2月12日(午後)
気付くと僕は畳の床の上に、仰向けの状態で寝かされていた。無意識のうちに首筋に手をやると、カラカラに乾いた血の粉末が指先でザラついた。
「気がついた?」
襖が開く音がして、その方向に目をやると、そこには小鳥遊が立っていた。彼女はどういうわけか、薄緑色の浴衣に身を包んでいる。朝、学校で会った時にはシンプルなブラウスと赤いスカートを着ていたと思ったのだが。冬のこの時期に浴衣は寒くないのだろうか。
そう思ったが、僕の寝ていたこの部屋は随分と暖かい。暖房の設定温度がかなり高いらしく、汗ばむくらいだ。僕は着ていたコートを脱ぐ。すると首筋からパラパラと乾いた血が落ちた。
「私の部屋を汚さないでよ」
小鳥遊が不満そうにぼやく。というかここは小鳥遊の部屋だったのか。言われてみれば、少ないが家具もある。女子高生の私室がどんなものか、寡聞にして僕は知らないけれど、こんなに殺風景な和室が普通なのか?
「というか、何で僕はお前の部屋に寝かされてるんだ?」
僕の記憶が正しければ、僕はさっき目の前の少女に殺されたはずだけど。
「悪いけど、ちょっと事情があるの。伊藤君にはあって欲しい人がいるから」
そう言うと、小鳥遊は身を翻す。どうやら自分についてこいと言っているらしい。
僕は彼女の案内に従って、和室から出て廊下を歩く。小鳥遊の自宅(だろう、多分)はそれなりに年季の入った和風の一軒家であるらしい。イメージ的には田舎の祖父母が住んでいるような家か。僕の祖父母は早くに亡くなっていたらしいから実際に体験したことはないけれど。
少し歩いて廊下の角を曲がると、大部屋に着いた。襖は開け放たれており、中の様子はよく見える。
十何畳かの和室の中心に大きな座卓が置かれていて、その端に一人の男が正座をしていた。
小鳥遊の父親だろうか。年齢的には妥当だが、失礼な話、全然似ていない。小鳥遊が、女子にしては長身で黒い髪と切れ長の目が印象的な和風美人であるのに対して、父親らしき男性は中肉中背で丸顔の、いかにも特徴のない男だった。共通点といえば服装くらい。彼もまた、小鳥遊と同様に浴衣を着ていた。
男性は僕の存在に気付くと、手招きして僕を呼んだ。
「はじめまして」
男性は、これまた特徴に乏しい声で言った。
「私は小鳥遊千里、愛梨の父親だ」
やはり父親だったか。似てないけど。だとすれば僕に会う理由というのは一体。
「単刀直入に言う。愛梨と別れてくれ」
…………はい?
小鳥遊の父ーー千里氏は真剣な顔をしている。冗談の類では無さそうだけれど。
「あの、どういう事ですか? そもそも僕、小鳥遊とはそういう関係じゃーー」
「何? 違うのか」
「当たり前でしょ、誰が伊藤君となんて」
小鳥遊が話に割り込んできた。てか「伊藤君なんて」って……。
地味に傷ついたよ、僕は。
「伊藤君はただの目撃者よ。見られたから殺そうとした。それで……」
「……失敗した?」
千里氏が言う。小鳥遊は何か反論しようとしたようだが、上手い言葉が見つからなかったらしく、最終的には「……はい」と不承不承ながら頷いた。
「しかし……失敗ねえ。てっきり私は君が恋人だから殺し損ねたのだとばかり」
千里氏は目を瞑って感傷に耽っているようだった。彼の頭の中ではどんなドラマが展開していたのだろう。殺人鬼との恋愛物語とかありえないよ。
「というか、僕にもわかるように説明してくれないか。いきなり殺されて、事情もわからないってのはちょっと」
「殺されて? 殺されかけて、じゃないのかい?」
千里氏が言うので、僕は簡単に自分の体質を説明する。と言っても、自分ですらほとんどわかってないのだけど。
千里氏はずっと黙って僕の話を聞いていた。思えば、どうして僕は初対面の知らないオッサンに自分の秘密をペラペラ喋っているのだろう。8年振りに死んで復活してからというもの、僕はずっとおかしい。自分でもやけに落ち着いていると思う。曲がりなりにも僕を殺した殺人犯の、父親だというのに。
僕の話は、要領を得なく、無駄に長くなってしまったが千里氏はそれを最後まで聞いて、それから大きく息を吐いた。
「……愛梨も運がない。まさかいきなり、こんな厄介なケースに遭遇するとはね」
千里氏は殊更驚いた風でもなく、言った。まるで僕の特異体質が大したことでもないように。
「待って下さい。不死身なんですよ、もうちょっとこう……驚いたりとか」
我ながらふざけたことを言っていると思ったが、対する千里氏の話はさらにふざけたものだった。
「驚いてはいるよ。まさか一般人に紛れて君みたいなのがいるとは思わなかった。だが、君のような存在が皆無というわけじゃない。不死身ーー正確には超治癒だが、それくらいの能力者は裏世界にごまんといる」
能力者? 裏世界? 何を言ってるんだこの人は。いい年して中二病なのか?
