイトレスに、コーヒーを頼んだ。    

「先日は、ありがとうございました」   

詩音は、持っていた革製カヴァーの文庫本を横に置いてあった

ハンドバッグにしまい、拓人に軽く頭を下げるように言った。

拓人には、詩音の「お礼の意味」がよくわからなかった。         

「新しいカクテルグラスを、持ってきてくださったことです」         

詩音は拓人の表情から察したのか、次の瞬間そう答えた。

「いいえ。お礼を言って頂けるほどのことではありません」          

拓人は初めて会った日の、詩音のたたずまいを思い出しながら答えた。

詩音は、ここの近くの顧客に資料を持って行った帰りだと言った。       

「そうですか。僕も神宮前に所用があり、これから社に帰るところでした」             

ウェイトレスが、拓人のコーヒーを運んできた。

詩音は、テーブルの上のシュガーカップのふたを開けて、拓人の方に寄せてくれた。

「お使いになって?」

「はい。ありがとう」              

拓人はシュガーカップから、スプーン一杯の砂糖を入れた。

そしてしばらくふたりは、表参道の秋景色に目をやった。人通りは多く、車の往来も頻繁だった。

街路樹には、まだところどころ葉が残っていた。拓人は本当のところ外の風景よりも、詩音が手にしていた本のことが気になっていた。そんなに、厚手の本には見えなかったが・・・            その時、突然詩音が口をひらいた。     

「シュトルムです。」          

「シュトルム?」                     

拓人は不意をつかれた形になってしまったので、思わず詩音が口にした言葉を復唱してしまった。

「はい。先ほどまで、私が読んでいた本のことです」            

詩音はコーヒーカップから口を離し、ソーサーに置くと、そう答えた。       

「シュトルムとは、もしかすると『みずうみ』ですか?」

拓人も、口にしていたコーヒーカップを置きながら詩音に聞いた。

「はい。『みずうみ』です」       

「そうでしたか。僕も高校生の頃、いちど読みました。ほんとうは少し、気になっていたのです」

「気になっていたとは、私の読んでいた本のことでしょうか?」        

「そうです。あなたが読んでいた本のことです」


拓人がそう答えると詩音は「そうだったのか」という表情をしてから、少し間をおいて恥ずかしがるように視線を拓人からはずした。            

「ドイツの、人知れぬ静かな湖や森の様子が描かれています」

詩音は、膝に置かれた自分の指先を見ながらそう言った。

その言葉には、先ほど見せた恥じらいの心境から自分自身を解放させたい、そんな意図があるように拓人には感じられた。

ふたりはほんの少しの時間、あえて互いに時間を置いた。

するとちょうどその時、秋の午後の陽射しが店の中に入り込み、間接的に詩音の顔の左側を照らした。

拓人はその瞬間、フェルメールのいくつかの作品を連想した。

フェルメールの描いた女性たちと、いま目の前にいる詩音とが、拓人の中で一瞬のうちに同化したのである。

そしてその午後の光は、詩音の内面の静謐さとともに、その心の奥底にあるなにか『宗教的』とも言えそうなものを、詩音の横顔から浮かび上がらせているようでもあった。


 拓人はふたたびコーヒーを口にし、詩音も拓人に従った。

そのあとふたりは、物語の大筋を思い浮かべながら、互いの感想を少しずつ語り合った。そして詩音は、この小説を初めて読んだのは中学一年生の時で、その後高校生の時にも数度読み返し、今が八回目だと言った。

拓人がその回数に驚きを見せると、詩音は小さく声を出して笑った。

そしてふたりは、いままでに自分たちが読んだ本について語り合った。すると不思議なことに、多くの作家の作品について、拓人と詩音は過去に同じものを読んでいたことがわかったのである。

それらは三島や太宰、谷崎といった日本の作家だけではなく、ゲーテやヘッセ、ジッドやカフカにカミュ、ツルゲーネフにスタンダール、そしてシェークスピアといった海外の作家も多く含まれていた。                    

「私、あのようなところに行ってみたいと、ずっと思っていたのです」

詩音がまた話をもとに戻すように、視線を拓人に移して言った。        

「イムメン湖、のことですか?静かで、誰もいないようなところ」    

拓人はシュトルムの小説に出てくる湖の名をあげて、詩音に聞き返した。    

「はい。そうかも知れません。静かで、誰もいないようなところ・・・」

詩音は拓人を見たまま微笑をうかべて、そしてつづけた。

「ラインハルトとエリーザベドがまだ幼かった頃、ピクニックでイチゴを探しにふたりで森の中へ入って行ったことがありましたでしょう?憶えていらっしゃいますこと?」  

「はい、おぼろげですが。確かにそのような場面があったことを記憶しています」

拓人はたどるようにあらすじを整理しながら、詩音の問いかけに答えた。

「あのとき、エリーザベドはラインハルトの手をにぎって『こわい』と言いました。そして結局、イチゴは見つからなかったのです」    

「そうでしたね。とうとう見つからなかった」

「私、この小説をはじめて読んだ時から、ずっと『あの森』や『あのみずうみ』に行ってみたいと想い続けてきました」

詩音は、自分の指先と拓人とを交互に見ながらそう言った。

そう話した詩音の瞳はどこか夢見心地のようでもあり、小説の中の出来事と現実の自分とを同化しているように拓人には感じられた。

そしてこの悲恋の物語が、詩音の心のなかに占めている位置や意味合いというものを考えてみたが、とても短い時間では答えのでるものではなかった。


拓人がふと時計を見ると、すでにこの店に入ってから、小一時間ほどが経っていた。

「僕は、そろそろ社に戻らなくてはなりません」

拓人は勝手を申し訳なく思う気持ちと、もしかすると詩音も時間を気にしているのではないか、という気遣いから詩音にそう言った。

「はい。私も一緒に出ます。それに、もう少しお話しをしていたくて」

詩音は、聞き取れるか聞き取れないかのような小さな声でつぶやくように拓人に答えた。

「そうですか。それでは一緒に店を出ましょう」

拓人はそう言うと、テーブルに置かれたシートを手に取り、レジに向かった。詩音も自分のバッグとカーディガンを手にすると、拓人のあとについてきた。

拓人がレシートを受け取って店から出ると、先ほどよりは気温が下がっていた。少し肌寒いかな、というくらいであった。

詩音は店の前で

「よろしいのでしょうか?」

と、拓人に聞いた。たぶん支払いのことを指しているのかな?

と拓人は思った。

「はい。大丈夫です。気にしないでください」

「ごちそうして下さって、ありがとうございました」

詩音は丁寧に頭を下げ、礼を述べた。

「僕は表参道の駅から銀座線に乗るつもりですが」 

拓人は持っていた営業用のバッグを右手に持ち替えながら、詩音に言った。

「私も千代田線に乗りますので、ご一緒です」

「そうですか。それでは駅まで少し歩きましょう」

拓人が体を寄せて人ごみから詩音をかばう様にすると、詩音はこっくりとうなずいた。

そうしてふたりは、やや風の冷たくなった表参道を、肩を並べるようにして青山通りに向かって歩いて行った。

あまり幅の広くない舗道を、行き交う人たちとぶつからないように並んで歩くことは、ことのほか気を遣った。

やがてふたりが歩き始めてから間もなく、詩音が拓人に話しかけてきた。

「私、さきほどは嘘を申し上げてしまいました」

拓人が詩音を見ると、詩音は数メートル先の足元を見ているようであった。拓人は急な言葉に一瞬戸惑いを覚えた。

何を、どう問い返して良いものかわからなかったのである。

すると詩音はつづけて言った。

「新しいカクテルグラスを持ってきてくださったこと、と答えましたが・・・」

「はい。たしかにそのように聞きました」

拓人はつい先ほどの、カフェでの詩音との会話を思い出しながら答えた。

「あれは決して嘘ではありませんが、本心でもありませんでした」

拓人は返事をすることなく、詩音の次の言葉を待った。

「もういちど、私のところに戻ってきてくださったことが、うれしかったのです。そのことに、お礼を申し上げたかったのです」

詩音はそう言うと「ふっ」と息を吐いて、心の中からつかえがとれた、と言うような仕草をした。

一見、たいした違いはなさそうであるが、本質はまるで異なる心のあり様を内視し言葉に出来る詩音に、拓人は心を動かされた。

枯葉が舞い散る駅までの途中、拓人と詩音にすれ違う人たちが、男女を問わず皆が詩音のことを振り返って見ていることに、拓人は気がついていた。

「やはり、それほどに詩音は美しいのだ」

そしてこのように、まったく目立たぬように生きている詩音が、

なにかとても特別な存在のように思えて来て、拓人は不思議な気持ちになった。

やがてふたりは人通りの多い舗道を、肩を寄せて歩きながら、

地下鉄の駅へと続く階段を下りて行った。              


         

          

        第6章 ハイデルベルグ


 

拓人は東京を離れる時、ホテルの手配はせず航空機のチケットのみを用意した。時間の余裕も少なく面倒であったことも理由のひとつだが、何より、今の彼の心の内がそのようにさせたのである。ただ、一日目だけは万一の用心の為、予めホテルをおさえてあった。         

成田を出発してからすでに十四時間余りが経っていた。

拓人の腕時計は、あくる日の午前二時過ぎを指していた。

彼は途中のヘルシンキで、時差を調節することはしなかった。        

今、ドイツとの時差は七時間あるので、拓人は自分の時計を七時間前に戻した。

ヨーロッパは日本を午前中に出発すると、大概の都市には現地の夕食時くらいには到着するのである。         

拓人はフランクフルト空港で荷物を受け取ると、急いでタクシーを拾い、予約を入れてあったハイデルベルグのホテルに向かった。

そして素早くチェックインを済ませると、部屋のダブルベッドに体を横たえた。外は陽の長いヨーロッパではあったが、さすがにもう暗闇に包まれていた。やや空腹は感じていたが、ドイツの冷たく乾いた空気に包まれながら、拓人は心地よい眠りに落ちて行こうとする自分を視ていた。彼はそれに、抗おうとはしなかった。          


 翌朝目が覚めると、外は爽やかに晴れていた。拓人が予約を入れておいたホテルは部屋こそ違え、七年前に詩音と泊まったホテルと同じであった。大手ホテルチェーンが経営する、アメリカンスタイルのホテルである。昨晩は時差の関係でかなりの時間、睡眠を摂ることが出来た。

拓人は軽めの朝食をひとりですませると、七年前に詩音と最初に訪れた名所である、ハイデルベルグ城へと向かった。      


今や廃墟と化してしまったその城は、ホテルからはさほど遠くはなく徒歩で向えた。かつてはプファルツ選帝侯の居城であり、その規模と風格は朽ち果てた今でも、充分に訪れる者を威容した。

遠くから見れば、赤色に浮かび上がる巨大な建造物であった。                  

拓人はひんやりとする城跡に入った。するとホテルを出た時はあまり気にはならなかったのであるが、寒さが急に身に染みるようになった。吐く息は白くなり、暖かくなりかけの東京とは明らかに異なった。拓人は念のためセーターを着てきたのだが、それでも寒さはこたえて、革のコートの前を合わせながらとぼとぼと歩きはじめた。 


遠い昔に、いったいどのような攻撃を受けてこのようになったのであろうか、天井は崩れ落ち、壁もほとんどが吹き飛ばされている、そんな荒れ果てた城であった。しかし洋の東西を問わず、朽ち果ててしまった城と言うものは、見るものにこの世の儚さを伝えた。

拓人が、この城がかつて誇ったであろう栄華を心に思い浮かべてみると、そこにはなお一層の侘しさが感じられた。

彼は城内の大きな石に暫しのあいだ腰掛けて周りの人たちをながめたあと、人だかりのある方に向かった。

ハイデルベルグ城はネッカー河の河畔の高台にあるため、城まで登り河畔側に立つと、ハイデルベルグの街が一望できた。人だかりはそこにあった。七年前詩音と訪れた時も、今日の様な晴天であった。   拓人は眼下に広がる中世の面影を残した街並みを遠方まで見渡しながら、昨夜の事を思い返していた。                   


確かに昨晩は部屋に入ったあとすぐにベッドに大の字になり、そのまま眠りについた筈であったが・・・     

拓人には夢とも現実ともつかぬ、詩音と出逢ったころの追憶が浮かんでは消え、掴もうとすれば逃げて行った記憶が残っていた。

それは、どこまで行っても不確かな映像であった。                 


 拓人が詩音と「偶然」の再会をした日、ふたりはカフェを出て表参道の駅まで一緒に歩いた。拓人は銀座線に、詩音は千代田線に乗るためである。駅の構内で詩音と別れる際、拓人は詩音を美術館に誘った。「次の日曜日、もし良かったらシャガールを観に行きませんか?」       

都内の、ある美術館ではシャガールの展覧会が催されており、拓人はそこを訪ねるつもりでいたのである。絵画はひとりで観る、それが拓人のいつものことであった。

絵ときちんと対峙するためには、時間と空間を自分ひとりで構築しなければならなかった。そのためには他人は『不要』だったのである。しかし詩音の、このたたずまいは何であろうか?


