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溶け始めた嘘

 








 木べらが乾いた音を立てて落ちた。


「――――ユキっ?!」


 悲鳴じみた声を上げたリサが、床に崩れたユキの肩を揺する。息が止まったわけではないのを確かめようと触れた彼女の頬は火を消したキッチンにいたからか、ひんやりと冷たかった。血の気を失って青白くなってしまっている。

 この家に担ぎこまれた夜のことを思い出したリサは、咄嗟に自分が着ていたカーディガンを脱いでユキの肩にかけた。何の足しにもならないかも知れないけれど、そうせずにはいられなかったのだ。そしてリサは、彼女の肩を擦りながら兄を見上げた。早くベッドに運んで、そう頼むつもりで。

 

「にいさ……」


 言いかけた、その時だった。体が勢いよく引き上げられ、驚いたリサは思わず息を飲んだ。良く分からないまま視線を這わせれば、自分の腕をライネルの手ががっしり掴んでいるのに気づく。そして、その手の力加減がおかしいことに文句を言おうとした彼女は、兄の顔を見つめたまま固まってしまった。


「離れろ」


 硬い声は、まるで冷たい壁のよう。怒っているらしい兄の態度に、リサは恐れを感じながらも悲しくなって俯いた。


「……ご……ごめんなさ……」

「ああ、いや……」


 妹の表情が翳ったところでようやく我に返ったライネルは、苦虫を噛み潰したような顔で首を振った。今まで隠してきた感情が滲み出てしまったことに気がついて、自己嫌悪に陥るばかりだ。それもこれも、目の前の厄介事のせい。あの夜から、平穏だった暮らしが乱されているのだ。


「ほら、お前じゃユキは運べないだろう?

 だからその、少し離れていなさい」


 ライネルは溜息をつきたいのを堪えながら、リサの肩をそっと撫でたのだった。





 ベッドに横になって目を閉じているユキを見るのは久しぶりだ。リサは、せっかく一緒にキッチンに立てるようになったのに、と思わずにはいられなかった。どうして倒れたのかは分からないけれど、少なくとも火を消したキッチンよりは暖炉の前に移動させた方が良かったに決まっているのだから。

 青白い顔に伏せられた睫毛が、ふるふると震えている。寒いのだろうか。リサは何枚も重ねられた毛布の中に、ユキの手を探す。


「――――冷たい。

 やだもう、これじゃ最初に逆戻りじゃない……」


 握った手の冷たさに、リサは泣きそうになった。元気になるまできっちり世話をする、と意気込んだだけに落ち込むばかりだ。

 ユキの額にかかる黒髪のひとすじを指先でよけて、リサが溜息をつく。もちろん、不甲斐ない自分に向けて。


「ごめんね、ユキ」


 そう呟いた時、木の軋む音が静かな部屋を小さく震わせた。咄嗟に視線を走らせたリサの目に飛び込んできたのは、どこか不機嫌そうな兄のライネルだ。


「あれ、お医者様は?」


 リサは小首を傾げて尋ねた。ユキをベッドに横たえたきり兄の姿が見えなかったから、村の診療所に医者を呼びに行っていたのだとばかり思っていたのだ。

 ところが妹の不思議そうな眼差しを受けても、ライネルは戸口に立ったまま表情を和らげることはない。それどころか、溜息混じりに言い放った。


「血抜きしたカモを見て気絶しただけだろ、軟弱すぎる。

 そのうち気がつくさ。医者なんか必要ない」

「そんな言い方……本当に具合が悪いのかも知れないのに」


 驚きに目を見開いたリサは、ほとんど同時に憤慨した。なんと思いやりの欠片もない兄なのか、と。そう思った瞬間に彼女の眉間にしわが寄る。兄が女性を甲斐甲斐しく世話していたら、それはそれで心がもやもやしてしまうのだけれど。なんとも複雑な妹心である。



 ライネルは複雑そうな妹の様子も意に介さずに部屋に入ってくると、その手がまだ意識が沈んだままのユキの手を取っていることに気づいて顔をしかめた。どうしてこう、人が我慢していることを易々と……そう思ったら、口が勝手に動き出す。