しかし千里氏にふざけた様子はないし、小鳥遊も小鳥遊で父親の言葉に動じない。僕が話している間に用意したのか、湯飲み茶碗が三つ湯気をたてていて、小鳥遊はそのひとつに口をつけていた。
「伊藤君も飲む?」
「あ、どうも……」
勧められたので僕も湯飲みを手に取る。お茶は想像以上に渋かったが、平気な振りをして飲み込んだ。
「だいたい想像はついていると思うけど、私と愛梨も裏世界の住人だ。殺人行為を生業としている一族でね」
もう何を言われても驚かない。それこそ千里氏の言うように、裏世界とかいうワードが出てきた時点でこの展開は予想できていた。
「……つまり、それは殺し屋という意味ですか?」
僕が言うと、千里氏は大袈裟なリアクションでそれを否定した。
「殺し屋!! そんな低俗な輩と一緒にされたくはないね。私たちの殺人行為は仕事であって仕事でない。いわば芸術だ。芸術家はカネのために創作行為をするわけじゃないだろう? カネはあくまで行為の結果としてついてくるものであって、目的ではない。私たちの場合も同じさ」
随分熱のこもった演説だと思ったが、口には出さない。幸い千里氏は娘と違い、些細なことで僕を殺すようなことはなかったが、それがどこまで続くかわからない。死なないからといって、無駄に殺されるのはゴメンだ。
千里氏の演説はなおも続く。
「そして私たちの殺人行為は芸術であるがゆえに、いくつかの曲げられない流儀が存在する。一つ、殺す相手はなるべく苦しませないように、できれば即死で。一つ、死体を隠すのは遺族に悪いから禁止。一つ、殺そうとした相手を諦めるのは美学に反するから許されない」
千里氏がここまで言えば、いかに察しの悪い僕でもわかる。つまり、小鳥遊は後に引けないわけだ。僕が不死身だろうがなんだろうが、一度殺そうとした以上、それを放り出して次には進めない。だから、何度殺しても死なない僕にお手上げで、父親に相談した、と。
話はだいたい理解したけど、ねえ……。
「そっちの言い分はわかりました。でも僕を殺すのは実際問題不可能なんでしょう? なら諦めてもらえないですかね?」
「一族の流儀は絶対だ。まして愛梨は次代の《鳥辺野孤殺》を襲名する身、半端は許されない」
……また新しいキーワードが出てきた。鳥辺野孤殺って何? 人名?
僕が考えているのを無視して千里氏は勝手に話を進める。
「不死身の能力者とはいえ神じゃなし、殺す方法はあるはずだ。……愛梨、必ずその方法を探し出して、この少年を始末するんだ。大丈夫、君ならできるさ」
「わかった。必ず殺してみせるから」
小鳥遊は目に決意の炎を燃やして、強く頷いた。……って、おいおい、僕を殺す決心とかするなよ。せめて見えないところでやれ。
「まあ、そういうことだから。伊藤君……と言ったかな、うちの娘をよろしく頼むね」
そんな風に嘯く千里氏の言葉がどこまで本気なのか、僕にはまったくわからなかった。