今しがた通りのカフェで、拓人の真向かいの椅子に座っていた詩音、そして十日ほど前の、初めて会った日の立ち姿を思い起こして、

拓人は決して自分からは訴えようとはしない詩音の奥ゆかしい美しさに惹かれていた。

そしてそこに何かとても繊細な、手に包むように大切にしなければ、すぐにでも壊れてしまうガラス細工のようなかよわさも感じたのであった。

「詩音となら、一緒に絵を観ることが出来るであろう」

拓人はそう思ったのであった。


「私で、よろしいのでしょうか?ご一緒するのは?」

「はい。もちろんです」

詩音は拓人の誘いに、一瞬びっくりとしたような表情を見せたが、拓人がそう答えるとにっこりと笑い、ふたりで美術館に行くことを約束してくれた。

そして拓人と詩音は、当日の待ち合わせ時間と場所を決めて、それぞれの改札へと歩いて行ったのであった。 


 数日後の日曜日に、拓人と詩音が訪ねた美術館は、都内JR線のターミナル駅からほど近いところにあった。いくつかある改札のうちのひとつから出て、木々に囲まれた大きな公園の一角にその美術館はあった。

拓人と詩音は、そのターミナル駅に乗り入れる地下鉄の改札口で待ち合わせをしたのだった。     当日は約束の時間より十分も早く着いた拓人であったが、改札を出るともう詩音は先に着いていた。

「すみません。お待たせしてしまって」  

拓人は会うなり非礼をわびた。

「いいえ。私もいま着いたばかりです。お気になさらないでください」

詩音はそう言うと

「美術館はどちらでしょうか?」

と、拓人に聞いた。

拓人は

「そうですね。では、こちらから行きましょう」

と左側の出口を指さして、詩音を導くように歩きはじめた。                      

その日は、ここ数日の曇天が噓のように晴れあがり、夏の終わりをも思わせるような暑い日であった。

ふたりは気持ちのよさそうな木陰を横目に見ながら、美術館までの道を歩いた。

そのあいだ詩音は、昨夜は『なにかどきどきと緊張して』なかなか寝つけなかったこと、自分は美術館で絵を観るなど初めてであること、そして、シャガールについて多少『勉強』して来たこと、などを拓人に話した。それは、拓人が抱いていた『無口な詩音』とはまったく印象が異なるほどであった。


「中町さんは、よく絵をご覧になりに行かれるのですか?」

詩音は美術館の入り口付近に着き、チケット売り場の列に並んでいる時、拓人にそう聞いた。

「好きな画家、あるいは興味のある画家の絵が来たときは、ほとんど、必ずと言ってよいほど観に行きます」

拓人はそう答え、自分の横に並んでいる詩音を見た。詩音の髪は、夏の名残を持った風に、かすかに揺れていた。           


その日はシャガールを観た帰り、ふたりで日比谷に出た。

まだ日暮れまでにはかなりの時間があり、日中の暑さが充分に残っていた。ビルディングの群れと皇居に囲まれたそこは、木々と木陰が気持ち良かった。ふたりはしばらく公園の中を散策し、噴水の前で立ち止まった。やわらかに水しぶきが舞い上がり、拓人と詩音にかかった。詩音は小さく声を上げた。    そして詩音の半袖のブラウスから伸びた白い腕は、拓人には眩しかった。

しかしそれは拓人に肉欲的な欲望を導き出す性質のものとは明らかに違っていた。


美術館での詩音は、まるですい込まれたかのように絵に見入っていた。拓人も絵を観る時はその作品の中に入ってしまうくらいに我を忘れるのであったが、詩音はまさしくそれか、それ以上であった。そしてときおり詩音は大きく息を吐くようにし、

「きれいね」

と言って、拓人のことをすがるような瞳で見つめた。


途中、美術館の一階から二階に通ずる階段の壁に、今回展示された絵の中では最も大きな作品が架けられてあった。

詩音は階段の踊り場で立ち止まり、しばらくその絵の前に佇んだ。それはかなりの長い時間であった。そしてこんどは二階の手摺りのあたりに移動し、またそこで無言のままその絵を観ていた。     

そのようにして彼女はおよそ二時間以上もかけて、ゆっくりとすべての作品を観てまわったのだった。

パンフレットを手にして美術館を出ると、詩音はため息をつくように

「ほんとうに、素晴らしかったわ」

と言って、拓人に礼の気持ちを伝えた。            



 七年ぶりに訪れたハイデルベルグ城から見る景色は、まさしく絵葉書のようだった。ネッカー河に架かる「古い橋」の橋門の美しさ、緑ゆたかな山の稜線と蒼い空、河畔の青々とした芝の色、そして赤色の屋根がどこまでも続く中世の街並み、すべてが七年前と同じであった。


詩音もここからの景色を、城壁の端に手を掛けながらしばらく眺めつづけていた。

「きれいね。素敵だわ」

詩音は拓人の手を取って、城内のあちこちに彼を連れまわった。

「詩音こそ、どのような素晴らしい景色よりも美しくて輝いていた」

拓人は七年前の、そんなことを思い出していた。



 「さっきの絵・・・」          

公園の中の、木の陰になっているベンチを見つけた拓人と詩音は、そこに腰掛けて噴水の周りで戯れる子供たちを見ていた。

陽の光はやや勢いを失いつつあった。

そのとき詩音は、ほんの小さく口をひらいた。        

「あんなに美しい絵を、私ははじめて観たの」            

詩音は、かほそい声でつぶやくように言った。                  

「さっきの、階段に架けられていた絵のこと?」

拓人が聞くと、詩音は

「そうよ」

とうなずいた。

「彼は、心から彼女を愛していたのね。そして、彼女も。それが、あの絵を通じて私に伝わってきたの。他人ひとの、愛し合う心と心がこちらに伝わるなんて、ほんとうにすばらしいわ」

詩音はそう拓人に言った。

拓人は知識として、シャガールと最初の妻ベラの深い愛情を識っていた。そして夫人ベラがシャガールを残して病死していること、彼がベラの死後も彼女をモデルにして、多くの作品を描き、ベラを愛し続けたことも。

「彼女は画家に愛されて、永遠の愛を手に入れたのね。私には、それがわかったの。そしてきっとそれは、この世での生死とは無関係なことなのだわ」


あのとき、たしかに詩音はそう言ったような気がした。

それは、誰にともなく発せられたようにも思えた。

とても小さく、囁くような言葉だった。

「あのとき、あの言葉は『誰』に言ったのだろうか?」

                              


詩音はよく、話しかけているとも独り言ともつかぬ話し方をすることがあった。やがて多くの時間をともに過ごす様になり、拓人にも少しずつ慣れが身について来たのだが、つき合い始めた頃は返事をするべきなのか、あるいは聞き流すべきなのか、判断に迷うことがしばしばあったのである。



 拓人はハイデルベルグ城から下り、アルテ・ブリュック(古い橋)を渡ってネッカー河の対岸へと向かうことにした。

そこは「哲学の道」へと繋がっており、拓人はそのままそちらに向かい歩を進めた。

そしてもういちど、その緑豊かな山の小路を歩きながら、あのときの詩音の言葉を思い浮かべた。


『この世での生死とは無関係なこと』

その言葉が拓人の心の中を、リフレインのように駈け巡っていた。


       


       

          第7章 ローテンブルグ 



 遠くから見ると、その街は丘の上にぽっかりと浮かんでいる様に見える。街は城壁で囲われており、幾つかある城門からしか中には入ることが出来ない。中世がそのまま残っている、と言っても過言ではないのである。  

 「ローテンブルグ・オプ・デア・タウバー」  

世界中の多くの人たちを魅了するロマンチック街道の都市の中でも、「中世の宝石」と呼ばれ最も人気のある街である。      

 

拓人は昨日の午後を、ハイデルベルグ城から「古い橋」を渡り、その後、ゆっくりと哲学の道をひとり歩くことに費やした。

そして夕刻まで街のあちらこちらを散策し、ホテルの部屋に戻ったのは七時を回っていた。夕食はホテルのダイニングで摂った。

 

 彼は昨日、ホテルでの夕食のさなか、ふと美里のことを思い出した。ダイニングからは外の通りを眺めることができたので、ヨーロッパの古い街並みを堪能することも可能だったのだが、実際に異国の街にひとりでいると、いまの自分の孤独さが余計に身に沁みるようであり、何かとても辛い気分に落ち込んでしまったのであった。

そんなこともあり、きっと人恋しくなったのであろう、拓人はそう自己の内面を推察した。


美里には

「急な出張になった。しばらく連絡は出来ないかも知れない」

そう言い残し、東京を発ってきた。


美里とは出会って一年近くが過ぎようとしていた。世間的に見れば交際をしている、ということになるのかも知れなかった。

拓人は彼女に好意を持っていたし、美里も自分を嫌ってはいないはず、いや、むしろ多少なりとも好意に近い感情を抱いてくれているはず、と拓人は感じていた。

しかしどうしても「詩音のこと」が拓人の中で壁となり、美里に対して大きく踏み出すことが出来なかったのであった。

美里は詩音と同様に、きわめて容姿に恵まれていた。

しかし美里のそれは、詩音のそれとは明らかに性質が異なっていた。

しかし、いったいどのように違っているのか、は拓人にもうまく説明することが出来なかった。


「自分の心は今、どのようになっているのであろうか?」

拓人には、それを凝視できる情態にはなかった。   



 今朝九時にハイデルベルグのホテルをチェックアウトし、ここローテンブルグに先ほど着いた拓人は、七年前に詩音とふたりで登った、市庁舎の塔へと歩を向けた。            

そこはやはり結構な人気で、多少の行列になっていた。

最後は、相当に狭く急になる塔内の階段を登り切ると、そこからは丘陵地帯を360度見渡すことが出来る絶景に出会えるはずであった。



七年前詩音は、この市庁舎の塔をマルクト広場から見上げ、

「あそこに登ってみたい」

と、拓人の手を引くように広場を横切り駈け上がって行ったのであったが・・・  


 拓人と詩音は、原宿のカフェでの再会以来ほとんど毎週、週末にはふたりで逢うようになっていた。都内の美術館にも出かけたし、図書館にもよく通った。美術館にはシャガールを観たのち、フェルメールやレンブラント、モネやロートレックなどを観に行った。

それは詩音の希望を汲んだものであったし、また図書館での過ごし方と言えば、詩音はほとんど海外の小説を読み、拓人は主に絵画や芸術、建築関係の厚めの本をめくっていた。

ともに隣り合わせに座っていても、読む本はまったく別物だったのである。そしてその間、ふたりはほとんど、まったくと言って良いほど無口になり言葉を交わすことはなかったが、それでも時間が辛くなることは有り得なかった。

沈黙さえもが、ふたりには心地よかった。

そして数時間をそこで過ごし、図書館を出たあとふたりはカフェでその日に読んだ本の感想を互いに語り合った。

それはふたりにとって、多くの意味で有意義な時間だった。

また時には、何の目的もなく街をぶらつくこともあったし、拓人の家の近くの公園で、特に何もせず、一日中鳩に餌をやりながら過ごすことも珍しくはなかった。そんな時は拓人がいつも持っているプレーヤーで、ふたりで音楽を聴いた。

それはクラシックばかりではなく、ロックからジャズ、ポップスまで幅が広かった。

詩音はクラシック以外の音楽はほとんど聴いたことが無かったので、拓人が聴かせる「新しい音楽」に、とても興味を持った。

そしてひとつのヘッドフォンのLを拓人が、Rを詩音が耳に入れて分け合って聴くことが、ふたりにとってお互いを肌で感じ、心をつなげる鎖のようなものになっていた。


拓人と詩音はそんなふうにしながら、少しずつ相手を理解しあって行った。

それは色鮮やかなタペストリーが、時間と手間を充分に掛けられながら少しずつ編み込まれていくことと、とても似ていた。

ふたりは決して先を急ぐことなく、ゆっくりとその「共同作品」を紡ぎ出して行ったのであった。   



 拓人と詩音がふたりきりで頻繁に逢うようになり、半年が過ぎようとしたころ、ふたりは横浜に出かけた。

その日は、外国人墓地の周辺をしばらく歩き、いくつかある洋館を見学した。そこにはバラがきれいに咲いていた。

詩音がとてもバラが好きである、ということを拓人はその時にはじめて知ったのである。

ある洋館ではカフェもあり、ふたりはそのなかのひとつでローズティーを飲みながら時間を過ごした。拓人はその日、何枚も詩音の写真を撮った。

詩音が異国情緒あふれる異人館の庭先で花々と戯れる姿は、そこに咲くバラなどよりもはるかに美しい、と拓人は思った。

そして近くにあった売店でソフトクリームを求め、外国人墓地を背にしてそれを食べている時であった「お付き合いをしている方がいるのなら、お家にご招待したら、と父と母が言っているの」

と、拓人は詩音から聞かされた。

陽はすでに高いところにあり、その時期としては十分すぎるほどの暖かさであった。         拓人は詩音とかわるがわる舐めていたソフトクリームの、コーンの部分を、音を立てて口の中に押し込み、

「そうなんだ」             

と、ひとことだけ答えた。        


 拓人にとっては思いもよらなかった「詩音の宣言」のあと、

ふたりは外国人墓地周辺からカトリック山手教会へとまわり、そして港の見える丘公園に戻り、そのあと山下公園へと下りて行った。

そこでふたりはしばらく、鎖に繋がれた往年の名船を見ながら過ごし、涼しい風が吹き始めた夕方ころに、マリンタワーからさほど遠くないイタリアンレストランに入った。              

そして拓人と詩音は、イタリア出身の有名なタレントに似たウェイターに奨められたパスタを食べながら、詩音の家に行く日を打ち合わせることにした。


「ずいぶんとたくさん歩いたわ。あなた、お疲れにならなくて?」

詩音はすっかり歩き疲れたことがさも楽しそうに、拓人に聞いた。詩音は、拓人を苗字でも名前でも呼ばずに、「あなた」と呼んでいた。

それはふたりでシャガールを観に行った日から、そんなに間の空いていない頃のことだった。

詩音は拓人に

「これからどのようにお呼びすればよろしいでしょうか?」

と尋ねた。考えてもいなかった質問だったので、

「どのようにでも」

と、拓人は答えた。それ以外に答えようが無かったのである。すると詩音は

「それでは『あなた』とお呼びしてもよろしいでしょうか?苗字ではなにか・・・」

と言って、そのまま視線を自分の手元のハンカチに落とした。

「僕はそれでもかまわないよ。君の呼びたいようで」

拓人はそのように答え、それ以来詩音は拓人を「あなた」と呼ぶようになっていた。


「海が素敵だったわ。私、海を見たのはいつ以来だったでしょか。自分でも、忘れてしまっているくらいよ」

詩音は港の見える丘公園からの景色も、山下公園から見た景色も、とても気に入ったようであった。

「海と言っても、ほんのわずかしか見えないとても小さな海、だったけどね」

拓人は笑いながらそう答えた。

そして

「君は、バラが好きだったんだね」

と、洋館での詩音の姿を思い出しながら話題をかえて彼女に聞いた。

「ええ、そうよ。私がまだ幼いころ、家の庭にはバラがあったの。真紅の、ほんとうに真っ赤なバラだった。私はそれがとても好きだったの」

詩音は、最初は「きょとん」とした表情を見せたが、すぐにそう答えた。

「それで、そのバラは今もあるの?」

「私が小学校に上がって数年後に、病気で枯れてしまったの」

詩音は幼い日の、哀しい出来事を思い出すように言った。

「そうだったのか。じゃあ今度、ふたりでバラを育ててみようか?」

「そうね。あなたと一緒になら。あなたのお部屋のベランダではどうかしら?陽当たりも良いし、きっときれいに咲いてくれるはずよ」

その日の詩音は、最後までとても楽しそうであった。

ふたりはレストランでシチリア産のワインを飲み、パスタを食べ、そして詩音の両親に会う日を決めた。

そしてその日、拓人は途中まで詩音を送り、ふたりはそれぞれの家路についた。                

 ローテンブルグの市庁舎の塔からの眺めは、やはり拓人を感動させた。その日も七年前と同様に深い緑が澄んだ空気の中で際立ち、なだらかな丘を彩っていた。空はぬけるように青かった。

ローテンブルグは高いところから見ればわかるとおり、決して大きくはない、むしろ小さな街であった。しかしそこに歴史的建造物や色鮮やかな木組みの家々が点在し、訪れるものを魅了した。まさに

「中世の宝石」であった。

七年前、ここの市庁舎の最上部にある塔の見晴らしから、遠くの丘陵地帯をバックに詩音を撮った写真は、拓人のお気に入りであった。そしてその写真は「ほんのしばらくの間」ふたりの住まいのリビングに飾られていたのだった。


拓人が初めて訪れた詩音が両親と住む家は、世田谷の閑静な住宅地の一角にあった。拓人がその家の前に立つと、そこは二階建ての歴史を感じさせる洋館であり、壁にはつる性の植物がほぼ全面に絡まっていた。

陽当たりの良い南側の庭には大きな蜜柑の木があり、そのほかにもう一本、拓人にはわからない品種の大きめの木が緑豊かに繁っていた。

とても印象的な造りであった。拓人はなにか、避暑地の外国人の家を訪ねたような気持ちになった。  拓人が詩音の実家を訪ねたその日は、「外国人墓地でソフトクリームを食べた日」から、三週間が過ぎていた。

初めて会う詩音の両親は、ともに学識と知性を感じさせる人で、しかも充分な奥ゆかしさも具えていた。拓人は居間に通され、詩音から両親を紹介された。居間にはゆったりとした、しかも充分に貫録のあるソファーが置かれており、そこに拓人と詩音が並んで座り、そして詩音の両親が向い合せに座った。

