2月16日(朝)
週末、僕は度重なる小鳥遊の襲撃から逃げ回って過ごした。そして翌日2月16日。
「……なんだアレ」
高校に向かう通学路を歩いていると、道の端にひとりの少女が立っているのが目に入った。無論、それだけならよくある日常の一風景に過ぎないのだが、彼女の服装が少々特殊だったこともあり、気になった。
少女は中学生くらいの幼い見た目に反して、野暮ったい漆黒のスーツをきっちり着込んでいた。流石にサイズがなかったのか、袖や裾が余っていて、とてもアンバランスに見える。さらに足元には少女が持つには大き過ぎるアタッシュケース。これまた漆黒。なんだか映画に出てくるスパイのようだ。
「ん……?」
ジロジロ見ていたせいで気付かれてしまったらしい。少女は僕の方にツカツカと近寄ってくると、上目遣いに、
「申し訳ありませんが、この住所の場所を教えて頂けないでしょうか」
と、やけに堅苦しい言葉遣いで聞いてきた。
少女が差し出してきた紙を、僕は反射的に受け取る。そこには印刷と見まごうほど馬鹿丁寧な字でどこかの住所が書かれていた。
「この住所なら近いな。案内しようか?」
「いいのですか?」
良いか悪いかでいうと悪い。今は月曜日の朝で、僕は登校の途中。少女が提示した住所はけして遠くないが、案内までしていたら遅刻は免れない。皆勤賞を狙っている身としては推奨されない行為だ。
とはいえ、道に迷っている推定中学生くらいの女の子を見捨てて行けるほど僕は冷血人間でもないのだ。それに、学校へ行けば嫌でも小鳥遊と顔を合わすことになる。まさか彼女も衆人環視の中で殺人を犯すとは思わないが、人目につかないところでグサリ……なんてのは容易に想像できる展開だ。正直なところ学校には行きたくない。
「乗りかかった船だ。案内くらいなら、いくらでもするよ」
「それは助かります。あ、それと、名前を言っていませんでしたね。大変失礼しました」
そう言って少女は居住まいを正し、改めて名乗る。
「羅生弓弦と言います。どうぞよろしくお願いします」
◆
両親と死別する前から、僕はずっとこの街に住んでいる。だから街の構造はだいたい把握しているし、住所を見れば場所も大体わかる。けれど流石に番地まで覚えているはずもなく、恥ずかしい話、すぐ目の前に来るまで目的地がどんな場所だかわからなかった。
とはいえ。
「よりによってここか……」
「? ご存知なのですか?」
知ってるなんてものじゃない。先週は二回訪れている場所だ。
そこは街の中心からやや離れた住宅地。比較的大きな家の立ち並ぶ地域で、目的地の家も年季が入った大きい木造一戸建てだった。古めかしい門柱には筆字で「小鳥遊」の文字。
……小鳥遊愛梨の自宅だった。
避けたつもりが自分から殺人鬼の本拠地に向かっていたなんて、ジョークにしてもタチが悪い。幸い小鳥遊の気配はないからもう登校した後のようだけれど。
「ここの人に用事?」
「ええ。まあ用事と言ってもちょっとした御挨拶ですけれど」
少女ーー弓弦ちゃんは小鳥遊家のインターホンを鳴らし、人が出てくるまでの間に手櫛で髪を整え、鏡で問題がないかチェックしている。挨拶というのは千里氏に対してだろうか。あの人も小鳥遊と同様に殺人鬼、あるいは殺し屋のような存在なのだけれど、平日の朝に果たして家にいるのだろうか。
と。
そこまで考えて始めて気付いたけれど。千里氏は殺人を生業とする異常な人間で、裏世界の住人だ。だとすれば彼に挨拶をしに来たという弓弦ちゃんも裏世界の住人なのではないか。考えたくはないけれど、この子ももしかして……。
これは早めに退散した方が良さそうだ、と僕が踵を返そうとしたその瞬間。小鳥遊家の玄関がガラガラと音を立てて開き、中から千里氏があらわれた。
「ああ、伊藤君じゃないか。愛梨ならもう出かけたよ。不死身の君を、今日こそ殺してみせると張り切ってね」
ヘラヘラ笑いながら言う千里氏。なんて間の悪いオッサンだ。というか50前の中年が平日の午前中に家で何をしているんだ。働けよ。
「不死身……? まさか貴方が?」
小さな声で呟く弓弦ちゃん。わあ嫌な予感。
「小鳥遊千里さん。大変申し訳ありませんが後ほど改めて伺わせて頂きます。緊急の用事ができてしまいました」
やばいやばいやばい。
この数日間、小鳥遊に殺されかけ続けていたせいか、僕は殺気と呼ばれるものに敏感になっていた。今、弓弦ちゃんは僕に殺気を向けている。それもかなり強く。
「じゃ、僕はこれで」
「あ、待ってください。貴方に少し聞きたいことがーー」
誰が待つかよ。