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真っ黒な嘘は、

 







 ちらつき始めた雪の中、長身の人影が駆けていく。眩しそうに目を細めて、傾きかけた日差しを掻き分けるように。柔らかくなった雪道が足を運ぶたびにシャリシャリと音を立てている。時折靴底が滑るのに苦い顔をしながらも、その視線が足元に落とされることはなかった。

 

 


 


 もう、嘘なんかついてちゃダメだ……。

 

 息を潜め堪えていたユキは意を決して起き上がると、形容しがたい表情を浮かべてドアの方を見つめているライネルに言ったのだ。「やっぱり本当のこと、ちゃんと話した方が……」と。

 隠していることがリサに知られたら置いておけない、と脅迫めいた宣言を受けたのは、ついこの間のことで。そうなると他に置いてもらえる場所があるわけでもなく、村を出て行かなくてはいけない。幸か不幸か、体の方は万全とまではいかないものの回復しているし。誰からも興味を持たれないという環境は快適で、この上なく魅力的ではあるけれど……。

 このまま兄妹関係が壊れてしまっても上手いこと立ち回れば、どちらかとは暮らせるかも知れない。特に妹のリサの同情を買うのは、簡単なことのように思える。だけど……と、ユキは内心で首を振った。やはり世話になった人間の生活を壊してまで居座ってはいけない。いろいろ不幸に見舞われたけれど、そこまで堕ちるのは嫌だ。

 

 狸寝入りしていたことを、ライネルは怒らなかった。そんなことを気にしている余裕がないのだろうか。それとも心の底から、興味を持たれていないということか。

 嬉しいような悲しいような、なんとも言えない気持ちを溜息と一緒に吐き出したユキは、ベッドの下に置いてあった靴に足を突っ込んだ。今大事なのは自分のことじゃない。飛び出して行ったリサのことと、その瞳に絶望の色を浮かべているライネルだ。兄である彼が動かないのなら、自分が彼女を探しに行くまで。

 靴の紐を結びながら、ユキはちらりとライネルの顔色を窺った。彼はユキがしようとしていることに気づいているはずなのに、苦い顔をしたまま何かを考えているようだった。





 結局家を出る瞬間まで反対も制止もされなかったということは、好きにしていい、ということ。そう自分を納得させたユキは、雪の中を走った。

 飛び出したリサが行きそうなところなんて、まったくもって見当がつかない。知っているのは唯一耳にしたことがある“アルマの店”くらいだ。長身の自分に合いそうな服を貸してくれたという、年上の女性。彼女の店の場所は、出くわした村人の何人目かが教えてくれた。しかも聞き込みは覚悟していたよりも、ずっと少ない人数で済んだ。もっと徹底的に無視されるかと思っていたのに。

 そうやって見つけた、準備中の札を掛けた店の中で料理の下ごしらえをしていたアルマは、突然やって来たユキを見ても顔色ひとつ変えなかった。それはもちろん、事実を歪めない程度にかいつまんだ事の顛末を話したあとも。なんとも大らかというか、肝の据わった女性だ。ユキの抱いた第一印象は、そんな感じだった。

 ふたりの出会いはともかくとして。アルマは、リサの行き先に心当たりはない、と眉根を寄せた。そして言葉を零した。放り投げるように。


「いつかこうなると思ってたのよねぇ」

「え……?」


 掠れて上ずった声が、ユキの口から漏れる。するとアルマは溜息混じりに言葉を繋げた。持っていたナイフを置いて、茹でたばかりなのか湯気の立つボウルから枝豆を摘んで見せる。


「来るべき時が来ただけよ。

 枝豆みたいな兄妹だから、それが遅かっただけ。

 どれだけお互いを大事に思っていたって、兄離れ妹離れは必要じゃない」

「え、えだまめ……」

「だから、わたしは良い機会なんじゃないかと思うけど。

 居候さんが新しい風を吹き込んでくれた、ってことで」

「うーん」


 アルマの手にある枝豆と棚に並ぶビールの空き瓶なんて組み合わせに郷愁を誘われたユキは、いやいやそんなこと考えてる場合じゃない、と思い直した。

 たしかに、あの兄妹は仲が良い。両親を早くに亡くしたことを差し引いても、仲の良さには目を瞠るものがあって。それに……。

 ふと感じた違和感は言葉になる前に飲み下して、ユキは小首を傾げた。


「そういうもの、でしょうか」

「……まあ、大きなお世話なのかも知れないけど。

 でも心配はしてるの。ライネルもリサも、いい年だしね。

 あ、わたしもか」


 話の最後におどけた台詞をとってつけたアルマに、ユキは曖昧な笑みを浮かべて礼を言った。そして、リサを探すために店を出たのだった。







 ぐしぐし、と服の裾で目尻を拭ったリサは、静かに息を吐き出した。目元が赤くなっているのは、西日のせいでも力加減を間違えたせいでもないらしい。

 燃えるような雪原を見つめているうちに、根が生えたように足が動かなくなっていた。そろそろ診療所に寄って、家に戻らないといけないのは分かっているのだ。でも、どうしても帰りたくなかった。病み上がりのユキに申し訳ないと思いつつも、どうしても。


「……怒ってるんだろうなぁ」


 足だけでなく、胸の中までもが重たい。息をしていても、何かが背中に圧し掛かっているんじゃないかと思うほど。丸くなりつつある背中を、冷たい風が撫でていく。頭がぼーっとする。

 生まれて初めて、親代わりの優しい兄に向かって声を荒げてしまった。その時は気持ちが昂っていたけれど、冷静になってみれば分かる。きっと間違っていたのは自分の方なのだ。