五歳年上だと聞かされていた姉は外出をしているのか、留守の様子だった。

その部屋には、品の良い調度品が幾つも飾られていたが、しかしそのなかで拓人の心を最も惹いたのは、壁に掛けられていた能面であった。

拓人は十九歳のころに「花伝書」を読み、能に強く惹かれるようになっていたのである。

そのおもては「増女」だった。

その増女の面はこの洋館の家に、そしてこの居間に凛とした落ち着きと張りを与えていた。

そして小面や若女の面ではないことが、詩音の父親の内面を象徴している、拓人はそのように感じたのであった。           


初めて顔を合わせた詩音の父親と母親は、拓人のことについて、いきなり「あれやこれやと」詮索するような態度は一切取らなかった。人への接し方に、節度を持ち合わせた人たちだった。

自分に充分な時間と余裕を与えてくれた二人を、拓人は好きになれそうだ、と思った。        詩音の母親が用意してくれた紅茶を飲みながら、四人は多少の緊張感をそれぞれが持ちながら初めての顔合わせを楽しんだ。

最初に拓人が自己紹介をして、そのあと詩音はおおまかなふたりの出逢いから今に至るまでを両親に話して聞かせた。

詩音の両親は、正直に言えばまさか自分の娘が異性と交際をするようになるとは思いもよらなかった、という素振りであった。

詩音は休日、拓人といつもどのようなところに行き、どのような時間の過ごし方をしているのかをこと細かに両親に説明した。

詩音の父親も母親も、そこまで細かに話さなくても、というような表情をしてふたりで顔を見合わせていたが、それでも共にその詩音の話を溢れそうな笑みをたたえながら聞いていた。


ふたりがほとんど毎週、図書館に入っていると詩音が話すと、詩音の父親も

「私も、若いころは図書館に入り浸っていましたよ」

と昔をなつかしむように語った。詩音の父親も、相当な読書家であるようだったが、

「私の場合は、ほとんどが『実用書』のようなものです」

と言った。

「実用書は文学作品とは違います。人を大きく豊かにするのは、やはり優れた文学作品です」

と、詩音の父親は語った。

事実、拓人が何気なく居間の書棚に目をやると、そこには経済書や会社年鑑などで隙間なく埋め尽くされていた。

そのあとは特に「主題」と呼ぶべきものの無い話が取り留めもなく交わされて、誰しもが「ひと段落ついたのか」と思い始めたころ、詩音の母親がテーブルの上のティーセットを片付けようと立ち上がりながら、拓人と詩音に話しかけた。            

「詩音から聞いているとは思いますけれど、この子は幼い時からピアノを習っておりましたの。詩音、もし中町さんが御嫌でなかったら、お聞かせして差し上げたらいかがかしら?」

父親は終始絶やさぬ笑顔を湛えたまま、パイプを吹かしていた。        

「聞いているとは思いますけれど・・・」 

と言った詩音の母親の言葉が、なぜか拓人の心に教会の鐘のように鳴った。

彼は、詩音からそのような話は聞いていなかったのであった。         

「そうですね、是非」           

と拓人は

「それも詩音らしいことだ」

と思いながら詩音と母親に答えた。

詩音は拓人を見ると、

「そういえばそんな時間の過ごし方もあるのだ」

と今しがた気がついた様な表情を見せて

「それでは、ご案内しますわ」

と言い、拓人を二階の自分の部屋に通した。      




 ローテンブルグの街を一望できる市庁舎の塔から降りてきた拓人は、次はどこへ行こうかと決めかねていた。

日光はあたたかく、眠気を誘うくらいであった。

聖ヤコブ教会へはどうしても行ってみたい、と思っていたが、そこへは夕暮れ時に訪ねるべき、と考えていた。

「あの祭壇は、強い陽射しの残る中で見るべきものではない」

拓人はそう考えていた。

するとまだ早すぎる、と思った拓人は七年前には見ることの出来なかった城壁に行き、少しその上を歩いてみようと考えた。

彼はガイドブックを取り出し、城壁への登り口をさがした。



二階の詩音の部屋は陽当たりが良く、先ほど見えた庭の蜜柑の木が良く葉を繁らせて、詩音の部屋を覆うように配置されていた。

薄いレースのカーテン越しにうかがえる外の様子は、すでに初夏の趣を存分に湛えていた。外はかなり、暑くなっている様子であった。  


詩音は拓人を自分の部屋に案内すると、窓辺に置かれた小さな籐のチェアーに座るように言った。

「あなたには少し小さいかもしれないけれど。でも、我慢してくださる?」

詩音はそう言って小首をかしげた。

チェアーの前には、やはりこじんまりとした円形のガラストップのテーブルが置かれ、コーヒーカップ程度なら十分に置くことが出来た。読書などをするときにここに座るのかな、拓人はそう想像した。


詩音は拓人を椅子に座らせると、黙ってピアノに向かい、鍵盤を開いた。鍵盤を開いてから彼女はチェアーに腰掛け、ゆっくりと指を触れさせた。

詩音のピアノは、綺麗な光沢をもったスタインウェイ&サンズのアップライトピアノだった。

「何を弾いてさしあげればよろしいでしょうか?お好きな曲はおありになって?」と詩音は拓人に好みの曲を聞いてみた。          

「何でも、僕は聴くよ。君の弾きたい曲であれば」

拓人は心より素直にそう答えた。すると詩音はしばらく考えるふうな仕草をしたが、やがてその曲は、まるで決められていたかのように詩音の指先から奏でられ、拓人をつつみこんだ。           詩音はその曲を、アレグロで弾き始めた。それは拓人にとっては、初めて聴く曲ではなかった。今までに、幾度となく聴いていた曲であった。

しかし拓人は、瞬時にその曲を思い出すことが出来なかった。間違いなく、自分は耳にしていたのであるが・・・  

 

なかなか思いだせないまま数小節が進んだ。

そして、詩音の部屋のカーテンの隙間から入ったわずかな陽の光が屈折しながらどこかで反射し、やがて詩音の細く白い指先を輝かせた次の瞬間、拓人は

「あっ!」               

と声を上げそうになった。        

詩音がいま弾いている曲を、思いだしたのである。

それはまぎれもなく、モオツァルトの弦楽五重奏曲、K516であった。なぜ、すぐに自分はこの曲を思いだせなかったのか?

弦楽のための曲をピアノで弾いていたからなのか?いや、違う。自分は、詩音のこの曲に対する何かわからないが勁い思いに気おされてしまったのだ、だからこそ瞬時にはわからなかったのだ。拓人はそう思った。そして

「この曲を、詩音はこのように弾くのか」

と。

拓人は、モオツァルトの憂いと深い不安をここまで繊細に、そしてそこから羽ばたきたいと願う気持ちを、決して「独りよがり」でも「恣意的」でもなく弾きこなす詩音に、あらためて深く魅せられていった。

それは、ただ単にピアノの技量に優れている、あるいは単純に美しいものに惹かれて行くという道程ではなく、世界中の誰しもが見ることの許されない、神秘的で深く青い洞窟の奥に引き込まれていくかのような感覚であった。

詩音はその曲を、時にしる様に、そして時に充分な哀しみを湛えて鍵盤の上から紡ぎだしていったのである。

拓人は詩音のピアノを聴きながら、詩音がこの曲を選んだ理由を考えてみたが、やはり考えはまとまらなかった。そしてやわらかな陽射しに包まれながら、やがて詩音のピアノは静かに幕を閉じるように終わった。


「詩音の内面には何があるのだろうか。そしてそこに自分は、果たしてたどり着くことができるのであろうか?」

拓人の心は今、そのことで占められていた。       

    


「ありがとう」

詩音がモオツァルトを弾き終えたあと、拓人は詩音にピアノを弾いてくれた礼を伝えた。

「お気に召して頂けたかしら?」

詩音はそう答えると拓人を見て、やや不安そうに微笑んだ。

その表情からは

「この曲で、良かったのであろうか?」

といった詩音の回顧の気持ちが含まれているように拓人には感じられた。

外からの陽は先ほどよりわずかに西へと傾き、そして角度を変えて、今は詩音の部屋の奥を照らしていた。拓人は黙って窓の外を見た。

「何か、お聴きになりますこと?」

と言って詩音はピアノの前から立ち上がり、鍵盤を閉じた。そして本棚のCDが置いてある場所へと歩いた。そこにはかなりの枚数のCDが置かれてあった。

「君が選んでくれるかな」

拓人は詩音を優しい目で見つめながら、そう答えた。

「はい。わかりました」

詩音は拓人の視線の柔らかさに安心したのか、先ほどまでの不安そうな表情を消して一枚のCDを取り出すと、それをプレーヤーに挿入した。詩音の部屋のベランダには、一羽の小さな鳥が留まっているのが見えたが、拓人にはその小鳥の名はわからなかった。


挿入されたCDは、やがてほんの一瞬の空白の時を経て、スピーカーから奏でるように音を出した。

詩音が選んだのは、バッハの「平均律」であった。

まるで夜空からそそがれる星々の光のように、最初のプレリュードが詩音の部屋に広がった。そしてピアニストの指先から鍵盤に伝えられる感性は、比類なき奥行きと透明感をたたえていた。

それは無限に広がる、無償の愛のようでもあった。このような演奏が出来るのは、リヒテルをおいてほかには居ないはずであった。

そしてこの盤は、拓人の愛聴盤でもあった。

「下に行って、紅茶をお持ちいたします。すみませんが、少しの間おひとりでお聴きになっていてくださいませんか?」

しばらくふたりでリヒテルを聴いたあと、詩音は拓人にことわりを入れて、階下に下りて行った。

ひとり詩音の部屋に残されそこで聴くバッハは、拓人にとって何か今までと違うような気がした。陽射しはたっぷりとあるにも関わらず、ステンドグラスからしか光の入らない教会内で聴くのと同じくらいに心は静けさに包まれ、しかも穏やかであった。


拓人は先ほどの椅子に座ったまま、外の景色を見て、そしてバッハを聴き続けた。

第7番が終わり、8番の変ホ短調がはじまるころ詩音がティーセットを持ち、階下より部屋に戻ってきた。

「おひとりにしてしまい、申し訳ありませんでした」

詩音はそう言うと、ティーカップを小さなテーブルに置いた。そこには幾枚かのビスケットも添えられていた。彼女は拓人のカップにシュガーとミルクを注ぎ、スプーンを使ったあと静かにそれを拓人の前にさし出した。

「どなたが弾いているのか、おわかりでしょう?」

詩音は自分のカップにもシュガーとミルクを入れると、拓人にそう聞いた。

「うん。リヒテル。でしょう?」

拓人がそう答えると、詩音は先ほどよりも微笑を大きくして、そして瞳を見開くようにして拓人を見た。

「あなたなら、きっとご存知なのではと思いました」

詩音は、拓人が最も敬愛する作曲家がバッハであることを知っていた。


ふたりでミルクティーを飲みながら窓の外を眺めてリヒテルを聴いていると、4枚組であるこのCDの一枚目の最後の曲、へ短調のフーガが終わろうとしていた。

やがてその曲が終わると詩音は

「ちがうCDになさいますか?」

と聞いた。拓人はもう少しバッハを聴いていたかったので

「このままリヒテルを聴こう」

と詩音に伝えた。

詩音は「はい」と答え、2枚目のCDをプレーヤーに入れた。

そして彼女は、今度は掛けていた椅子には戻らずに、プレーヤーの近くの、部屋の壁際に置いてある自分のベッドの中央に移りそこに腰かけた。

詩音がかけた2枚目の最初の曲は、「みずうみ」の中に出てくるイムメン湖のほとりにいるような錯覚をもたらせた。

拓人がそれを言うと、詩音も

「私も今、そのように感じていました」

と答えた。

「きれいな、すい込まれてしまいそうな曲だわ」

詩音はそうつづけると、眼を閉じるようにして再びリヒテルに聴き入った。

拓人も詩音に従うように、豊かなピアノの音色に身をゆだねた。

リヒテルは、決して浅薄な甘美さを求めるピアニストではなかった。そして、そのリヒテルの演奏のために、そこには時がほとんど止まってしまったかのように、きわめてゆるやかにふたりだけの時間が流れていた。


リヒテルのピアノが、詩音の部屋の中で厳かに奏でられて19番のプレリュードが終わるころ、

「こちらに、いらっしゃって下さいませんか?」

と詩音が小さな声でつぶやくように、自分のそばに拓人を呼んだ。

「そこは少し、暑くはないでしょうか?」

拓人が座る場所には、窓から差し込む日光が強く当たっていた。

「こちらのほうが、涼しくてよ」

詩音はそう言うと、自分はベッドの真ん中から少し横にずれて、

拓人が座れるほどのスペースを空けるようにした。

「ありがとう。そっちに行っても良いのかな?」

拓人はやや遠慮気味に詩音に聞いた。

詩音は

「はい。よろしくてよ」

と小さく答え、拓人に目をあわせた。

拓人はティーカップをテーブルに残したまま、詩音の横に移った。事実そこは、同じ部屋の中とは思えないほど、窓際よりはひんやりとしていた。ベランダに止まっていた名のわからない小鳥は、まだそこで微かに頭を動かしながら陽を浴びていた。


「私が、高校生の頃のことでした」

拓人が詩音の隣に移ってからしばらくすると、ピアノの音にかき消されてしまうくらいの小さな声で、詩音が話しはじめた。

リヒテルの演奏は20番のフーガへと移っていた。

「高校生の頃?」

「はい。高校2年生の冬休みのことです」

詩音は部屋の床に敷かれたカーペットの絵柄を見ながら、話しているようであった。そのカーペットは濃い臙脂色を基調としたヨーロピアンデザインで、他に何色かの色が織り交ぜられていた。

そしてその効果によって、詩音の部屋はとても落ち着きのある空間となっていた。

拓人は黙って詩音の話を聞こうとした。

「私の、仲の良かった友人が冬山で遭難して亡くなったのです」

拓人は思わず声をあげそうになったくらい、詩音の話の内容に衝撃を受けた。詩音はそのまま黙りこみ、しばし会話は途切れた。

拓人は詩音のことが心配になり、

「大丈夫かい?」

と横顔を覗いてみた。

詩音は

「はい」

と返事をしたまましばらく黙っていたが、やがて再び話を始めた。

「その友人は冬休みに家族とスキーに行き、ひとりだけはぐれてしまったらしいのです。皆ですぐに捜したということでしたが、結局見つからずに。そして翌日、彼女は少し離れた森の中で凍死している姿を発見されました」

詩音の話によると、その友人とは中学生の時から同じ学校で、共に私立の女子高校に進んだということだった。

よく一緒に買い物や図書館へ行ったという。詩音は話をつづけた。

「その友人は冬休みに入る直前に、それまで思いを寄せていた他校の男子生徒に、交際を申し込まれたばかりだったのです」

「ということは、その子はとても喜んだんだろうね?」

「はい。ずっと想っていた人からの申し込みでしたから、その喜びようは言葉では表せないくらいでした」

詩音はまだ、部屋のカーペットに目を落していた。拓人は詩音の横顔を見つめていた。

その横顔が描き出す輪郭はすっきりときれいで、しかし決して鋭敏過ぎて冷たさを感じさせるものではなかった。鼻の稜線から頬、顎にかけてのカーブには柔らかさがあり、それが詩音の優しさを象徴しているように拓人には思えた。


