嘘を着た彼女
アルマが貸してくれた服は、悪くなかった。長いスカートの裾を引き摺ることもないし、袖から手首がはみ出すこともない。他人の服の割に、ユキにぴったりだった。
自分ももう少し背が欲しかったなぁ、などと胸の内で呟きながらも、リサはユキの肩のあたりを見つめて呟いた。
「肩のあたり、きつくない?」
他の部分に比べて、肩だけがパツパツに張っているのだ。リサは、なんとなくそれが気になってしまった。ユキが纏う儚げな雰囲気と、ちぐはぐな気がして。
するとリサのひと言に、ユキが気まずそうに乾いた笑みを浮かべた。
「……あっ、ごめんね!
別に似合ってないとか、そういうんじゃなくって!」
慌てたリサが手を振って、ユキの顔を覗き込む。あきらかに取り繕った笑顔を見せた彼女は、若干体を引いて何度か頷いた。
「ええと、大丈夫。気にしないで。
もともと、こういう女の子っぽいのは似合わないから……」
リサが衝撃の場面を目にしてから数日、ユキはベッドから出て1日を過ごすことが出来るまでに回復していた。疲れやすいものの、家のちょっとしたことも手伝っている。ちなみに今はキッチンで、茹でた芋を潰しているところだ。湯気に混じって美味しそうな匂いが漂っている。
つまみ食いしたい気持ちに蓋をしつつ、リサは手を動かすユキの横顔を見つめた。
「あんまり無理しなくていいんだよ?」
「え?」
唐突な言葉を不思議に思ったユキは小首を傾げる。するとリサが、眉根を寄せて口を開いた。
「まだ喉の調子がおかしいじゃない。
暖炉のそばで洗濯物たたんでくれたら、それで十分なのに」
煮炊きするための火はもう消してしまった。水を使うキッチンは、これからどんどん冷えていくばかりのはずだ。これでまた体調を崩すようなことでもあれば、せっかく起き上がれるようになったのに……と思わずにはいられない。ユキの声は相変わらず掠れたような上ずったような、なんだか不自然な響きをしているのだ。
恨みがましそうな表情すら浮かべて、リサは溜息をついた。
「首を絞められた鶏みたいな声になっちゃっても知らないからね」
「うーん……ならないと思うけど」
「もうっ、寝てるだけの間は可愛かったのにー!」
少し考える素振りを見せたユキの言葉に、リサは目尻を釣り上げて鼻息を荒く言った。ユキがそんな彼女の姿を横目に頬を緩めていることには、まったく気づきもせず。
結局、ユキを心配したリサの言葉はうやむやにされて、彼女はホクホクした芋を潰しながら胸の内で溜息をついた。起き上がれるようになってからというもの、いつもこうだ。会話するとユキの方が一枚上手というか。こうなってしまうと、最初のか弱く儚げな雰囲気もだいぶ薄れてきていた。
声を上げて笑うことはないけれど、明らかに不機嫌になったりもしない。そんなユキは、無意識にむっすりと目元を険しくしているリサに向かって囁いた。
「ありがとう、心配してくれて。
でも本当に大丈夫」
自分よりも頭ひとつ分は背の高いユキを見上げ、リサは思わず息を飲んだ。柔らかく笑んだ瞳に見つめられて、ひとりでに鼓動が速くなっていくのが分かる。ぎこちなく頷きを返すしかなかった。“どういたしまして”程度の言葉すら、咄嗟には出てこなかったから。
アルマとは違った大人っぽさと、声が変わる頃の少年のような無邪気さ。その顔に、リサは見惚れてしまった。
ユキが小さな笑い声を零す。
艶のある黒い髪は、湯気にあてられて湿り気を帯びている。触れたら、つるりと指を滑るんだろうか。確かめてみたい。
そんなことを考えてしまった自分の頭からも湯気が出ているかも知れない、と思ったリサは、木べらをきつく握りしめて息を吸い込んだ。
「――――き、聞きたいことが、あるんだけど」
「うん、なに?」
どちらかというと笑うのを堪えているような表情を浮かべていたユキの目が、きらりと光る。彼女は小首を傾げて、無言のうちに先を促した。
リサの喉が、こくりと鳴る。
「どう思ってるの?
