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嘘つきにも恋心








 玄関のドアが開いた気配を感じて、ライネルは咄嗟に立ち上がった。とはいえ、彼が帰って来たふたりを出迎える素振りはない。どんな顔をしたら良いのか分からないのだ。後を追うこともしなかった兄の自分を、リサはどう思っただろうか。愛想を尽かして、秘密を打ち明けたユキと共にこの家を出て行ってしまわないだろうか。

 負の感情を奥歯で噛み潰したライネルは、深く息を吐いた。そして自分に言い聞かせる。まずはリサが家を飛び出すことになった原因……誤解を解かなくては。暖炉の炎を見つめながら、彼は自分自身を奮い立たせて腰を上げた。

 ところが。意を決して振り返ったその口からは、悲痛な声が飛び出した。


「リサ?!」



 駆け寄ったライネルに向かって、息を切らせたユキが口を開いた。


「いきなり倒れたんだ。

 ずっと体が震えてて……」

「――――すごい熱だ」


 ユキに背負われ目を閉じたリサは、苦しそうに眉間にしわを寄せている。そんな彼女の額に手を触れたライネルは、表情を硬くした。こうなったら、自分以外の男が妹に触れていることに目くじらを立てている場合じゃない。

 ライネルは、額にうっすら汗を滲ませているユキの背からリサを引き剥がして抱き上げた。そして小刻みに震える妹が浅い呼吸をくり返しているのに気づいて、背筋が寒くなる。家族を失う瞬間を経験したのは2度。その時に味わった不安や恐怖が、今また現実味を帯びて迫ってきている。

 唇を噛みしめたライネルは、息を整えて額を拭っている彼に声をかけた。


「冷たい水を用意してくれるか」




 何枚もの毛布に包まれたリサから寝息が聞こえ始めて、ライネルは静かに息を吐き出した。ひとまず命の危険はなさそうだ、と安堵した途端に手が痛み出す。布巾を冷たい水に浸して絞ったからだろうか。それとも、握りしめた手が力みすぎていたからだろうか。


「結局、話したのか」


 頬を真っ赤にして眠るリサから目を離すことなく、ライネルは言った。問いかけというよりは確認をするような口調で。

 なんとなく壁に寄り掛かって佇んでいたユキが、背を向けたままの彼へと視線を投げる。数日前には“秘密を隠し通せ”と怖い顔をしていたはずなのに、今はなんだか萎んだ風船みたいだ。どうやら妹のことになると前後不覚になるらしい。今の彼なら全然怖くない。

 ユキは、口の端に笑みが浮かびそうになるのを堪えて答えた。


「一応。

 よく分かってないかも知れませんけど」

「……どういうことだ?」


 曖昧な言葉に、ライネルが怪訝そうな顔をして振り向いた。するとユキが苦笑いして小首を傾げる。数刻前まで女性らしさを醸し出していた仕草を、真実を知ったリサが見たら何と言うだろうか。


「うーん……熱でぼーっとしてたみたいだし……。

 伝わるように話したつもりなんですけどね」


 ユキはその時のことを思い出しながら言葉を選んだ。

 打ち明けた次の瞬間に見た、口をあんぐり開けたまま動かなくなったリサの姿が脳裏に蘇る。熱のせいもあったんだろうけど……と、湧き上がる笑みを奥歯で噛み潰した。


「わかった。

 とりあえず、お前は部屋に戻っていろ」

「……あの、俺、出て行かなくていいんですか?」


 咄嗟に尋ねてしまったことを、ユキは後悔した。自分から不利な方へ話を振ってどうするんだ、と。

 ところが彼の心配とは裏腹に、ライネルは静かに首を振って言った。


「勘違いするなよ。お前のためじゃない。

 目が覚めてお前がいなくなっていたら、リサが気に病むだろ」

「そ、そうですかー……」


 妹至上主義すぎるだろ。そう言いたい気持ちを抑えて、ユキは乾いた笑みを浮かべる。すると疲れた顔をしたライネルは、手で彼を追い払う仕草をした。


「ほら、部屋に戻れ。

 ……って、そうか」


 言いかけたところで、何かを思い出したのか眉根を寄せる。何だろう、と小首を傾げたユキはそのまま言葉の続きを待った。


「今日から暖炉の前のソファに寝床を移せ。

 もう隠しておく必要はないんだし、服も着替えろ。

 俺の物を適当に持ってけ」


 もちろん頷く以外の選択肢はない。ユキは言われた通りにリサの部屋を出たのだった。






 額の上で温まった布巾を、もう一度水に浸す。ライネルは桶の中に雪の塊を入れてきてくれたユキに、こっそり感謝した。そうなのだ。彼がそれほど悪い奴ではない、ということくらい、ライネルも分かっているのだ。

 手から伝わる体温で布巾がぬるくならないよう手早く絞って、リサの額に乗せる。彼女の寝顔は帰ってきた時よりも穏やかで、ライネルは安堵の吐息を漏らした。

 とっくに日は暮れて、夜が深まっていく。それでも昼の間に日差しがあったからか、真冬の寒さはない。凍てついていたものが、ゆっくりと溶け出す季節だ。


「まったく……」


 大きな手がリサの頬を撫でる。熱のこもった肌は柔らかく、しっとりしていた。言いようもなく悪いことをしている気分になったライネルは、思わず苦笑を浮かべてしまう。何も知らずに目を閉じている妹が、ほんの少しだけ羨ましかった。でも、何も知らせないと決めたのは他ならぬ自分だ。