「私たちは報せを受けたあと、すぐに集まって彼女のところに駈けつけました」

「うん」

詩音は級友たちと連絡を取り合い、急いで彼女が見つかったという場所に向かったと言った。そして、病院に安置されている友人の遺体と対面したとき、詩音以外のすべての級友が泣き崩れた、と拓人に語った。

それは皆が、思いを寄せていた男子生徒との交際が始まったばかりの友人の早すぎる死に、『なんて不運で不幸な出来事なのだろう』と考えていたからだ、と詩音は説明した。

拓人はそれを聞いて、

「たしかに、そうかも知れない」

と答えた。

詩音は、しばらくためらうような仕草を見せてから、こう拓人に言った。

「でも私、そのとき、安置されている彼女の顔を見て、私のそれまでの人生の中でいちばん美しいものを見た、と思ったのです」

詩音は今、カーペットから視線を移して指先の爪を見ているようであった。陽射しはさらに部屋の中で角度を変えて、そしてリヒテルはまだピアノを弾き続けていた。

詩音は、語りつづけた。

「その友人は、誰もが目を奪われるほど、きれいな子だったの。その彼女が、まったく外傷もなく、透き通るような白い肌で、まるで眠るように死んでいた。そして唇には薄く紅がひかれていました。その美しさは、もうこの世のものとは思えないほどだったの」

そして詩音は、彼女が尋常ではないくらいの美しさを保ったまま亡くなった、ということだけではなく、自分の好きな人と、思いを遂げたまま世を去ったことが、何よりの幸せだったのでは、と拓人に話した。「彼女は、自分がつかんだ幸せが失われてしまうかもしれないという不安や恐怖から、永久に解放されたの。そして永遠に、自分の好きなひとに思われながら、彼の心のなかで生き続けることになったのよ」

今日の詩音の指先には、薄いマニキュアがあった。それは、よく見ないとわからないくらいのピンク色であった。拓人は、今それに気がついたのであった。

「そうだね。彼女はきっと、不幸ではなかったのかも知れない」

拓人は、詩音の指先を見ながら言った。

「不謹慎なことを申し上げて、すみませんでした。こんな私を軽蔑なさるでしょう?」

詩音は、目を伏せるように下を向いてつぶやいた。

拓人は詩音の手に、自分の手を重ねた。

「そんなことはない。決して不謹慎などではないと思うよ。そして、軽蔑もしない。それはきっと、君の美意識の問題だから」

詩音の手は少し冷たく、そしてわずかに震えているようであった。拓人は詩音の手を包むようにして温めた。

やがて2枚目のCDが終わり、ふたりは階下の居間へと戻った。



 拓人がはじめて登ったローテンブルグの城壁の上は、さほどの高さではないのだが、市庁舎の塔の上から見下ろす景色とはどこかで趣が違った。

拓人は所々で立ち止まり市内や城壁の外の景色を見ながら、時間を掛けてその上を歩いた。なぜか城壁の上は日本人よりも欧米人のほうが多かったが、その理由は拓人にはわからなかった。



 詩音の部屋から再び居間に下りると、詩音の父親は相変わらずパイプを咥えたままソファーに深く腰掛け、何か重厚な書物を読んでいた。ふと表紙が見えたが、それはリガートであった。         母親は台所にいた様子であり、居間に戻ると是非夕食をともにするよう拓人を誘ってくれた。拓人は言葉に甘えることを、母親に伝えた。拓人は再び居間のソファーに座った。詩音は

「台所に行って、少し手伝ってきたいのですがよろしいでしょうか?」

と、拓人に尋ねた。拓人は

「僕は大丈夫だから。その方が良いと思うよ」

と答え、詩音に母親を手伝うようにうながした。 

 


 拓人はガイドブックで調べた通りに、シュピタール門から城壁に登ったあと、しばらく城壁の上を歩いたが、陽が傾くのを見計らって聖ヤコブ教会へと向かった。そこは、どうしても夕暮れ時になってから行きたいと思っていた場所であった。

聖ヤコブ教会には、中世の名工と言われたティルマン・リーメンシュナイダーが彫ったと言われる聖血の祭壇があった。

七年前、詩音と訪ねた時と同じく、やはり今日も拓人以外には人影は無かった。拓人はひとり、誰もいない教会内に入り祭壇の前にたたずんだ。

その祭壇は煌びやかさとは全く無縁であった。そのことがなおいっそう、拓人の心をつかんで離さなかった。名工の質素な心と思いが、この清貧な名作を生んだのであろう、と拓人は思った。

この祭壇の前では、人の心の醜さなどすべて見通されている、そんな気がした。

そして七年前と同じ、今日もこの場所では天からの歌が聞こえてくるようであった。その歌は名もなき人たちが歌う聖歌のように拓人の心を満たし、言葉では言えないような何か大きなものが降りてきているように感じずにはいられなかった。

 


 「中町君は、さきほどから『あの面』が気になっているようだね」

拓人がソファーに座り、詩音の父親と二人だけになった時、詩音の父親は読んでいたリガートを閉じて、そう話しかけてきた。

「はい。実はお邪魔したとき、すぐに気がつきました。そして、気になっていました」

「そうでしたか。それは、この面が打たれた年代とか人物とか、その様なことなのですかな?」

詩音の父親は重ねて聞いた。

「いいえ。そうではありません」

拓人は失礼にならぬよう言葉を選びながら、本来であれば部屋が華やぐよう小面や若女を飾るはずであるが、そこに増女が掛けられていることに、何か特別なもの、大げさではなく敬意に近いものを感じた、と詩音の父親に話した。詩音の父親は

「そうでしたか」

と、ひとこと答えてからリガートを居間の書棚に戻した。

台所からは詩音と、詩音の母親の話し声がときおり聞こえてきた。ごく普通の、母と娘の会話のようであった。

そこには、ごく一般的な、良い意味での「ありふれた家族の幸せ」が存在しているように、拓人には思えた。詩音の父親は、自分の細君を呼ぶと

「今日はすっかり暑いな。ちょっと早いがビールでも貰おうか」

と伝えた。そして拓人に

「中町君も、つき合ってくれるならうれしいのだがね」

と言い、同意を求めた。

拓人が

「よろこんで」

と答えると、詩音の母親は

「すみませんね。無理強いをしてしまうようで」

と、拓人に詫び、今度は視線を変えると笑いながら夫をにらむような仕草をした。

やがて、詩音が二人の座る居間のテーブルにビールの瓶とグラスを運んできた。その瓶もグラスも、共にきちんと冷やされていた。詩音は父親と拓人の前にグラスを置き、ビールの栓を抜いた。

詩音は気を遣ってか、拓人に先に注ごうとしたが、拓人は

「お父さんに先に」

と言い、詩音から瓶を受けると詩音の父親のグラスにビールを注いだ。詩音の父親は

「ありがとう」

と言い、

「それでは、中町君には私が注ごう」

と言い、拓人のグラスにビールを注いでくれた。拓人は礼を言い、二人は乾杯をしてともに一気にグラスを空けた。詩音はそんな二人を見て、何も言わずにただ微笑んでいた。詩音はグラスをたちまち空にした二人に、共にビールを継ぎ足すと、

「すみませんが、またお台所を手伝ってまいります」

と言い、母親のいる台所に戻って行った。

拓人と詩音の父親は出された酒の肴を食しながら、しばらく寛いだ。


そしてともに三杯目を呑んだあと、拓人が窓の外の庭に目をやると

「以前はあそこにバラが植えてあったのですよ」

と、庭のやや左側の、ちょうど蜜柑の木の木陰になるあたりを詩音の父親は指さし、拓人に話しかけてきた。

「バラが植えてあったという話は、詩音さんから聞いたことがあります」

と、拓人は詩音の父親に答えた。

「そうでしたか」

と詩音の父親は言い、

「パイプを失礼してよろしいかな?」

と、煙草を吸わない拓人に断りを入れてから、葉を詰めて火をつけた。

詩音の父親は、時間を掛けてゆっくりと煙草をふかすと、再び拓人を見て話を続けた。

「あれは、詩音が小学校にあがる前、たしか幼稚園に通っていた時分だったと思います。いえね、これは私が直接見たわけではなく、家内から聞いた話しなんですがね」

詩音の父親はそこまで話すと、手にしたパイプを再び口元に運び、煙をくゆらせた。

台所からは、まだ詩音と詩音の母親の会話がやっと耳に届くくらいの大きさで、聞こえてきた。

拓人はバラが植えてあった、と言うあたりを見ながら、父親の次の言葉を待った。

「あの子が、咲いて間もない、いちばんきれいな盛りのバラばかりを鋏を使って切っている、と言う話を家内から聞いたのです」

詩音の父親の視線は拓人にはなく、庭の外の、どこか遠くを見ているようであった。

詩音の父親はそのまま続けた。

「家内はバラを手入れすることはなく、いつも咲くがまま、枯れるがままにしてあったのですよ。もちろん私も何もせず、でした。

なので、切り花にするという習慣が我が家にはなかったのです。

そんなこともあって、少し驚いた家内が、『どうしてきれいなバラばかりを切るの』と聞くと、詩音は『枯れて美しくなくなってしまうのは可哀そうでしょう?きれいなままのお花でいて欲しいの』と言ったらしいのです」


詩音の父親の使うパイプは、パイプを知らない拓人にさえも、高価なものであることを予想させるのに充分な気品を湛えていた。

詩音の父親はそれを、まるで自分の手の一部のように使っていた。

「しかし、そのバラも詩音が小学校に上がり、数年後には枯れてしまいました。庭師に頼んで、ずいぶんと手をかけていたんですがね」

詩音の父親は、遠い昔を思い出すような視線を拓人に戻して言った。

「そうそう、たしか外国の有名な女優の名前を冠していましたな。あれは、何と言ったか?」

父親は、そのバラの品種をなかなか思い出せないようであった。

「ハンフリー・ボガードと一緒に、映画に出ていた女優ですよ。

有名な映画・・・」

拓人はボガード主演の幾つかの作品を思い出して、その中から最も知られていると思われる題名を挙げた。

「カサ・ブランカ、でしょうか?」

すると詩音の父親はやっとつかえが取れたというように

「そうそう。カサ・ブランカですよ。それで、あの女優の名前は何と言ったかな?」

「イングリット・バーグマンではないでしょうか?」

拓人はそう答えた。

「そうだった。イングリット・バーグマン。思い出した。

その名前のバラだったのですよ」

詩音の父親は、ほっとした表情でにっこりと笑い、拓人に

「ウイスキーに変えましょうか?」

と言い、細君に用意を頼んだ。



拓人が詩音の家で夕食をともにし、そこを辞したのは二十時を過ぎる頃であった。詩音の父親は帰り際、

「こんど是非、能を観に行きましょう。詩音や家内も一緒に」

と、拓人を誘ってくれた。拓人は丁寧に礼を言い、喜んで御一緒させて頂きたい、と答えた。

詩音は、

「自分も少し夜風に当たってきます」

と両親に言うと駅までの道を、拓人と一緒についてきた。

人通りは少なく、あたりの空気は当然の様に午前中よりは冷たくなっていた。            「今日は、ありがとうございました。お疲れになったでしょう?」

玄関を出てふたりきりになると、すぐに詩音はそう拓人に話しかけてきた。

「いや。そうでもない。それより、僕は君の御両親を好きになれそうだ。というより、もう好きになっている、だな」

拓人はお世辞ではない、本心を詩音に伝えた。

「そう言っていただけると、うれしいです。私、本当はとても心配していたの。父はとても厳しい人で、多分どのような人をお連れしても気に入ってはもらえぬはず、と思っていたので」

詩音はとても喜んだ。そして自分は親子だからわかるが、父も母も間違いなくあなたに良い印象をもったはずだ、と言った。

「それなら良かった」

拓人は心の底から、そう思った。


駅までは、もうしばらくの距離があった。拓人は、少しだけ自分のあとを歩く詩音をふり返るように見て、詩音が弾いてくれたピアノの感想を言った。

「モオツァルト、とても良かったよ」   

すると詩音はびっくりとした様に、

「あの曲を、ご存知でしたの?」

と言って、拓人を見た。

これだけの住宅街にも関わらず、飼い犬の鳴き声などは一切しなかった。あたりは静かで、その中をふたりは歩いていた。

「でも私、本当はあの曲を弾くのは余り好きではなくてよ」              

詩音はやや目を伏せながら、弦楽五重奏曲を弾いたことを少し悔いるような口調でそう言った。    「余り好きではない、とはどういうこと?」      

拓人は詩音を斜めまえから見るように聞いた。詩音は少しの間をおいて、拓人の問いに答えた。

「それは、モオツァルトの短調は美しすぎるの、私には。そして、特にあの曲は。美しいということは、それと同じくらいに哀しいと言うことでしょう?私には、それがとてもつらいのです」

K516は、父レオポルトの死の直前に作曲されていた。モオツァルトの心中が、そのまま哀しみの旋律になっていることは想像に難くなかった。そして詩音のやや「うつむきかげん」の表情は、さきほどまでとは違い、事実哀しそうに見えた。


拓人は詩音の弾いてくれた曲のことを、小林秀雄から知った。

彼は小林の「モオツァルト」を読み、はじめてその曲を聴いたのであった。二十歳になるか、ならぬか、のころであった。

「君は、あの曲をいつ知ったの?」

拓人は詩音に聞いた。

「高校生の頃、私、図書館で『ある本』を見つけたの。そして、そこに書かれている曲を聴いてみたくなってCDをさがしてみたの」

詩音はそう答えた。

「それは、小林秀雄のことだね?」

「そうよ、あなたも読んでいたの?」

詩音は驚いた様に聞き返した。拓人は二十歳の頃のことを、詩音に話した。

拓人は小林の文章を「モオツァルト」以外にも、「實朝」「當痲」「西行」、そして「無常といふ事」の四作を既読していた。

詩音は「モオツァルト」以外にも、小林の文章を読んでいるのだろうか?