……に、兄さんのこと……」
――――言ってしまった。
瞬時に頭の中で蘇った兄とユキの見つめ合う姿に、リサは思わず顔をしかめてしまった。恥ずかしいとか、そういう問題じゃない。ひとつ屋根の下なのだ。とっても仲良くなるにしても、こちらにも心の準備というものがある。
差し出がましいし、相手はきっと不快に感じるに決まっている。けれど、尋ねずにはいられなかったのだ。あんな場面を見てしまってから、平静を装うのがどれだけ辛かったか。兄のライネルは何もなかったかのような振舞いをしていたけれど、ユキが順調に回復していると分かったら黙っていられなくなってしまった。要は、頭から離れないのだ。
「なんだ……ライネルさんか」
ところがリサが自分でも嫌悪なんだか羞恥なんだか判別出来ない感情を持て余す暇もなく、ただひと呼吸置いたユキがぽつりと呟いた。あっさりと、さっぱりと。
「え?」
ぽかん、と口を開けたリサを見て、ユキが溜息混じりに口を開く。そんな彼女を見て、リサの口は塞がらなくなってしまった。
「どうも何も……。
リサが思ってるようなことは、何もないんだけど」
苦笑混じりのひと言が、リサの耳をすり抜けていく。てっきり頬を赤らめて困った顔でもするのかと思っていたのだ。肩透かしを食らった感が否めない。
あんぐり口を開けたままのリサを見て、ユキは悪戯っぽく微笑んだ。
「この前のことでしょ?
あれはライネルさんのベッドに涎垂らして寝ちゃって、怒られただけ。
そもそも仲良くなるなら、リサの方がいいし」
ユキが肩を揺らして言うのを聞いていたリサは、ようやく我に返って言った。
「そ、そうなの?
兄さんと、その、そういう仲になったもんだと思って……」
「それは絶っ対、ないよ」
否定する声があまりに低く力強くて、リサの口が閉じる。うへぇ、とばかりに歪められているユキの唇を見てしまっては、追及するのは止めておいた方が良さそうだ、と思わずにはいられなかった。というか、そんな顔をされる兄は一体どう思われているんだろうか。
「そっか……なんだ、そうなんだ……」
予想を裏切る答えに安堵したのか落胆したのか分からない気持ちを抱えて、リサが呟く。彼女は握りしめていた木べらを再び動かしながら、何度も「そっか」をくり返した。隣で手伝いをしているユキのことなど、頭の中からすっぽ抜けているらしい。ぼんやりとタイル地の壁を見つめてしまっている。
ユキは何かを諦めたように肩を竦め、芋を潰し始めた。ボウルを混ぜ返せば、閉じ込められていた湯気がもわもわと立ち昇る。黒々とした横髪を耳にかけた彼女は、こっそりと笑みを浮かべた。ぼんやりと手を動かしているリサの唇が半開きなのが、どうにも可笑しくて。
「えっと、もうちょっとかなぁ」
潰して滑らかにした芋に混ぜるミルクの分量を見ようとして、リサがユキの持つカップを覗きこんでいた時だった。唐突に、リサが顔を上げた。
「あ、帰ってきた!」
その横顔を見ていたユキは、子犬みたいだなぁ、と胸の中で呟いた。飼っていた犬が玄関のドアを開ける音に反応して飛び起きていたのを思い出したのだ。あれから、どれくらいの時間が経ったんだろうか。そう思うと少し胸が痛む。
目を輝かせたリサとは対照的に無表情になったユキは、我に返って笑みを浮かべた。
「ライネルさん?」
「……だと思う。
まったくもう、こんなに早く帰ってきて……」
言葉とは裏腹に、リサの顔は緩んでいる。彼女はカップに入れておいたミルクをボウルに移し、ひたすらに木べらを動かし始めた。
それで嬉しさを隠しているつもりなんだろうか、と言いたいのを堪えたユキは口を開こうとして、そのままの姿勢で固まった。リサに気を取られている間に、ライネルがキッチンの隅に顔をのぞかせたのだ。
ライネルはふたりを見つけると険しい顔をして、大股で近づいてきた。その気配に、勢いよくリサが振り返る。
「――――あっ、兄さん。おかえりなさい」
帰ってすぐに顔を見せに来るとは思わなかったらしく、リサの顔に驚きの色が浮かんだ。するとライネルは目を見開いている彼女に向かって頬を緩めると、ひとつ頷く。
「ああ、ただいま」
ところが次の瞬間、妹に対する温かな眼差しを消した彼は無表情になってユキを見据えた。
「ここで何してる」
「ちょっと兄さん、いきなり何なの?」
咎めるような口調のリサに、ふたりは目を合わせようとはしない。それどころか、ライネルの発した温度のこもらない声にユキの顔が強張る。彼女は険しい顔をしている彼から逃げるように俯いた。
「すみません……」
質問の答えは返ってこなかったものの、ライネルは溜息をひとつ吐き出しただけでユキから視線を外す。よく考えたら、どんな言葉が返ってきても気に食わないのは変わらないのだ。それなら、これ以上言葉を重ねても意味はない。そのことに気付いただけだった。
彼は心配そうに事の成りゆきを見つめている妹の存在を思い出して、持っていたものを調理台に乗せた。凍っていないか見に行った水辺で、カモを獲ったのだ。
ところが異変が起きた。リサの歓声を聞いたユキがおもむろに顔を上げ、次の瞬間、床へと崩れ落ちたのだ。