煮込んだ嘘の味
甘くて温かいミルクティーを飲み干したユキは、ほどなくして再び眠りに堕ちた。それから数日、彼女の意識は浮き沈みをくり返している。雪にまみれて体力を奪われた人間にはよくあることだ。時折体を起こしては消化の良いものを口にして、ひたすら眠る。そうやって徐々に回復するのだ。
“私がしっかり面倒見る!”と意気込んだリサは、機織りの仕事の合間を縫って手のかかる彼女の世話を続けていた。もちろんライネルの表情は芳しくない。それでも自警団に丸投げしたくなかった。半分意地になって続けているようなものだ。
「オジヤ、ってなんだろ……?
食べたいって言われてもなぁ……そんなの聞いたことないよ」
意識のはっきりしないユキが口にした言葉の意味が、さっぱり分からない。けれど、キッチンで難しい顔をして考え込んだリサの呟きに答える者はいなかった。ライネルは雪が止んだからと言って、獲物を探しに野に出てしまっている。
まあ眠りの中にいる彼女の寝言だろう、と結論づけたリサは、当初の予定通りにポトフを作るつもりで塩漬けにしておいた肉の最後のひと塊を取り出したのだった。きっと兄のライネルは「またポトフか」と苦笑いを浮かべるだろう。
「兄さんの好きなものは、今までさんざん作ってきたんだから。
……あ、そうだ」
リサの独り言は続く。子どもの頃から、彼女はひとりになると誰にでもなく言葉を零してしまうのだ。そうやって考えをまとめている節もある。この場合はまさにそれだった。
塩漬けの肉を水に浸して、彼女は言った。
「ユキを着替えさせてあげたいなぁ。
兄さんの手を借りないといけないことがたくさんだわ。
まだお手洗いにもひとりで行けないし……」
ふらつく足取りを支えようと肩を貸したら、リサまで一緒に倒れてしまうということがあった。線の細い体つきをしている割に背の高い彼女は重たかったけれど、その時は慌てて駆けつけたライネルに起こしてもらい、事なきを得たのだ。
「顔を真っ赤にして怒ってたっけ。
何考えてるんだー、って」
重なるようにして倒れこんだふたりを見るなり顔を真っ赤にしていた兄を思い出し、リサはくすくすと笑みを零す。あまり感情を表すことに積極的でない兄が……と思うと、可笑しかった。もちろん怒号は背に冷たいものを感じるくらい怖かったけれど。
「まあでも、あれ以来なんだかんだで気にかけてくれるようになったし。
ユキが元気になるまでには、どうにか仲良くなって欲しいなぁ……」
そう呟いたリサの双眸が、次の瞬間に訝しげに細められた。その手は野菜を取り出すために麻袋に突っ込まれたままだ。
何か音が聴こえた気がしたのだ。屋根から雪でも落ちたのか。それとも気のせいか……。そんなことを思って耳を澄ませた時だった。彼女の顔が、パッと輝いた。
「――――おかえりなさい、兄さん」
しれっと顔を覗かせたリサを見て、ライネルはいつもと同じ彼女にしか分からない程度の微笑を浮かべて頷いた。
「ああ、ただいま。
野ウサギを狩ったよ。あとで捌いて、キッチンに置いておく」
「ありがと。
……って、今日は自警団の皆と一緒だったんじゃないの?」
ユキが行き倒れる原因になったものがあるかも知れないと疑った自警団が、ライネルに共に見回りに出てくれないかと頼んだのだ。それを断る理由はなかった。
道中、彼らは愚痴混じりに語っていた。流行り病だの野盗だのという話をめっきり聞かなくなって久しいというのに、と。言葉を選んでいたものの、ライネルの耳には“あの女は野盗の仲間で、頃合いを見計らって村の様子を伝えて、襲わせるつもりなんじゃないか”というふうに聴こえた。
実は彼自身も、そんな最悪の展開を否定出来ずにいる。まったく頭の痛いことだ。野盗なんてものとは、金輪際関わりたくないのだが。
「たまたま見つけたから狩って来ただけだよ……それよりも」
溜息を飲み込んだライネルは、努めて穏やかに尋ねた。
「体調はどうだろう?