拓人はそのことについて、勿論気にはなったのだが、なぜか聞きそびれてしまった。正確に言えば、「聞きそびれた」というよりは「聞くことが怖かった」と言ったほうが、近かったのかも知れなかった。

それはシャガールを観に行った帰り、日比谷の公園での詩音の言葉と、たったいま詩音が語ったことが、自分の中で結びついてしまったような気がしたからであった。

そしてその結びつきが、拓人の内に小さなさざ波のようなものを起こしていた。

「あなたとは、ずいぶんと同じ本を読んでいたのね。私、あの本を読み、あの曲を知っている方とは、はじめて出会ったわ。なにか、とても不思議な気がしています」

詩音は、もう哀しそうではなかった。さきほどまでの表情にもどり、髪をかき上げながら言った。

「私ね、さきほど、あの曲を弾くのはあまり好きではない、と申し上げたでしょう?でも、いちばん好きなひとに、私のいちばん美しいと思う曲を弾いて差し上げたいと、そう思ったのです。それであの曲を弾いたの。あの曲で、よろしかったでしょうか?」

詩音はそこまで言うと、急に立ち止まり

「ごめんなさい」

と、言った。その「ごめんなさい」の意味が、拓人にはわからなか

った。自分の心のなかを、思わず吐露してしまった、ということへのはずかしさであったのか?    拓人はそのように考え、そんな詩音が愛おしくなった。

そして拓人は、街灯の明かりに照らされながら、ぼんやりと考えてみた。             

それはモオツァルトの短調と、詩音の精神性についての関連であった。


拓人は

「美しすぎるモオツァルト」       

と、心の中で復唱してみた。そのことが、考証の手助けになるような気がしたのであった。                     

 


第8章 ディンケルスビュール         



一昨日の夜は、ローテンブルグにある中世の名工の名を冠した小さなホテルに拓人は宿をとった。やはりそこは、七年前に詩音と泊まったホテルであった。

久しぶりに訪れたそこは、エントランスと呼ぶにはあまりに華奢ではあるが、気品のある入り口を入ると落ち着いた雰囲気のロビーとなっており、充分に使い込まれた感のある調度品が置かれ、また中世の騎士が身に付けた様な甲冑も飾られていた。それらは七年前となんら、変わりはなかった。        

通された部屋は小さいながらも清潔感に溢れ、額に飾られた絵画が壁に掛けられていた。窓からは小さな中庭が見えた。

拓人はもう一日そこに滞在する事とし、そして今日の午前中、ここディンケルスビュールの街に入ったのであった。        


この街もローテンブルグ・オプ・デア・タウバーと同じく城郭都市であり、中世の面影を多く残していた。ただ、ローテンブルグほどは街も大きくなく、またその分、人も多くはなかった。

拓人は人影もまばらなこの街が当時から気に入っていたし、詩音もせわしない現代からぽつんと取り残されたようなディンケルスビュールを、ほんの短い時間ではあったがとても愛した。

彼はしばらく石畳の上を歩いた。そう遠くないところに大きな教会が見える。ふと道の脇を見ると、人通りのない木組みの家の前に車が止められており、車道と舗道を隔てる様にチェーンが張られていた。

拓人はそのチェーンに腰を乗せて、教会を眺めた。

その教会の外壁は長い時を経たためか、濃いめの茶色のように見えて実に重厚で、しかもどこか優しさを感じさせる建築物であった。たしか聖ゲオルグ教会のはずであった。              



拓人が世田谷の詩音の両親を訪ねた日、ふたりは駅の改札で別れた。詩音は、最寄りの駅まで、拓人を送ってくれたのであった。

別れ際、詩音は           

「今日は、ほんとうにありがとうございました」         

と言った。

ほとんど化粧をせぬまま家を出てきた詩音であったが、やはり充分すぎるほどに美しかった。もう「ふつうの詩音」に戻っていた。

そして、その日から四週間後、拓人と詩音は婚約をした。

両親が切にそれを望んでいる、と詩音から伝えられたことが、拓人を決心させたのであった。              

初夏と呼べる頃に婚約をした拓人と詩音は、両家の両親の意見も尊重し、出来うる限り早めに挙式をあげようと相談をした。しかし、ともに仕事が立て込んでおり、どうしても十二月に入るまでは日が空かなかった。         

夏の休暇もままならぬ忙しさが続き、ようやく九月の末に式場の手配ができた。師走も押し迫る前には、と十二月の初旬の週末にふたりは日取りを決めた。            

式は身近な親類と、ごく親しい会社関係の人のみを招く質素なものにしよう、と拓人と詩音は話し合った。ふたりの考えはもちろんのこと、両家とも派手で晴れがましいことを好まない家風は共通していたので、そのような式となることは当然のなりゆきであった。               


夏季休暇も取れぬほど忙しかった夏が終わり、本格的に秋に入ろうかという十月の中旬、拓人と詩音は三浦半島のとある海の見えるレストランで詩音の誕生日を祝うことにした。ふたりが出逢ってから、ちょうど一年が過ぎようとしていた頃であり、挙式までにはまだ二ヶ月ほどの期間があった。

「やはり、お義父さんやお義母さんも一緒の方が良かったかな?」

拓人は気になって、もういちど詩音に聞いてみた。

店を予約する際、詩音に伺いを立てたのであるが、詩音は

「ふたりだけの方が良い」

と言って拓人の提案を受けなかった。

「お気になさらないで。だって私、ほんとうにあなたとふたりだけの方が良かったのですもの」

詩音はそう言い、それよりもワインを選びましょう、と言った。

今日が、ふたりで祝うはじめての詩音の誕生日であった。

ウェイターが持ってきたワインリストの中から、ふたりはボルドー産の赤ワインを選び、そして料理はそれぞれ好きなものをチョイスし、あとでシェアすることにした。

いつもより少しドレスアップした詩音の美しさは、さらに際立ったものになっていた。

ふたりは、ワインのグラスを合わせて乾杯をした。

「誕生日、おめでとう」

拓人はまわりに迷惑にならぬよう、小さな声で言った。

「ありがとう。あなたも、御からだに気をつけて」

詩音は口元をほころばせるように微笑んで、拓人に気遣いの言葉を伝えた。そして、消え入りそうな声でつづけた。

「私、男性に自分の誕生日を祝って頂くのは、はじめてなのです」

詩音はそう言うと、うっすらと頬を染めた。

「なので今日は、ふたりだけで、とあなたにお願いをしました」

詩音は拓人と目を合わすことをはじるようにテーブルクロスに目をおとしたまま、そう言った。

「それなら、今日は僕たちにとってほんとうに忘れられない誕生日になるね」

拓人はそう言うと、詩音の形の良い口元を見つめた。

レストランの海側にセットされた大きめの窓からは、相模湾が一望できた。所々、遠くに明かりが見えるのだがそこがどこであるのかは、拓人にはわからなかった。

「もう、一年になるんだね」

拓人は窓の外の景色から詩音に視線を戻して、ワインのグラスを持ちながら言った。

「そうね。もう、一年になるのね。早いわ」

「君と、はじめて逢った日のことを、僕はよく憶えているよ」

「私もよ。あなたは私のことなんかまるで気にもかけないで仕事に夢中だったわ」

詩音は少し恨めしそうに、しかし愛嬌たっぷりにそう言った。

拓人は実はそうではなく、充分に気になっていたのだが、何を話してよいのか考えあぐねていた、と言い訳をした。

「でも、私はずっと同じテーブルであなたを待っていたの」

拓人はその日のことを、あらためて思い浮かべていた。

たしかに詩音は、テーブルを移動せずにずっとその場所にいたのであった。

しかし、と拓人は思った。自分が強く詩音に惹かれたのは、決してその秀いでた美貌だけではなかった。

どこか陰影のある、他の女性とはまったく異なる内面の有り様を、そのときの詩音に視たからであった。拓人はそう、回想していた。


オードブルが運ばれてきた。ふたりはオーダーした牡蠣を口にした。

「君は、とてもきれいだったよ」

拓人は詩音を見て思い出すように、そしてはっきりと言った。

詩音はうれしそうな表情をして、しかし、少しだけ首をかしげた。拓人はその意味に気がついて言い直した。

「君は、きれいだよ」

詩音は、はずかしそうにワイングラスに口をつけた。

魚料理が終わりメインの肉料理が運ばれるころ、拓人はずっと気になっていたことを詩音に聞いてみた。

表参道のカフェで「偶然」の再会をした日のことであった。

「あのとき、どうして君はまったく驚かなかったの?」

詩音は一瞬の間のあと、「ああ、そのことか」というような表情をうかべて拓人の質問に答えた。

「なぜって、それはね、あなたにもういちど、必ず逢う。私にはそれがわかっていたことだったから」 詩音はそう言うと、「知らなかったの」とでも言いたげに拓人を見つめた。その表情は昔をなつかしむ様でもあり、また年上の女性が年下の男性を導く仕草にも似ていた。

「そうか。君にはわかっていたのか。僕は、カフェの椅子に君を見つけた時、ほんとうにびっくりしてしまったんだ。こんな偶然もあるものなのか、と。そして、一直線に君の席に向かった」

拓人は、その日の表参道の人ごみを思い出しながら言った。

それは、拓人にはもうかなり以前のことのようにも思えたのであった。

「そうだったわ。あなたは、そう、多分一直線に。私にはそれがわかったの。見てはいなかったけれど」

詩音はそういうと、自分がチョイスした仔羊のローストをきれいに切り分けて、拓人に奨めてくれた。

「でも、勘違いなさらないで。今の私の言い方ですと、あなたが一方的に私に好意を寄せていた、そのように聞こえてしまいまいますわね」

詩音は自分の言い方が正しくなかった、と訂正するように言った。

「あなたが一直線に私のところに来て下さったのは、それは私の、あなたに対する思いの勁さからなのです。私のあなたに対する一途な思いが、あなたにそう行動させたのです。そして、その気持ちは今も、そしてこれからも、変わることはありません」

詩音はそう言うと、小さく息を吐き、拓人に今日の礼を述べた。

「こんなに素敵な誕生日を迎えられるなんて」

それはボヘミアングラスのように煌びやかな声で語られた、詩音の言葉だった。

拓人は詩音が分けてくれた仔羊を口に入れ、残りのワインをゆっくりと飲んだ。

「来年もまた、ここに来られるといいね。それとも、今度は違うお店のほうが良いのかな?」

拓人がそう言うと、詩音の手にしていたナイフとフォークの動きが一瞬止まった。そしてそのまま、詩音は静かに拓人を見つめ返した。その詩音の瞳は拓人を見ていて、しかしその先のさらに奥深くにある何かを見つめているようでもあった。

そしてその色は、深い海の底のような漆黒に近い緑色であった。


その日ふたりはレストランで食事を楽しんだあと、七里ヶ浜にあるホテルに泊まり、翌日東京に戻った。



 十月も瞬く間に過ぎ、拓人と詩音は挙式に先立ち、新居を求めた。拓人のマンションでは、ふたりで暮らすにはやや手狭であったことと、詩音の両親が住む世田谷の家とでは、かなり離れていることが理由であった。ふたりは、詩音の実家にほどちかい下北沢に手頃なマンションを見つけ、十一月中にはそこに荷物を運び、ともに暮らすようになった。                  

詩音は結婚を機に、勤めていたイベント会社を寿退職することにした。しかし、拓人の仕事は相変わらず忙しく、新婚旅行なるものは当分の間、お預けとなった。 「

私は、いつでもよろしくてよ」     

と詩音は特に意に介さない素振りであった。

拓人と詩音の新しい生活は、まるでワルツを踊っているかのように煌びやかであった。詩音は横浜での約束の通りに、フラワーショップからオールドローズを買い求めてきた。それは満開になると、詩音が好きだと言っていた、真紅のバラであった。  

するとこんどは、それに相応しい鉢が必要となり、ふたりで方々をさがし歩いた。しかし、なかなか気に入ったものが見つからず、やっと好みに合うものが見つかったのは、七件目に入ったショップであった。二日がかりのことであったが、そんなことさえも、ふたりには楽しかった。

ダイニングのテーブルには、いつも詩音が選んだ花が花瓶に活けられており、食卓を飾った。また詩音は料理も完璧であった。

手のかかる料理を、いやがることもなく、むしろ楽しんでいる様子で拓人のために作ってくれた。それらの料理は、例外なくすべてが美味であった。

ふたりは「完璧」と言えるほど幸せだったのである。


拓人と詩音が新しい生活をはじめるようになってから四か月ほどが過ぎた三月のなかば、詩音の父親から延びのびになっていた能の観賞に誘われた。

鎌倉で能を観たあと、横浜で食事をともにしないか、とのことであった。拓人は是非にと、快諾した。

その日はあいにくの曇り空で肌寒い日であった。

詩音と詩音の父親、そして拓人の三人で能を観賞したあと、所用で鎌倉には来られなかった詩音の母親と横浜で待ち合わせをした。 

待ち合わせた場所は、桜木町の駅からさほど遠くないホテルであった。そこの高層階にある日本食の店を、詩音の父親はおさえてあった。

「拓人君には、和食では物足りないかとも思ったのだが、どうもここのところ脂っこいものが合わなくてね」

と、詩音の父親は申し訳なさそうに拓人に詫びた。

「私も、上司や同僚と飲むときは専ら魚ですから、お気遣いなさらなくとも大丈夫です」

拓人は義父に心配はいらない、と答えた。


拓人と詩音は初めて入ったその店の料理は、どの素材も新鮮で味付けも良く、満足できるものだった。窓からは横浜の夜景が見渡せ、詩音と詩音の母親は料理よりもむしろそちらに気持ちが傾いているようであった。

拓人は義父と、その日に観た能の演目についてなどを語り合った。また、拓人の中学時代の友人が何年か前、黒川能を観賞しに山形まで訪れたことを話すと、身を乗り出すようにして、是非自分も訪ねたい、と言った。料理も殆どが出されたころ、詩音が

「申し訳ありませんが、少し失礼致します」

と言って席を離れた。詩音の父親は、秋田の酒を燗で呑み続けていた。


拓人が義父に酌をし、徳利を袴に戻した時、詩音の母親は話そうか話すまいか、ずいぶんと迷ったというような切り出し方で拓人を見て話し始めた。

「あのは、幼いころから無口で内向的なところがございました。わたくしも主人も、とても心配いたした時期がございました」

詩音の母親はその頃の詩音の様子を、じっと本に目を落とし、自分が部屋に入って行っても気がついているのかいないのか、そのような様子が何週間も続いたり、またある時は同じピアノ曲をひと月ちかくもずっと弾き続けたり、小学校の卒業を間近にしたころからそのような傾向が表れ始めた、と言った。

ある時期、あまりに心配になり知り合いの医師に相談してみようかと、考えたこともあった、と言った。

詩音の母親の表情は、当時の詩音の様子と苦悩を物語っているようであった。

そして最も心を悩ませたのは、三年前、詩音の五歳違いの姉が結婚生活に終止符を打ち、戻って来た時だった、と母親は語った。

僅か二年足らずで、詩音の姉と相手の男性は終焉を迎えたということであった。

「あんなに仲の良かったお姉さまたちが・・・」

と言い、詩音はかなりの長い間、深く傷つきふさぎ込んでいた、ということだった。

詩音の母親は

「お恥ずかしい話をお聞かせしてしまいました。お詫びいたします」

と言ったが、話の脈絡からして詩音の姉の離縁の原因は、相手の女性問題であることを拓人は察した。

しばらくの間、拓人が詩音の母親の話に耳を傾けていると、今しがたまで黙って酒を呑んでいた詩音の父親が、持っていた猪口を手にしたままゆっくりと口を開いた。

「そう、何といえば良いのか、この言葉が適切かどうかはわからないのですが、『死生観』とでも言いますか、そんなものが詩音の内で少しずつ形成されていった。それは、ひと時で、ではなく、あの子の人生の中で少しずつ、色々な経験をしながら培われていった、そのような気がするのです。そしてそれは、もしかすると他の人たちとは多少違うのではないか、或いは違ってきているのではないか、そんな気がしているのです」

詩音の父親は言葉のあとも、視線は拓人や詩音の母親にはなく、その先は遠くの夜空の彼方にある様であった。そしてその表情からは、その考えは自分の中では揺るぎのないものである、だからこそ一抹の不安から逃れられることが出来ない。そんなふうに語っているように拓人には感じられた。

