嘘の塗り直し
ぱちっ、と目が覚めた。
ずいぶんと深い眠りのなかを漂っていたような気がするのだけれど、はて、どうやって自分のベッドまで歩いてきたのだろうか……。
むくりと起き上ったリサは、そんなことを考えながら昨夜のことを思い出そうとした。たしか、夜遅くに村の人が訪ねてきて。兄が出かけて行って。戻ったと思いきや、肩に担いでいたのは――――。
「あぁっ!」
ドタドタという足音が響く。ここに兄のライネルがいれば、きっと彼はものすごく苦い顔をしてリサに小言を零していたに違いない。いや、「俺は暖炉の前で眠るから、毛布を置いておいてくれ」と言って聞かなかった兄の姿が見当たらなくて慌てているのだ。
リサが向かったのは兄の部屋。ベッドに寝かされているのは、昨夜行き倒れていたという女性だ。頭の中にあるのは、ある心配。兄のライネルが“介抱にかこつけて同じベッドに潜り込んでいる”なんていう、男としてそこそこ最低な行動に出ていないか。
何年か兄ひとり妹ひとりで暮らしてきて、今のところ兄に“いいひと”がいないのは知っている。そのへんは何気なく見守ってきたつもりだ。男に興味があるなら、それでも家族として受け止める覚悟も出来たところだというのに。
「は~……」
彼女はドアの前で立ち止まると、祈るような気持ちで深呼吸をひとつ。そしてドアノブに手をかけた。けれど、そのまま勢いよく開けたいところを思い止まる。ノックなしで部屋に入るのは同性といえど問題があるような気がするのだ。中にいる人の意識がなくても。
思い直して頷いたリサの手が、ドアを軽く叩いた。平静を装って。
少し待ったけれども、返事はない。
「じゃあ、その、勝手に入らせてもらいまーす……」
そっと開けたドアから部屋の中を覗き込んだリサは、息を殺して様子を窺った。何も声がかからないということは、まだ眠っているのだろう。
肩から力を抜いた彼女が、なるべく音を立てないようにベッドに近づく。穏やかな寝息が聴こえてくる。どうやら悪化はしていないらしい。
「よかった、顔色もいいみたい」
ほっと息を吐き出したリサは、横たわる彼女の額に手を伸ばした。冷たくも熱くもない。体温も戻ったようだ。
頬を緩めてカーテンを開けると、降り積もった雪がキラキラと日の光を反射して眩しい。思わず目を細めたリサは、窓の外に兄の後ろ姿を見つけて笑みを浮かべた。
ライネルが立っているのは薪置き場だ。きっと暖炉の前で眠ったから薪を使い切ってしまったんだろう。そう思ったリサが、手伝いに行こうと踵を返した時だった。
「――――ん……」
掠れた吐息混じりの声が聴こえて、リサは息を飲んだ。思わずベッドに駆け寄って、横たわる彼女の顔を覗き込む。
「だい、じょうぶ……?」
わけもなく緊張した面持ちになったリサが声をかけると、彼女の眉間にしわが寄る。自分の声が耳に届いていると思ったリサは、じっと彼女の瞼を見つめた。
すると間もなく彼女の睫毛がふるふる震えて、ゆっくりと瞼が持ち上がった。
髪と同じで真っ黒かと思ったけど、よく見たら少し茶色がかってるんだな。目が合った瞬間にリサが思ったのは、そんなことだった。
ぼんやりする彼女の瞳に光が宿るのを見つめていたリサは、暗い色の瞳に見入ってしまっている自分に気づいた。いけないいけない。ちゃんと介抱してあげないと。そう我に返って、口を開く。
「あ、あの、あなた雪のなか倒れてたのよ。
たぶんまだ動けないと思うから、お水を持ってくるね。飲める?」
簡単な説明をすれば、まだ混乱しているであろう彼女がわずかに頷いた。それを見たリサの頬に、やわらかな笑みが浮かんだ。
背中にクッションを挟むようにして体を起こした彼女は、リサの持ってきた水をこくこくと飲み干した。あまりに美味しそうに喉を鳴らして飲む姿が、ほんの少し兄のライネルに似ている気がして可笑しかったのは秘密だ。
「どこか痛まない?
何かあったら、すぐにお医者さまを呼ぶからね」
「……だ、だい……けほっ……」
カップと一緒に言葉をリサに返そうとしたところで、彼女が咳き込む。ずいぶんと低くて掠れた声だ。
「落ち着いて、深呼吸して」
女の子なのに。きっと相当体が参っちゃってるんだわ……と同情したリサは、咄嗟にベッドに腰掛けて彼女の背中をさすってやった。丸めた背中の感触が、女の子の割に硬い気がする。まさかどこかから逃げてきて、食事を満足に摂れていないなんてことは……。
頭の中をぐるぐると不幸な想像が駆け巡る。鼓動がドキドキ打ちつけているのが分かる。リサは彼女の咳が落ち着いてきたところで耐えられなくなって、わざと明るい声で言った。
「あっ、そういえば私たち、お互いの名前も知らなかったわよね!」
呼吸を整えていた彼女の視線が、ちらりとリサに向けられる。その目尻に浮かんだ涙を見て見ぬふりで、リサはにっこりほほ笑んだ。
「私はリサ。あなたを助けたのは、実は兄さんなんだけど……。
まあそれは後でもいいよね!