順調に回復しているかな」
兄の懸念や心労にまで考えが及ばないリサは、くすくす笑って答えた。
「今朝とおんなじこと聞かないで。急かさなくても、ちゃんと元気になるわ。
まったく兄さんたら、そんなにユキのことが心配なの?」
「……いやその、まあ、な」
頭の中を埋める不安を吹き飛ばすような笑顔に救われた思いを抱くのと同時に、ライネルの心中は複雑だ。そうなんだけど、そうじゃないんだ。そう言いたいが口にすることは難しい。
曖昧な言葉を返したライネルを見たリサは、不思議そうに首を傾げたものの、すぐに気を取り直して話題を変えた。
「そういえば、誰かからユキの服を貰えないかな?
私のサイズだと、丈が合わないみたいなんだよねぇ」
「ああ、なら俺の服を――――」
「男モノの服なんて可哀相じゃない、何言ってるの兄さん」
じと、と目を細めた妹の言葉に、ライネルは咄嗟に口を閉じる。たしかに、今のは失言だったかも知れない。
リサは肩を竦めると困ったように笑っている兄に向かって、これ見よがしに溜息をついて見せたのだった。
取り出した野菜の下ごしらえをして、肉と一緒に鍋の中に放り込む。外出するなら暗くなる前に行って来い、とライネルに言われたので、急いでポトフを作っているのだ。ちなみに何を作らんとしているのか察した彼が、眉をひそめたのは言うまでもない。
「うん、これでいいかな」
ぐつぐつ煮える鍋を覗き込んで、リサが頷く。ポトフの味見も終わったし、あとは食べる前にもうひと煮込みすれば大丈夫そうだ。
結局リサは、アルマを訪ねてみることにした。彼女はいくつか年上の、リサが姉のように慕っている友人である。村に居ついて間もない頃から、兄ひとり妹ひとりの暮らしをする自分のことを気にかけてくれている優しい女性だ。
「あっ、そうだ……!」
鍋を火からおろしたリサは、蓋を手に取って声を上げた。もう何年も使い込んだ木の蓋が、少しばかり歪んでいる。
彼女はポトフに飽きたらしい兄の機嫌を直す名案だ、とばかりに笑みを浮かべたのだった。
暖炉の火が赤々と燃えているのを横目に、兄の部屋を目指す。ライネルはそろそろ着替えを取りに戻っている頃のはずだ。狩りをしたあとは獲物を捌いて、服を替えて体を洗うのが習慣だから。
兄のベッドを借りて眠っているユキを起こさないように気をつけながら、リサはそっと部屋のドアを開けた。木の軋む音が控えめに響く。
彼女は中の様子を窺うつもりで、ほんの少しの隙間から顔を覗かせる。そしてすぐに兄の横顔を見つけて、かけようとしていた言葉を思わず飲み込んだ。
自分の顔が強張るのを感じながらも、視線を逸らすことが出来ない。見たくないと思うのに、足が意思に反して動かない。ここから去るべきなのに。素知らぬ振りをして、すぐにでも家を出るべきなのに。
その時だ。密室だった部屋の違和感に気づいたらしいライネルが、ふと戸口に視線を走らせた。わずかに開いたドアの隙間から顔を覗かせているリサと目が合う。
「――――あ……」
ぽつり、とリサの唇から声が零れた。
その瞬間に、金縛りにあっていたかのような彼女の体が動く。まるで魔法が解けたように。床に縫い付けられていた足が踵を返し、外套も羽織らないまま家を飛び出した。
震える指先を擦り合わせる。よく晴れた冬の日は風が強く、寒い。けれどリサの震えは、寒さだけの所為ではなかった。実際、寒いなんて思いもしない。これっぽっちも。
頭の中をかき乱すのは、瞼の裏に焼きついてしまった兄の姿。体を起こしたユキに対する兄のあれは、まるで――――そう、まるでキスをしようとしていたように見えたのだ。