詩音の母親は、自分の夫君の話を聞きながらまだ話をしたかった様子であったが、詩音が戻ってきたことに気がついた父親が目配せをしたので、話はそこで終わった。

そして母親は、今はもうすっかり拓人のお陰で心配はしていない、と結んだ。


その日四人は、食事のあと一台のタクシーに乗りこんだ。

まずは世田谷の詩音の実家で両親が先に降り、そのあと下北沢の拓人と詩音のマンションに帰った。下北沢に着いたときは、十二時に近い時刻であった。



 拓人は聖ゲオルグ教会を長い時間、ひとりで眺めていた。

それは真下から見上げるのではなく、遠くから見ていたのであった。

なにかそのほうが、いまの拓人の心情に合っていたのである。

拓人は長居したその場所から離れ、城壁の前の濠に向かった。

なぜかもういちど、見たくなったのであった。そこは街中よりもさらに人影は少なく、木々が多いぶんひっそりとした雰囲気につつまれていた。

七年前、ここではかなりの写真を撮ったことが、思い返された。


「濠の中の水は、あの時から流れているのであろうか?それともここに、留まったままなのであろうか?」

拓人はそんなことを考えた。             

 


 五月の連休が終わる頃、ようやく拓人の仕事も峠を越し先が見えるようになった。ふたりは先延ばしになっていた新婚旅行なるものを十月に決めた。しかし、それまでにはまだ先が長い、との拓人の提案で、ふたりは信州に一泊の旅行に出かけることにした。           

拓人が探し出してきたその場所は、信州のとあるインターチェンジで下り、しばらく山の中の道を走った高原であった。標高は千五百メートルに近く、暑くなりかけの東京から比べると、まだまだ寒いくらいであった。しかし、湿気が多くなりつつあった東京よりは、はるかに空気が乾燥しており、その澄んだ冷たさが何より心地よかった。            

拓人が用意したホテルは、小さな湖の湖畔にあり瀟洒な造りであった。ふたりはチェックインを済ませると、早速部屋に入り、荷を解いた。しばらくふたりでのんびりと過ごし、陽も暮れるころシャワーを使い、そして一階のロビー横にあるダイニングへと下りて行った。    

そこは、そのまま湖の見えるデッキ席へと繋ながっており、拓人と詩音はそこに案内された。ふたりはウェイターに案内された席に着くと、フレンチのフルコースを楽しむことにした。

その日ふたりは、食前にシェリー酒を頼んだ。

詩音は拓人との生活で、少しずつではあるがアルコールを嗜めるようになっていた。

「今日は一日中の運転、御疲れでしたでしょう?」

詩音は拓人をねぎらう様に優しく言った。

「私、高原をドライブしたのは初めてだったの。風がひんやりと冷たくて、でもお陽さまはきちんと照っていて、なんだかとても素敵だったわ。なだらかな高原の中を車で走ることが、あんなにも気持ちのよいことだなんて、あなたのおかげで知ることができたの」

詩音はドライブの最中も、ずっと声を上げて喜んでいた。

それは近くの木々を見て、遠くの山々の姿やくっきりと浮かんだ雲を見て、そして足元の小さな花を見つけて、すべてのときにそうだったのである。

料理が少しずつ運ばれ、ふたりはそれらを楽しみながら今日いちにちをふり返っていた。


食前のシェリー酒からふたりとも赤ワインにかえて、拓人には三杯目のグラスが運ばれてきたとき、詩音はふと思い出したように言った。

「あの、草原のなかの『鐘』、ほんとうはどんな音がしたのかしら?」

 

拓人は車を運転中、途中で休憩のためロッジ風のドライブインに車を停め、そこからふたりは草原の小路を歩いた。そしてしばらく歩いた先に、石造りの小さな鐘楼があった。

拓人と詩音がその鐘楼につく少し前、その鐘を鳴らした若いカップルがいた。

鐘の前までふたりが行くと、そこには「この鐘を鳴らすと、恋は成就する」と書かれてあった。そのとき、あたりは拓人と詩音のふたりだけになっていた。

拓人は、「季節はずれのせいであろう」と思った。

「鳴らしてみようか?」

拓人はそのとき、詩音にそう言った。気がつくと、さきほどまでの太陽は雲にさえぎられ、あたりは森閑としていた。詩音はしばらく黙っていたが、意を決したように拓人に言った。

「私、あなたとずっと一緒にいたいの。あなたとずっといっしょに・・・」

詩音は決して大きな声ではなかったが、しかしさけぶような抑揚で言った。

拓人は一瞬、詩音の変わりように戸惑ったが、つぎの瞬間、彼は詩音の肩を抱き寄せていた。ひき寄せられた詩音の肩は、かすかに震えているようであった。拓人は詩音の顔を上げさせた。

「僕は、ずっと君と一緒にいるよ」

拓人は、詩音にそう言った。

その時の詩音の目は、なぜか不安に怯えているように、拓人には感じられた。

そして雲はいつのまにか消えていて、さえぎられていた太陽は、またあたりを照らしていた。


「食事が終わったら、湖の周りを少し歩いてみないこと?

きっと、とても気持ちが良いと思うわ」

食後のコーヒーが運ばれ、詩音はカップについた口紅を、自分のバッグからハンカチを取り出して拭いながら言った。      


詩音が草原の鐘のことを話しだしたとき、拓人は

「急に気温が下がってきたので、急いで車に戻って正解だった」

と詩音に言った。そのときは、なぜか今は、詩音が鐘を鳴らさなかった理由を聞かない方が良いように拓人には思われたのであった。詩音も

「そうね」

と言い、その話はそこで終った。ふたりはそのまま、また食事をつづけたのであった。


拓人は、湖の周りを歩いてみたい、という詩音の提案に

「それは良い考えだね」        

と同意し、しばらくしてからふたりは席をあとにした。     


その日は昼間からの晴天がそのまま続き、夜になっても雲は出なかった。拓人と詩音はいちど部屋に戻り、詩音のカーディガンを取ってから湖に出かけた。ホテル正面のエントランスから出ると湖は裏手にあたり、ホテルの周りを半周しなければならなかった。

ふたりは月明かりに照らされながら、湖の東側に歩いた。

そこからは、ふたりが先ほど夕食を摂ったホテルのダイニングが見えた。もう残っている人はなく、明かりは所々消されていた。しばらくふたりで湖畔を歩くと、芝が植えられたゆるやかな斜面の様なところがあった。         

「ここに、座りましょう」        

詩音が拓人を見て言った。      

「夜風がとても気持ちが良いわ」     

そう言うと詩音はハンカチを二枚、下に敷いて、拓人の手を引きながら芝の上に座った。  

あたりに人影はまるで無かった。

小さな湖のほとりには、ふたりが泊まっているホテルの明かりのほかは何も無く、わずかな風の音以外は何も聞こえてこなかった。           

ふたりはしばらく夜空を眺めながら音楽や文学の話をした。


それから、星座や流星群の話もした。音楽と文学については主に拓人が、そして星座や流星群に関しては詩音がほとんど一方的に拓人に話して聞かせた。

拓人は、その時はじめて知ることであったが、詩音は天体についてまるで専門に勉強でもしたかのように詳しかった。それらについて話している時の詩音は、本当に楽しそうであった。

ふたりで多くについて、互いに話しつかれたと言うくらいになって、拓人と詩音はもういちど空を見上げた。気のせいかも知れなかったが、深い紺色の夜空を流れ星が横切ったように思えた。

拓人は、気になっていた先ほどの「鐘楼の鐘」について詩音に聞いてみようと思った。

「あのとき、なんで君は鐘を鳴らさなかったの?」

すると詩音は不意をつかれたように一瞬の間をおいたが、「うん」と小さくうなずくと自分の肩を拓人に寄せて、拓人の左手の甲を自分の右の頬に導いた。そして囁くような小さな声で話しはじめた。

「あそこには『この鐘を鳴らすと恋は成就する』と書かれてあったでしょう?」

「うん。そうだった。たしかに、そう書かれていたね」

拓人の手に伝わる詩音の頬は、ほんのりと冷たさを湛えていた。

詩音は先ほどと同じくらいの小さな声でつづけた。

それは、ひとことひとこと、ゆっくりとかみしめる様に、選ばれた言葉で自分の心情を拓人に正確に伝えたい、という詩音の意思を感じさせるようであった。

「もし、あなたとの恋が成就してしまったら、もうそこは終着地であって、あとはそれが失われてしまうことへの怖れしか残されないような気がしたの。だって、この世では永遠に続くものなど、きっと無いでしょう?」

拓人は自分の手の甲に、詩音を感じていた。それは、詩音のやわらかな頬から伝わる、詩音が生きているという証しでもあった。

「そう思ったら私、とてもこわくなって、鐘を鳴らせなくなってしまったの」

詩音はそう言うと、

「気を悪くさせてしまったのなら、ほんとうにごめんなさい」

と、拓人に謝った。

拓人は

「そんなことはないよ」

と言って、詩音の髪を撫でると詩音はやっと小さく微笑をうかべた。


ふたりはその場所を立ち、湖の西側へと歩きはじめた。

そこは湖の東側よりもさらに明るさが乏しく、湖畔には林と呼んでも良いほどの木々が立ち並んでいた。そして、そのほとんどが白樺であった。拓人と詩音はその中の小石が敷かれた小路を、ゆっくりと、そして無言で歩いた。


「私ね、幼い頃からずっと考えていたことがあったの」

詩音は木々の間から見える、湖の水面を見ている様であった。

水面は月明かりを受けて、きらきらとさざめくように揺れていた。

拓人は、詩音が急に切り出してきたことに、少し驚いた。

「それは、どんなことなの?」      

拓人も歩調を落として、湖面のわずかな波打ちを見ながら、詩音に聞いた。  

「それはね、もし私が幸せになれたら、その幸せを永遠に手放さない方法はないものかしら?ということなの」

詩音の月明かりに映る唇は、とても形が良かった。それはまるで宝石のルビーのように輝いていた。              

「それで、その方法は見つかったのかい?」

拓人は聞いた。ふたりの歩く速度は、もうほんとうにゆっくりになっていた。  

「ええ、見つかったわ」         

詩音は湖を見たまま、しかし、はっきりとした口調でそう答えた。       

それは、いつも控えめで拓人のうしろからついて来る詩音とは、あきらかに別人のようであった。  

「それは、どんな方法なのかな?」    

拓人はそれを聞くことに少しのためらいを感じたが、しかし聞かずにいることにはそれ以上の怖さを感じた。

「それはね、幸せをね、一瞬のうちに凍らせてしまうの。そして、誰にも開けることのできない箱に閉じ込めてしまうの。そうすれば、もうそれは誰も触れることは出来ないし、『私たち』の邪魔をすることは出来なくてよ」            

詩音はそう言うと今まで見ていた湖面から視線をうつして、拓人を見つめた。そこには、はっきりとした意思があるように思えた。

「その箱は、僕にも開けることは出来ないのかな?」

拓人は恐るおそる、聞いてみた。そのときの詩音の瞳には、拓人が映っていたように思えた。

詩音はだまって自分の唇を、拓人のそれに静かに重ねた。あたりは、悠久の無音だった。     

「そうよ。なぜって、その箱の鍵は私だって持っていないからよ」      

詩音はもういちど拓人に唇を重ねると、

「いけないひとね」            

と言ってほほえんだ。           

湖は『永遠』に時が止まった様であった。  


そしてふたりの生活は、十月までの四か月ほどまったくと言ってよいほど、幸福であった。



           


第9章 フュッセン           

 


悲劇の王とも呼ばれる第4代バイエルン国王ルートヴィヒⅡ世は、僅か四十年の生涯の中で幾つかの壮麗な城を残した。

ロマンチック街道の終点であるフュッセンからほどちかい、岩山の中腹に建てられたノイシュバンシュタイン城は、その中でも、最も美麗な城として知られていた。             

七年前、拓人と詩音が訪れた『最後の地』がその城であった。         


結婚の記念ともいえる旅行の行先を、どこにしようかと話している時、ドイツを訪れてみたい、と言ったのは詩音であった。   

勿論、拓人も賛成した。仕事では何度も行ったことのあるドイツであったが、観光の経験は無かった。そして、その美麗な城を見てみたい、と言ったのも詩音であった。    

七年前の十月の初め、拓人と詩音は日本を発ちドイツへと向かった。出逢った日から、二年近くが過ぎようとしていた。

ヘルシンキ経由でフランクフルトに入りそこからハイデルベルグへ、そしてロマンチック街道と古城街道の交差する街、ローテンブルグ・オプ・デア・タウバーへ、さらにディンケルスビュール、ネルトリンゲンと南下し最終地フュッセンまで、ふたりは中世の中に身をゆだねたのであった。                 

拓人と詩音がノイシュバンシュタイン城を訪ねた日は、ふたりのドイツでの行程の中で唯一、小雨がちらついた日であった。前日にはフュッセンに到着していたのだが、あえて翌日に、城を訪ねたのであった。前日までは、まったくの好天だったのである。ドイツに着いた日の、旅の最初からずっと天気に恵まれていただけに、余計に寒さが身に染みた。山の麓から遠くにたたずむ城を見上げると、城はその名の如く、まさに大きく翼を広げた白鳥の様であった。拓人と詩音は大きく曲がるカーブの坂道を、歩きながら登った。そして、登り切ったところが城の入り口であった。ふたりは、何も言葉を交わさないまま城の中に入った。するとそこは、もちろんのこと美しいと言えるのだが、言い方を変えれば妖気が漂う様な空間、という印象も強かった。城の中は、想像していたよりもはるかに広く、そして大きかった。


「何だか、少し怖いわ」         

詩音はそう言うと、拓人の左腕に自分の右腕を強く絡みつけてきた。        

いくつかの部屋を抜け、螺旋状の階段を登って階上に上がる途中、城の開口部から外の景色が見えた。

バイエルンの山々に雨が降り注ぐさまは、しっとりとした情感を湛えていた。              

拓人はこの城の完成を夢見て、その後、わずか百日あまりしかこの城に住むことが出来なかったという、悲劇の王の生涯を思った。美青年たちを近侍させ、自分と同じヴィッテルスバッハ家の一族であるオーストリア皇后、エリーザベド以外の女性には一切の関心を示さなかったといわれる王。神話や騎士道物語の中にだけ自身の居場所を求めた王。人生の最後には「狂王」とまで呼ばれた王。そしてその悲劇の王は、臣下たちに捕えられた直後に謎の死を遂げている。遺体が見つかったのは幽閉されていた城の、すぐ近くの湖であったという。                 

「この城には、王の無念が詰まっている」 

拓人はそう思った。

城にいる間、常に誰かがそばにいる、あるいは誰かに纏わりつかれている、そんな気がしていたのである。拓人にはそれが、ルートヴィヒその人なのでは、と思えて仕方がなかったのであった。           

ふたりは時間を掛けてゆっくりと城内を見てまわり、世界で最も美しい城のひとつと言われる所以を堪能した。城は外観だけではなく、十分に内部も魅力的だったのである。拓人と詩音は城を出て、坂道を下りながら湖の方に向かって歩いた。城の中にいる時、森の向こうに、湖があるのを見たからであった。                 