「手なんか握るなよ」

「……え?」


 ぽかん、と口を開けたリサが小首を傾げた。するとライネルが、しまった、とばかりに口を噤んで視線を流す。

 その様子を見て兄の言葉の意味を察知したリサの目が、みるみるうちに吊り上った。いくら兄が彼女の世話をしたいからって、自分を邪険にする必要はないだろうに。苛立たしげに震える睫毛が、うっすらと濡れている。


「わかった」

「……え?」


 妹が冷たく押し殺した声で放った言葉が耳を貫いて、指の先まで凍りつく。今度はライネルが言葉を失う番だった。

 するとリサが、握っていたユキの手をそっと毛布の中に戻すと立ち上がる。握りしめたこぶしが、白く筋張っている。


「そんなに私が気に入らないなら、兄さんが握ってあげれば」


 悔しいのか悲しいのか、それとも怒りなのか。頭の中がぐちゃぐちゃしていて、口をきつく閉じなければ何かが飛び出してしまいそうだ。顔なんて見たら、何もかもを壊してしまいそうで怖い。そう思ったリサは、床の木目を見つめながら足早に部屋から出て行こうとした。

 するとライネルの手が、すれ違う瞬間にリサの手首を掴む。パシッ、と小気味良い音が静かな部屋に響いた。

 

 まさか止められるなんて。多感な頃の兄妹喧嘩の時ですら、言いたい放題ぶつけまくった自分がアルマの家に駆け込むのを呼び止めたりしなかったのに。溢れそうになっていた負の感情がひっくり返されて、リサの目が丸くなる。


 ところがその行動に目を瞠ったのは、手を掴まれたリサだけではない。手を伸ばしたライネルもまた自分のしたことに驚き、そしてすぐに頭を悩ませた。こんなふうに引き留めた時にかけられる兄らしい言葉なんて、ひとつも思いつく気配がないのに……。

 勢いで掴んだ細い手首が軋まないように、ライネルは息を吐き出しながら体から力を抜いた。頭に血が上っていては、いらないことまで口走ってしまいそうだからだ。


「……どこに行くんだ?」

「お医者様を呼びに」


 そっと息を吐き出した兄の言葉に、リサは顔を背けて言う。いつものように穏やかに笑って機嫌を取ってくれたら、へそを曲げた妹らしく振舞えるのに。

 唇を噛んだ彼女は、兄の手を振りほどいて駈け出した。




 ライネルは、するりと抜けたリサの手を追うことはなかった。いつも子どもじみて見えるはずの妹が、急に違う顔をしたように思えたから。

 やるせない気持ちが胸の中に膨らんで、彼は振りほどかれた手を見つめて呟いた。どうしても、呟かずにはいられなかったのだ。


「なんで死んじゃったんだよ、父さん母さん……」







 寒空の下に飛び出したリサは、白い息を吐きながら村のはずれに向かって歩いていた。その足取りは重く、とてもじゃないけれど医者を呼びに行くようには見えない。

 こんな顔で診療所に行ったりしたら、何があったのか聞かれちゃう……。

 ひとの良い医者のことだ。兄ひとり妹ひとりの暮らしを心配して、いろいろと首を突っ込んでくれるに違いない。それに感謝する日もあるけれど、今はあまり触れて欲しくなかった。だから、少し風に当たって頭を冷やしたら向かうことにしたのだ。

 こういう時は、真っ白な雪に救われる気がする。何も考えずに歩け、と言われているように思えるから。


「兄さんなんか、だいっきらい……」


 子どもみたいな台詞だなぁ、と思う。思うけれど、年々膨らみつつある気持ちを吹き消すため時々呟いてきた。ちょっとした行き違いのたび、兄の目が自分以外の誰かに向けられるたびに。本人の前では絶対に言わないように気をつけながら……。

 そして今日もお馴染みの呪文を呟きながら、雪のように頭を真っ白にするのだ。


 傾き始めた陽の光が眩しい。暖炉の炎のような色が、ひどく眩しい。村のはずれから見渡す雪原は、赤く染まっている。くらくらする。

 目を細めたリサは、なんとはなしに呟いた。


「燃えてるみたい」


 火照った頬を冷たい風が撫でていく。

 膨らんだ熱を根こそぎ奪ってくれれば、それだけ早く医者を連れて家に帰ることが出来る。そういえば、薪を取りに行かないと足りないかも知れない。

 取りとめのないことを考えて、リサは静かに息を吐き出した。そして、冷たい風にあてられるまま呟いた。


「父さん、母さん、やっぱり私……」









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