あなたの名前も教えて。女同士、仲良くしましょ」
その勢いに圧倒されたのか、彼女の頬がぴくりと引き攣る。もしかして初対面にしては馴れ馴れしかったのかと思ったリサは、「ああええと、あなたさえ良ければの話なんだけど」と付け足した。
なんとも形容しがたい表情を浮かべていた彼女は、掠れた声を懸命に絞り出して答えた。
「ユキ、です」
はにかみながら名乗ってくれたユキに、リサは満面の笑みを返したのだった。
ミルクと甘いハチミツの香りが漂うキッチンから鼻歌が聴こえてくる。両手に抱えた薪を暖炉の脇に置いたライネルは、怪訝そうに首を傾げながら料理をしている妹に近づいた。
「どうかしたのか?」
「あ、おかえり兄さん。薪ありがとうね。
ミルクティーを作ってるんだ。いきなり食べたらお腹がびっくりするから。
飲んでる間にポトフでも作ろうかと思うんだけど、それでいいよね?」
なんだか思っていたのと違う答えが返ってきたことに、ライネルはますます首を捻った。妹のリサと会話をすると、よく主語が抜けることがある。他の女との会話がこんな具合では困るところだが、妹となれば別だ。長い付き合いの末、会話のキャッチボールの仕方も習得済みだ。こういう時は感情のまま一気に問い詰めると怒らせてしまうので、1問1答方式が適していることも知っている。
ぷつぷつと気泡が浮かび始めたミルクに茶葉を入れている妹は、自分を少しも見ようとしない。もともと、ひとつのことしか出来ない人間なのだ。同時にふたつのことに手を出すと、どちらも失敗する。この場合だったら熱いミルクの入った小鍋をひっくり返してしまうに違いない。
ライネルは言葉を選んで、静かに尋ねた。
「ごめんリサ、よく分からないんだが……。
そのミルクティーは、お前が飲むのかい?」
何気なさを装った質問に、リサがようやく振り向いた。ライネルの顔を見つめた彼女の視線が、あさっての方向へと投げられる。
「え?
……あ、そっか。まだ言ってなかったっけ」
何かを思い出したらしいリサが、嬉しそうに笑みを浮かべた。
「あの子、目が覚めたのよ。
ユキっていうんだけど、あんまり記憶がはっきりしないみたい。
でも仲良くなれそうだから、兄さんは心配しないでね」
私に任せといて、と自信に溢れる顔で茶こしを探すリサをよそに、ライネルの顔がしかめられる。
「心配って……あのなぁ。
いつまで置いとくんだ」
「兄さんが助けたんでしょ? なら、ちゃんと責任持たないと!
せめて体力が戻って歩けるようになるまでは、うちに置いてあげようよ」
リサの言葉も、ごもっともである。けれど、とライネルは思い直した。
「生憎、俺はお前に対する責任で手がいっぱいなんだ。
そもそも自警団の連中に報告する義務があるんだぞ。
これからどうするのかは、彼らが決めることだろう」
「それは……そうだけど」
言葉に詰まったリサが俯いたところで、ライネルは言い過ぎたかと後悔した。妹のご機嫌を損ねるのは、彼の心の平穏のためにも良くないらしい。
ライネルはリサの頭をそっと撫でると、静かに言った。
「まあ、あれだ。
お前の気持ちも分かる。心優しい妹を誇りに思うよ。
だけど、こればっかりは……」
思っていたよりも穏やかな声が出て、ライネルは自分に驚いてしまった。突然起きたことに、少しばかり神経を尖らせすぎていたのかも知れない。
彼は内心で溜息をついた。
すると、黙っていたリサが顔を上げてカップに手を伸ばす。
「じゃあ、自警団のみんなが決めるまで。
それまでは、出来る限りのお世話をするわね。
女同士じゃないと分からないこともあることだし」
「え?」
ふっきれた様子の妹を前にして、ライネルは瞬きを繰り返すばかりだ。もしや、自分が演技力に騙されたんだろうかと心配になる。
そんな兄のことを一瞥することもなく、リサはミルクティーにハチミツを入れながら頬を膨らませた。
「だって、自警団は男ばっかりじゃない。
いつも奥さんたちが言ってるよ。男は気が利かないって。
それじゃユキが可哀相だもん。頼れる身寄りもないみたいだし」
ぶつぶつと言葉を紡ぐリサを見て、ライネルは苦笑混じりに頷くしかなかった。結局のところ、可愛い妹には甘いのだ。