「ずっと晴れていたのにね」       

拓人は詩音に話しかけた。小雨はまだ、降り続いていた。

「きっと、さびしかったのね。このお城を建てた王は」

「うん、きっとそうだね」         

「愛する人がいないって、とてもさびしいことだと思うわ」

「うん、もちろん」           

「こんなに大きなお城の、あんなに広いダイニングで、ひとりで

お食事をしていたのでしょう?」

「うん。そうらしいね」         

「私なら、きっと耐えられないわ」    

「僕だって同じだよ」          

ふたりは城から見えた湖を目指し、森の中を、手をつなぎながら歩いていた。  「でも、私にはあなたがいるわ」     

「僕にだって、君がいる」        

詩音の手はあたたかで、柔らかかった。

小雨のせいか、森の中の道はしっとりと濡れていた。


「今日の雨、何だかとても哀しいわ」    

詩音は歩を緩めながら、拓人の横顔を見上げるように言った。

「そうだね。なんだかとても哀しいね」            

拓人は足元の良くない森の小路で、詩音が足を取られない様にと、気遣いながら答えた。

「なぜかしら?」                  

詩音は歩を止めて拓人に聞いた。           

「うん。僕はね、これはきっと、ルートヴィヒの涙雨だと思うよ」

「そうかしら?」            

「きっとそうだよ」           

「ええ、そうね。あなたが言うならきっとそうだわ。」

詩音は拓人を見上げて、にっこりと笑った。深い森の小路を歩き続けていると、ようやく木々の隙間から目指していた湖が見えた。僅かに姿を見せたその湖は、表面に深い緑色の絵の具を捲いたように見えた。それは、五月に詩音と訪れた高原の湖と重なった。 しかし、まだ相当の距離があるようにも思えた。                  

「ほんとうに、すばらしい旅行だったわ」

「そう思ってくれるの?」

「ええ。なにもかもが、充分すぎるほどに素敵だった。あなたのおかげだわ」

歩きながら話しているうちに、ふたりはやっと森から出ることができた。湖は、もうそんなに遠くないところまで迫っていた。

「ねえ、あなた。もういちど言わせてほしいの」

詩音はしっかりと拓人の手をにぎりしめ、そして拓人の目を見つめて言った。

「私、ほんとうにしあわせだわ」    


ふたりはその日、フュッセンの街の小さなホテルに泊まり、翌日ミュンヘンからの便で東京に帰った。

しばらく離れていた東京は、思っていたよりも季節がすすんでいた。拓人はその翌日から社に出た。

そして詩音も、ドイツに旅する前と変わらぬ日々を送っていたはずであった。しかし、ドイツから帰って七日後、詩音は高原のひっそりとした湖にひとりで入り、自らの若い命を絶った。数日後には誕生日を迎える、十月としてはとても寒い日であった。

詩音は、わずか二十四年と十一ヶ月の生涯を閉じたのであった。

それは拓人にとっては、あまりにも突然のことであった。


東京はもう確実に、冬への準備に入ろうとしていた。            

                     

      


        

第10章 ノイシュバンシュタイン城                               


ディンケルスビュールで長い時間教会を眺め、濠のあたりを散策し、その街で一日を過ごしてしまった拓人は、もう一日そこに滞在した。元々その街が好きだったことと、先を急ぎたくない気持ちがそうさせたのであった。フュッセンは、詩音との旅の「終着地」であった。

そこに入れば、必ず詩音の哀しい出来事を思い出してしまう、そう危惧したのである。しかし、それはやはり避け様の無いことであった。              

ディンケルスビュールからネルトリンゲンを訪ね、その街の有名な教会塔である「ダニエル」を見ながら、しばしの時間を費やした後、拓人はフュッセンに入った。しかし思っていたとおり、フュッセンの街に入った途端、拓人の心は狂いそうなくらいに動揺した。                    


「詩音はなぜ死んだのか?」      

それを解き明かすための旅であったはずではないか、拓人はホテルのベッドで自問した。 


詩音はドイツより帰った日から七日後、睡眠薬を服用したままの状態で湖に入水した。その湖は、その年の五月に拓人と訪れた場所とは違っていたが、決して遠くはない信州の高原の湖であった。周囲の小さな、沼と言っても良いくらいの湖であった。まるで、シュトルムの小説に出てきたような湖を連想させた。あるいはフュッセンの、ノイシュバンシュタイン城から見えた森の中の湖を思い出させるようでもあった。水は氷のように冷たく、湖面には朽ちた木が数本、立ち残っている、そんなさびしい湖であった。どのようにしてそこまで辿り着いたのかは、誰にも分からなかった。               詩音が自死の道を選んだことは、当然の様に拓人を傷つけ苦悩させた。              「幸福な人間が、自ら命を絶つ理由わけがない」

この誰しもが考える、そして当たり前の概念が、拓人の心の奥底まで、刃物の様に深く突き刺さったのである。遺書は無かった。幸いにも詩音の両親は、拓人を一切責め立てはしなかった。それどころか、拓人には意外とも思える言葉を、詩音の母は拓人に伝えた。

「詩音は、とても幸せだったのだと思います。拓人さん、ありがとう」

父親も拓人の手をにぎり、頭を下げたしかしそのことがなおいっそう、拓人を苦しめた。


「自分が、詩音を死に追いやってしまったのだ」

その思いが七年間、拓人の心の内を占め、拓人を苦しめ続けてきたのであった。

              

昨夜は、明け方までほぼ一睡も出来なかったはずであった。

さすがにここフュッセンでは、拓人は詩音と過ごしたホテルに泊まることは出来ず、七年前とは違うレストランを兼ねた、やはり小さなホテルを取った。部屋に入るなり錯乱しそうになった拓人は、いつもよりはるかに多い量のスコッチを飲んだ。頭が朦朧として、もしかするとこのまま死んでしまうのではないか?とさえ思った。そんな中、それならそれでも良いだろう、という自分の声が聞こえた。

そして、朦朧とした情態の中で、一睡も出来ず、詩音を思い、詩音の面影を追った。


気がつくと外は夜が明けた様であったが、拓人にはまさしく暗闇に思えた。詩音のいないこの七年間をひとりで生きてきたということが、信じられなかった。 ここにいるのは、本当に「自分」なのだろうか?

詩音はどこにもいなかった。当たり前の様に、部屋には自分ひとりであった。

        

悲劇の王が建設した「夢の城」を、もう一度訪ねるべきか、あるいは自分にその「勇気」があるのか、拓人には疑問であった。彼は意を決することが出来ないまま、身支度をして、とりあえずホテルを出た。 「何ということだ!」          

拓人は空を見上げると、自らの運命を思った。 また今日も雨だったのである。しかも、予報では晴天の筈であった。七年前も、この城を訪れた時だけが、無情にも雨であった。 

拓人はホテルを出ると、城までの道を歩き始めた。まだ城内へ入る決心も出来てはいなかったし、決して城までは近い距離でもなかった。しかし、とにかく彼は歩きはじめた。そして二時間余り歩いたのであろうか、拓人は城の麓まで来てしまった。時計は十二時を少し回っていた。拓人は、やはり城内へと入ってみようと決めた。 


七年ぶりに訪れた城はやはりうす暗く、以前とあまり変わるところは無いように思えた。明かりの豊富でない内部は湿気に包まれている様で、妖気が漂う雰囲気はそのままであった。ただ、詩音がいない、それだけが七年前と違っていた。                  

城内には多くの観光客がおり、拓人もその中に紛れながら歩いていた。そうするうちに、作曲家ワーグナーの、歌劇の世界を再現した部屋の前まで来た。原色をふんだんに使って装飾された、神秘的な洞窟であった。先ほどまでは疎らだったはずの拓人の周りには、なぜか誰もいなくなっていた。拓人はそのことを不思議に感じた。                 


するとそのとき、

「何だか、少し怖いわ」         

と、若い女性の声がした。拓人は驚いてあたりを見た。

それは聞き覚えのある、いや、忘れもしない、忘れるはずのない詩音の声であった。         「詩音!詩音なのか?」       

思わず叫んだ拓人の左横に、拓人の左腕に自分の右腕を強く絡みつけた詩音がいた。    

「詩音!本当に詩音なのか?」    

拓人は信じられない気持ちで、もう一度叫んだ。

「あなた、何を仰っているの?私に決まっているでしょ?おかしな人ね!」         

詩音は拓人を見上げて笑っていた。今まで見たことのないような、抜けるような笑顔だった。     

「だって君は・・・」             

「だって君は?」

詩音は小首をかしげて問い直した。

「だって君は、ドイツから帰って、そのあと信州に行って、そして、ひとりで湖に・・・」      「ひとりで湖に?」

詩音の微笑はやまず、拓人を見上げたままで彼女は答えた。拓人はまだ、信じられないという気持ちでいっぱいだった。そして詩音は、つづけて言った。

「そうよ。私はひとりで信州に行って、ひとりで湖に入ったわ」

「それで君は死ななかったの?」

「あなたったら。どうして私が死んだりするの?私はあなたとずっと一緒よ」          

拓人は詩音の顔をもういちど見た。大きな瞳も、やわらかくきれいな鼻の線も、白い頬も、ルビー色に輝く唇も、すべてが間違いなく詩音であった。             

「では、なぜ君は、僕の前から急にいなくなってしまったの?」        

拓人は、不思議でならないという自分の気持ちを詩音にぶつけてみた。詩音はしっかりと拓人を見つめていた。

「結婚したつぎの年の、五月の末の、高原でのことを憶えていらっしゃる?」            詩音の瞳は、その奥に小さなロウソクの火を燈しているように拓人には感じられた。

「うん。もちろん憶えているよ」

「あの日、ふたりで夜の湖を見ながら、私はあなたにお話ししたわ」      

「うん。それは、もしかしたら、君が幼いころからずっと考えていたこと、のこと?」

「そうよ」               

「それは確か、幸せを永遠に手放さない方法のことだったよね」        

「そうよ」                       

「それで、君はその方法が見つかった、と言った」

「そう。言ったわ。あなたに」

詩音の微笑は絶えなかった。何がそんなに楽しいのだろう、と拓人が不思議に思うくらいであった。

「その方法は、たしか、幸せを一瞬のうちに凍らせてしまって、誰にも開けることのできない箱に閉じ込めてしまう。そういうことだったよね?」               

「そうよ。あなた、よく憶えていらっしゃったこと」

詩音の答え方は、まるで小さな子供を褒めるような優しい口調であった。

「それで、君はそれを、実行したの?」       

「そうよ。私は実行したの」         

拓人には、自分の左腕に絡められている詩音の右腕の感触が、はっきりと感じられていた。

「じゃあ、君は不幸ではなかったの?」   

拓人は七年間「ずっと怖くて聞けなかったこと」を、勇気を出して詩音に聞いてみた。    

「あなた、何を仰っているの?私は世界中で、いちばん幸せだったのよ。そしてその幸せは、今でもずっとつづいていてよ」

詩音は拓人を見つめて、そしてはっきりとした口調でそう言った。                      

『詩音は不幸ではなかったと言った。それどころか、詩音は幸せだった、いや、今も幸せだと言ってくれた』

拓人は涙が溢れそうになっていた。いや、それはもう止めようもなく、本当に溢れ出ていた。もう何もいらなかった。何も欲しいとは思わなかった。拓人は天上に光を見た、と思った。                  

「私はね、あなたと出逢って、あなたを愛して、そしてあなたに愛してもらって、あなたに大切にしてもらって、もうほんとうに世界中のすべての幸せをひとり占めしてしまったと思うほど、幸せだったの。でも、あなたが私を大切にしてくれればくれるほど、幸せになればなるほど、私は不安になって行ったの。

そしてその不安は、時の経過と共に私の中で果てしなく大きくなって行ったの。いつか、この幸せが私の手元から逃げて行ってしまうのではないかと。いつか、終りが来てしまうのではと。そうしたら、怖くてこわくて仕方がなくなってしまったの。私はこの自分の幸せを、誰からも邪魔をされたくなかったの。

だからあなたとの幸せの絶頂で、私は私の幸せを、一瞬で凍らせたの」               詩音の大きな瞳にも、涙がうかんでいた。

それはうっすらと瞳から溢れ出し、静かに頬を伝った。拓人は詩音の流す涙を初めて見たような気がした。

「そして、そして、誰にも開けることの出来ない箱に閉じ込めたの」

詩音の涙は、静かに床に落ちて行った。

「ずっと、後悔していたんだ。君を幸せにできなかったのではと。

君は不幸だったのではないかと」

拓人の涙は止まっていなかった。それどころか、それはさらに溢れ出て来て、とめようがなくなっていた。

「ちがうわ。私はずっと幸せだった。そしてそれは今でもつづいているの。だって私は、永遠に幸せでいられる方法を見つけたのだから」        

拓人は詩音の白い頬を伝う涙を、右手の人さし指でそっと拭ってあげた。詩音は微笑みをたたえたまま、拓人の胸に顔をうずめた。

「あなたはあの日、このお城を訪ねた日の哀しい雨のことを、『ルートヴィヒの涙雨だ』と言ったの。憶えていらっしゃること?」

詩音の涙はまだ、止まっていなかった。

「うん。憶えているよ」

拓人はその日のことを、はっきりと憶えていた。忘れるはずはなかった。

「でもね、あれはね、ほんとうは私の流した涙だったのよ」

「君の涙?」

「そうよ」

「それは、どういうことなの?」

拓人は耐え切れずに詩音に聞いた。詩音は首をわずかに横に振った。

「私はね、もうあの時には決めていたの、自分の幸せを永遠のものにすることを。でもそれは、もうあなたと逢えなくなるということでもあったの。私を大切にしてくれた、私を愛してくれた、そして私が心から愛したただひとりの人、そのあなたと。それを思ったら、たまらなく哀しくなってしまったの。だからね、あのときの雨は、私の涙雨だったのよ」

詩音はそれを言うと、拓人の胸にうずめていた顔をあげて、そしてそっと拓人に口づけた。

拓人の手には、たしかな詩音の感触があった。   

「だからもう苦しまないで。私の大好きなあなた、

私のいちばん大切なあなた」

詩音は、宝石のようにきれいな色の唇でそうつぶやいた。

涙は乾ききらずに、詩音の頬に残っていた。

「そんなにも怖かったんだね。気がついてあげられなくてごめんね」

拓人は、自分の胸に顔をうずめている詩音の髪を両の手で撫でた。そしてもういちど、七年間の想いをありったけ込めてその名を呼んだ。

「詩音・・・」



 気がつくと、拓人は湖のほとりにひとりで立っていた。

七年前、城を出て詩音と歩きながらたどり着いた、あの湖であった。

もしかすると、詩音が訪ねてみたいと言っていた「シュトルムの湖」は、ここなのではないだろうか?と、拓人は思った。小雨はもうやんで、雲の切れ間からわずかに陽が差しこんでいた。拓人は少し濡れたジャケットの左袖をまくり、腕時計を見た。腕時計は『十二時を少し回っていた』時刻を指していた。 しかし無論のこと、秒針はしっかりと動いていた。      




        

最終章 ミュンヘン、そして東京へ



ノイシュバンシュタイン城から見えた、『七年前のあの湖』から、拓人が歩いてホテルに帰り着いたのは夕方の八時を回っていた。ずいぶんと長いこと、歩いていたような気がした。彼は濡れたジャケットを脱ぎ、髪をタオルでさっと拭くとベッドに横たわった。睡魔が襲って来るまで、さして時間は必要なかった。拓人はそのまま眠りについた。  


 幼い時から読書や音楽に親しみ、自身の精神性を自らの内面に於いてのみ構築させていったルートヴィヒ。孤独を愛し人と交わることを好まず、自分の世界を自分だけの中に築いていったルートヴィヒ。

死の報せを受けたエリーザベドに

『王は決して精神病ではない。ただ夢を見ていただけ』

と言わせたルートヴィヒ。

そして、人生の最期を人知れぬ湖で終らせたルートヴィヒ。拓人には王と詩音が、どこかで似ているように思われた。そう、いくつもの共通点があるようにさえ。そういえば、この優麗な城を訪れることを詩音はもっとも楽しみにしていたのだった。詩音は、自分と王との接点を求めて、ここに来たのであろうか?