「こんなとこ、父さんと母さんには見せられないな」


 すると自嘲気味に口を歪めたライネルの呟きが聞こえたのだろうか。不意にリサのまつげが揺れた。

 驚いて息を飲んだ彼が、慌てて手を引っ込める。そして声をかけようかどうか、落ち着きなく視線を彷徨わせた。けれどそんな彼の迷いをバッサリと断ち切るかのように、彼女はあっさりと目を覚ました。


 天井を見上げる瞳が潤んでいる。ぼんやりしているのだろう、焦点が定まっていない。

 その様子に、ライネルの中に一度は遠のいた不安が再び膨れ上がる。彼は飛びつくようにしてリサの視界に割り込んだ。


「リサ、大丈夫か……?!」


 掠れた声と突然現れた顔に反応して、リサの視線が彼を捉える。そしてすぐに、ふにゃりと表情が溶けた。額に乗せた布巾が少しずれる。


「あ……にいさん」


 まさか夢や幻の類でも見ているのか、と言いたい気持ちになったライネルがリサの頬を撫でる。もはや罪悪感や背徳感なんてどこへやら。目が覚めた途端にヘラヘラ笑うなんて、どう考えても普通の風邪とは思えない。帰ってきたら謝ろうと思っていたというのに、それどころではなくなってしまった。


「熱で意識がやられてるんじゃないよな。

 俺の名前、言えるか?」


 すると不安そうに見下ろしてくる兄の顔を見つめ返して、リサが小さく笑った。


「ふふ。どうかな。

 忘れちゃった」


 熱っぽく潤んだ瞳で冗談を言われて、ライネルは思わず口元を手で覆って咳払いをする。すぐに頭でも小突いて笑ってみせれば良かったのかも知れないけれど、そう上手く振る舞えるほど大人ではないのだ。


「まあ、ともかく喋れるくらいに元気なら良かったよ。

 ユキに背負われて帰ってきた時は、どうなるかと……」

「そうだわ、ユキは?」


 己の動揺を誤魔化すように早口になった兄の言葉に、リサが表情を変えた。そうだ、目の前がクラクラして立っていられなくなる直前に聞いたのだ。彼女が……いや、彼が男であることを。


「ユキは今、どこにいるの?」


 一番心配していたことを、リサは素直に尋ねた。彼はまだ病み上がりなのだ。ちゃんと養生しなければ、別の町や村に移動するにしても体がもたないに決まっている。

 ライネルは悲壮感の漂う妹の額に手を伸ばすと、そっと布巾の位置を直してやった。その口元に浮かぶのは、苦笑いだ。もちろん腹の中は煮えくり返っている。熱を出してベッドの中にいる自分自身にすら構わず、心配してやるなんて。まったくもって兄の心、妹知らずである。


「……ソファで寝てるよ」


 返ってきた短い言葉を聞いて、リサは静かに目を閉じた。胸を撫で下ろすように息を吐き出して。

 なんとなく、彼が自分の前から姿を消してしまうような気がしたのだ。ずっと女性の服を着て偽っていたということは、自分が男だと知られたくないということだろうから。


「よかったぁ……」


 ライネルの口の端が、ぴくりと引き攣った。いくら悪い奴ではないと分かっていても、やはり気に入らないものは気に入らないのだ。

 彼はそっと立ち上がると、窓際に置いてあるランプの火を吹き消した。刹那、お互いの顔が闇に沈んでいく。


「今は体を休めろ。

 頼むから、これ以上心配かけないでくれ」


 もっともらしいことを囁きながら、ライネルは再び椅子に腰を下ろす。窓から差し込む月明かりに気づくほどに目が慣れた頃、リサが彼の顔を見上げて口を開いた。


「そういえば……。

 前にもこんなふうに、兄さんに看病してもらったよね……」

「そうだったか?」


 懐かしそうに目を細めたリサを見て、ライネルが首を捻る。何気なく手を伸ばした彼は、彼女の額に乗せた布巾を水に浸した。すると毛布を口元まで引き上げた彼女が、長めの瞬きを始める。


「ん……えと、子どもの頃……かなぁ……」


 布巾を絞っていたライネルの手が、びくっと震えて止まった。端から滴り落ちる水滴が、桶の中に波紋を作る。

 彼はリサの言葉に、何も返さなかった。けれど当の彼女は、相槌すら聴こえなかったことを不思議に思うこともなく目を閉じる。少し喋ったら、急に眠気がやってきたらしい。

 規則正しい寝息を聞いたライネルは、静かに布巾を桶の中に沈めた。冷たい布巾を妹の額に乗せて、彼女を起こしてしまうのは憚られる。


 一度眠ったものを起こしてしまうのは、可哀相だと思うのだ。だから、ほんの小さな子どもの頃の悪夢も、記憶の彼方に置いておいた方が良いに決まっている。

 そんなことを考えながら腰かけたライネルは、腕を組んで目を閉じた。








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