「でも、今は会いたくないし……」


 謝って、仲直りした方がいいに決まっている。頭では分かっているけれど……。

 寒さに腕を擦りながら鬱々としていると、脳裏にアルマの顔がよぎった。彼女なら、ひと晩くらい泊めてくれるに違いない。診療所でユキのことをお願いして、その足で彼女の店に向かおう。

 口からは、歯の根が合わずにぶつかる音が小刻みに零れている。リサはようやく、重くなった足を動かしたのだった。







 通りには人影がぽつりぽつりと見える程度になっていた。だんだんと濃くなっていく夜の気配に、出歩いていた村人達も家路についたのだろう。通りに面した小さな窓からランプの明かりが漏れている。そんな学校からの帰り道のような光景が、病み上がりの体に沁みる。


「えっと、とりあえず反対側を探すか」


 わざわざ声に出して呟いたユキは、不覚にも感傷的になってしまった自分を叱咤して駆けだした。




「さむ……っ」


 小走りに通りを駆けていたユキは、吹きつけてきた風に思わず身震いした。夜が近づいて、風が出てきたらしい。羽織ったショールを胸の前でぴっちり合わせて、足を速める。飛び出した彼女の上着が玄関のそばに掛けられていたのを思い出したのだ。

 早く見つけて連れて帰らないと。彼女に風邪でも引かれたら、鬼の形相をしたライネルにどんな目に遭わされるか分かったものじゃない。うすら寒いものを感じたユキは、頬を引き攣らせて辺りを見回した。これは結構、洒落にならないかも知れない。

 そんなふうに色々と不安になっていたユキの視界に、ふと飛び込んできた人影があった。すぐに分かった。リサだ。

 息を飲んだユキは、足取りも重そうに歩いてくるリサのもとに駆け寄った。



 目の前に現れた病み上がりの人間を見つめて、リサの瞳が丸くなった。何度も瞬きをくり返して、ぽかんと口が開いている。


「――――え?」


 その瞬間だけは、寒さも悲しさもどこかに吹き飛んでしまったかのようで。リサはぼんやりした頭を一生懸命に働かせながら、目の前で立ち止まったユキの顔を見上げたのだった。


「ど、して……ユキ、倒れて……」

「ごめん」


 首のぽっきり折れた、血抜きされたカモを見て失神したはずじゃ……。そう言おうとしていたリサを、ユキが遮る。

 何を謝られたのか考えるよりも先に、彼女は内心で首を捻った。ユキの口から聴こえてきたのが、風邪気味のような掠れて上ずって声じゃなく、自分よりも低いテノールの声だったから。意識を取り戻したことは喜ばしいけれど、もしや体の調子は悪化の一途を辿っているんじゃないだろうか。

 リサは自分の寒さや体のだるさを忘れて、一気にまくし立てた。


「まだ外に出ちゃダメじゃない。

 冷たい空気を吸い込んだから、声が低くなっちゃってるわ。

 帰ったら、温かいミルクにハチミツを溶かして飲まないと」


 安静にしていられない子どもを窘めるような口調で言われて、ユキの目が点になる。そして、すぐに何かを察したのか溜息が零れた。


「それは飲むけど……。

 でも違うんだ、リサ」

「はいはい、分かった分かった。

 探しに来てくれて嬉しいけど、でも無理はまだ禁物よ。

 兄さんも、あんなに執着するくらいなら止めなさいっての」

「いやあの、そうじゃなくて……」


 両腕を擦って難しい顔をしたリサの言葉に、ユキが首を振る。その表情はどこか沈痛だ。口元が引き攣ってしまって、それ以上言葉が続かない。

 そんなユキを見て、リサはゾクゾクする背中を丸めて言った。


「とりあえず帰りましょ。

 診療所に寄る前に会えて良かった」


 そう言って、リサがユキの横を通り過ぎようとした時だ。言葉を失っていたユキが、咄嗟に腕を伸ばしてリサの手首を捕まえた。


「リサ、家に帰る前に話を聞いてもらえないかな。

 そのために君のこと追いかけてきたんだ」

「話って、何の――――い、いや。聞きたくない!」


 言いかけて、リサが口を噤む。ユキの真剣な表情に、はっとしたのだ。兄のいないところで、兄との関係について何か打ち明けたいことでもあるんじゃないかと。そして同時に、素知らぬ顔で「仲良くなるならリサの方がいい」だとか言うなんて……と、胸が痛む。

 根拠のない女の勘というやつを信じ込んだリサは、思い切りユキの手を振り払おうとした。けれど、その腕はびくともしない。容赦のない力は、今まで心をこめて世話をしてきた相手だとは思えないほどだった。

 体がだるい。寒い。考えるのも面倒になってきたリサは、皮膚をぎりぎりと締め付けるユキの手を睨みつける。


「今は何も考えられないの。

 でも約束するわ。あなた達の好きにして。邪魔したりしない。

 私だって、兄さんには幸せになってもらいたいと思ってるんだから」


 本当は私が、という思いを飲み込んだリサの言葉に、ユキのこめかみに青筋が浮かぶ。それは、売り言葉に買い言葉のような、いわば条件反射のようなものだった。


「だから、人の話を聞けっつってんの!」


 低い声が噛みつくように吐き出したのを聞いて、リサの顔が凍てつく。何を言われたのかは理解しきれていないけれど、少なくとも白い雪が真っ黒に染まったかのような衝撃が走ったのだ。もちろん、返す言葉なんて見つかるはずもない。

 すると、石のように固まってしまったリサから手を離したユキが、おもむろに溜息をついた。胸にあるのは、冷静さを欠いたことへの後悔。でも、これから隠してきたことを彼女にぶちまけることだけは、後悔するつもりはない。

 ユキは、静かに口を開いた。


「黙っててゴメン。

 でも俺、男なんだよ」









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