しかし、それも今となっては、つまびらかには出来なかった。

ただひとつ、詩音は『幸せだった』と言った。それが唯一、ルートヴィヒとは異なることなのであろうか?拓人は夢現ゆめうつつの状態で、城から湖にいたるまでに思いめぐらせていたことを考えていた。


ふと目が覚め、部屋のナイトテーブルに置いたままになっていた携帯電話を見ると、美里からのメールが着信していた。あれから数時間は眠ったようであった。一週間前に東京を離れる時、

「かなり忙しくなるので、たぶん連絡は出来ないかも知れない」        

と言い残して来たが、やはり心のどこかでは、気になっていた。

「明日の夕方ごろ、ミュンヘンに着きます」   

とだけ、書かれてあった。        

「そうか、来るのか」                

拓人はまだ暮れ切らないフュッセンの街を、窓を少しだけ開けてから見渡して、ひとりつぶやいた。                                    

美里には何と言おうか、拓人にはまだ考えはまとまらないままであった。「ここに来た目的」は、はっきりとしていた。しかし、ではいったい美里には何を、どこから話せばよいのか、自分は本当に答えを掴めたのか、ましてや

「今日の、つい先ほどまでの出来事は」         

拓人には詩音と今日の午後、ふたりで城内を巡ったことは、夢と現実の狭間にいる様であった。それはまるで、夢幻能を観ているようでもあった。                      

「到底、説明などつきそうもないな」 

拓人はあきらめて、バイエルンの山々に囲まれた、夕暮れから夜のとばりへとむかうフュッセンの街中へと、あてどもなく出かけて行った。   



 ミュンヘンの街も、七年ぶりであった。「詩音の出来事」があって以来、ドイツ出張のおりは、意識的にミュンヘンを避けてフランクフルトから帰っていたのである。

久しぶりのミュンヘンは、しかし美しい都市であった。重厚で風格のある石造りの建築物や、美しく整った街路そのものが、バイエルン王国の栄華と歴史を彷彿とさせた。

落ち着きと気品ではパリを凌ぐであろう、と拓人は感じていた。もしこの都市が、詩音との「最後の地」でなければ、自分はヨーロッパの都市の中で、最も「ここ」を愛するであろう、と拓人は思っていた。

 

美里には

「午後には空港にいる。到着したら連絡して欲しい」

と、返信のメールを送信してあった。拓人は今日の十二時前に、フュッセンのホテルをチェックアウトして、ここミュンヘンの空港に向かったのであった。          

「美里とも、そろそろはっきりとしなければならないのかな」

と、拓人はおぼろげに思い始めていた。

はじめて会った日から、一年が過ぎていた。美里はもうすこしで二十五歳になるはずである。そして二十五歳というのは、詩音が迎えることのなかった年齢であった。それが拓人に、何か特別な感情を抱かせた。 


何時に着くのかも正確にわからない「出迎え」は、どのように時間を使えばよいのか、途方に暮れた。仕方なく拓人はカフェに入り、雑誌を開きながらプレビンの指揮したラフマニノフを聴いた。今日のミュンヘンは、昨日のフュッセンとはうって変っての、晴天であった。                 


美里から

「着いたよ!」

とメールが入ったのは、ラフマニノフのシンフォニー2番を聴き終え、次に選んだ小澤のブルックナーをほぼ聞き終える頃であった。拓人は知らされたゲートに向かうため、カフェを出た。空港内は多くの人で混雑しており、ゲートまでは時間が掛かった。やっとのことでそこまでたどり着き、人ごみの中に美里を探した。するとしばらくしてから美里は、到着客の最後部からまっすぐに前を見ながら出てきた。拓人は手にしていた雑誌を丸めて、右手で大きく振った。しばらくして拓人に気がついた美里も、両手を振りまわして拓人の名を呼んだ。二人は再会を、心から喜んだ。


一時間後、ふたりは夕暮れの中、ミュンヘン市内のにぎやかな通りにあるカフェとレストランを兼ねた店のオープン席にいた。             

「本来の基本は、やはりビヤホールなんだけどね」

と、拓人は美里に言ったが、今日は自分でもこのミュンヘンの夕景につつまれ、何かをかみしめてみたい、と思っていた。

「痩せてなくて、安心したわ」              

最初の一杯をビールで乾杯した後、美里はそう言った。

「きちんと食べているのか、心配だったわ」

「たった一週間程度で、痩せたりはしないよ」

拓人は笑って答えた。美里は、言葉を選んで人と接することの出来る女性だった。

余計なことを聞いてみたり、人の心の中に押し入って来る、そのような事はしない人間であった。   ウェイターが、美里がオーダーした料理を運んできた。拓人はもちろん知ってはいるのだが、ドイツではどこのレストランでも、とにかくボリュームが多かった。とても日本人の感覚と胃袋では、ついていけなかった。それを知らずにオーダーした美里は、ウェイターが持ってきた肉の量と付け合せの野菜の「盛り方」を見て、笑い転げた。

そして大きく笑ったのち、

「これを、全部食べるの?」

と、拓人に聞いた。                    

「オーダーしたものを残すと、日独友好にひびが入るよ」

「だってあなた、教えてくれなかったじゃないの!」

「君を、驚かそうと思ってね」                

美里は大きくふくれて、しかし大きく笑った。街を抜ける風が心地良かった。      

拓人は、最初に言わなければならなかった言葉を思いだし、今、言おうと思った。今を逃したら、言えなくなる様な気がして勇気を出して言った。        

「来てくれて、ありがとう」

言ってからすぐ、拓人は照れ臭くなり、ジョッキを手にした。

「私が、勝手に逢いたくなっただけだから、気にしないで」          

美里はそう答えた。感情の伝え方に、押しつけがましいところがなかった。美里はいつでもそうであった。拓人は美里に気遣って聞いた。                           

「疲れなかったかい?」                 

「大丈夫よ。食べたり、飲んだり、寝たり。あっという間だった」

美里はにっこりと、そして屈託なく笑った。    


「もしかするとこれからの人生を、美里と歩いて行くことになるのかも知れない」

ミュンヘンの、歴史の重みを十分に感じさせる街の一角で、誰ひとり知る人のいないこの街で、

「自分の目の前に間違いなくいる」

美里を見て、拓人はそんなふうに思った。いや、正確には、しばらく以前からそのような感情は少しずつ拓人の心に広がりつつあったのかも知れなかった。しかし、どうしても詩音のことが、心の壁になっていた。           


初めて訪れたミュンヘンだというのに、美里はもうすっかり馴染んでいた。異国のこの街に「同化している」と言っても良かった。      

それは美里の「天賦の才」であった。オーダーした料理は、まだまだたくさん残っていた。                         

あの日、知り合った翌年の初夏とも呼べる日、はじめて拓人が詩音の家を訪れた日に、詩音は自分の部屋で モオツァルトをピアノで弾いて聴かせてくれた。そしてそのあと、ふたりでリヒテルを聴きながら高校生の時の、友人の遭難死について拓人に話して聞かせた。拓人はその時、恐らくは他の人たちと異なるのであろう詩音の考えを「美意識」と言った。そして、同じ詩音の内的心情や思索形態を、詩音の父親は「死生観」と表現した。今となっては、これは言葉の違いだけであり、同じ詩音の内面を表しているはず、拓人にはそのように思えた。そして詩音の短い人生の中で、少しずつ心のなかに沈潜されていった何かが自死の道を選ぶ、ということとして現れた、そのように思えてならなかった。


ルートヴィヒは自らの内面を、城の建築という具現化した形で

表現しようとした。一方の詩音はといえば、形あるものとして他人の目には触れることの出来ない「自死という生き方」で自己の精神と物語を完結させた。それは一見異なるようであって、実は同じことではないか、拓人にはそう思えた。そしてやはりルートヴィヒと詩音は似ているのだ、と思わずにはいられなかった。


ミュンヘンの夜風に包まれながら美里と会っている一方で、自分はきっと死ぬまで詩音を忘れないであろうと、拓人は思っていた。これからも、ずっと詩音を愛し続けるであろう、それは間違いのないことのように思われた。そして自分が愛し続ける詩音はあくまで生身の詩音であろう、と思った。

しかしそれは、美里に対する裏切りとか、背信、背徳というものになってしまうのだろうか?拓人に、答えは出せなかった。                 

その時

「美里はすべてを知っているのでは?」   

拓人はふと、その様な感情にさらされた。美里が一心不乱にナイフ&フォークを使い、料理を切り分けている姿を見ながら、そう感じたのである。それは「事実」としての自分と詩音とのことではなく、「真実」としての自分と詩音のことを、であった。                    「それはたぶん、間違いのないことだろう」      

拓人の心に浮かんだその思いは、彼の心の中で、強い確信へと変化して行った。

                                             

 自分は七年間ものあいだ、ずっと苦しんできた。詩音の死について、間違いなく自分に責任があるはずだと、拓人は思い続けてきたのであった。きのう詩音は「永遠の幸せを手に入れるために」と言った。

しかしそれは、そうあって欲しいと願う心が、自分に見させた夢だったのではないか?と拓人は自身を疑ってみた。そして仮に詩音の自死の理由がそうであったとしても、詩音の心の不安と怖れを理解し、救い出してあげることが出来なかった後悔からは逃げようがない、と思えた。

自分は生涯、詩音を失った悲しみと喪失感をたずさえて生きて行くのかも知れない。しかしそれは決して背負わされた十字架ではないのだ。拓人の心にはいま、そのような感情が芽生えはじめていた。                             

「明日は、アルテ・ピナコテークに行ってみないか?」

拓人は、まだ料理に悪戦苦闘している美里に言った。

「あ、る、て・・・?」             

美里は不可思議そうな表情をして、手にしていたナイフ&フォークを止めた。  

「そう。アルテ・ピナコテーク。そしてそのあとは市庁舎へ行ってみよう。運が良ければ『からくり人形』に「出会える」かも知れない」            

「うれしいわ」                    

美里は答えた。                    

「そして市庁舎のあとは、ニンフェンブルグ宮殿にも行ってみよう」      

拓人は、自分でも幾分はしゃぎ過ぎかと思えるほどの声で、美里に話しかけた。 

「うれしいわ」                     

美里は二度とも、同じ返事をした。しかしそれは二度とも、しっかりと感情が込められ、強く拓人に伝わった。


『Blowin‘In The Wind』

そのとき、どこからともなく、ディランの曲が聞こえてきた。それは落ち着いた石畳の街路に、ふっと訪ね歩いて来た旅人のように拓人には思えた。

「答えは風の中に舞っている」

ミュンヘンの寒空の下で、彼はギター一本とハーモニカだけの演奏でそう歌っていた。

しかしそれは、力強く人々を導こうとする性質のものではなく、自らも答えを得ていない求道者の魂の叫びではないのか、拓人にはそう聴こえた。

そして拓人は心の中でもういちど、その歌詞をくちずさんでみた。

『The answer is blowin' in the wind.』


「ワインをもらおう。そしてもういちど、再会を祝おう」

拓人は、意を決したように、美里に言った。

「うれしいわ」                   

美里は三度目も同じ返事をした。

しかし三度目の返事はもう雑踏の音にかき消され、拓人の耳にはほとんど届かなかった。

美里は泣いていた。涙を流していた。美里の流した涙は大きくこぼれ落ちる様に頬を伝い、そして彼女の足元へと落ちた。そして石畳の舗道へとすい込まれていった。

「泣くなよ」                    

拓人は美里のそばに移り、涙を拭ってあげた。美里は拓人の肩にまるでもたれ掛るようにして泣いた。


いつの間にか「風に吹かれて」は拓人の耳から消えていた。

「ほんとうに、流れていたのだろうか?」 

今になって拓人は、先ほど聞こえたディランの歌が、空耳であったような気がしてきた。  


ウェイターが、先ほどオーダーしたワインを持ってきた。

ミュンヘンの街は、もうすっかりと暮れようとしていた。舗道を隔てた街路樹の向こうの夜空に、かすかに「ふたつの大きなネギ坊主の頭」が見えた。           

「明日は、あそこにも行ってみようか」  

拓人はひとりごとのように言った。                


拓人は美里にワインのグラスを持たせた。 

「再会を祝って!」               

ふたりはグラスを合わせた。グラスとグラスのぶつかる音が、

小さくあたりに響いた。

「うれしいわ」              

美里の言葉は、とぎれとぎれの涙声になっていて、もう拓人には聞き取ることができなかった。   


しばらくしてから気がつくと、先ほどまでの月明かりはすっかり雲に隠れ、あたりは急に冷え込んできた。街を歩く人々たちの足は速まり、思い思いにコートの襟を立てたり、あわてて雨をしのげる場所をさがしているようであった。わずかに小雨が降りだしてきたのであった。カフェの外に席を取っていた何人かの客が、店の中に移動した。美里は右手をかざして

「降ってきたよ」

と、拓人に言った。

「そうだね。降ってきた・・・」

拓人は薄暗くなった夜空を見上げたが、それでもなおそこを動こうとは思わなかった。この雨に打たれてみたい、そう思っていた。

「君は大丈夫かい?」

拓人は薄手のコートを羽織った美里の肩に、自分が着ていたセーターを掛けてあげた。

「私は平気よ、これくらいの雨なら。それに、この街のこの雨、何だかとても素敵だわ」

美里はしっとりと答えた。それは感傷的と言うよりは、情緒が充分に感じられる言い方であった。

美里もこの雨に何かを感じずにはいられない、そのような心持ちなのであろうか、と拓人は想像した。


『涙は雨になり、雨は涙である』


あの日、七年前、詩音とノイシュバンシュタイン城を訪れた日に降った哀しい雨。そして今、こうして美里と自分を濡らす雨。拓人はその「ふたつの雨」に出会って、はじめてそんなふうに思ったのであった。

きっと、ルートヴィヒが流したであろう涙も、きのう城の中で詩音が見せた涙も、そしていま美里の頬を伝って落ちた涙も、拓人にはすべてが同じように思われた。そして、それぞれが流すそれぞれの涙は、きっとその本質自体のすべてがこの上なく美しく、なんの自意識的な意図もないままごく自然に心の中から溢れ出たものであり、それは苦しみや悩み、愛憎や猜疑、不安、そして過去や未来など、この世のあらゆるものを洗い流して行くのではないか、拓人は今、そのように思っていた。

そしてそのすべてが洗い流されてしまったあと、それでもなお残るものがあるとすれば、それこそが真実の愛であり、永遠に残る美しい思い出と言えるのではないか、拓人にはそのように思えてならなかった。


 


                               終 

 



長く苦しんだ拓人はふたたび歩き出すことが出来るのか。それが何よりもこの小説のテーマでもあります。つたない作品でございますが、どうか皆様の感想をお聞かせ頂けましたら幸いです。

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