真っ黒な嘘
「……ちょっ、兄さん?!」
両手に毛布を抱え、背中でドアを開けたリサは振り返るなり悲鳴混じりの声を上げた。
それもそのはずだ。まさか自分の兄が、いくら急を要するとはいえ意識を失っている女性を着替えさせるなんて思ってもみなかったから。信じられない。でもこれは現実だ。暖炉の前に放られた濡れた服が少女の着ていたものでなかったら、一体誰のものだというのか。
ありえないことを仕出かした兄を穴があくんじゃないかというほどに見つめた彼女は、鼻の穴を膨らませて大股で近づいた。
すると兄のライネルが、彼女が何かを言おうとしている気配に気づいて口を開く。頬に浮かんでしまった気まずさは、どうにも消せそうになかった。
「体の震えが止まらないから、仕方なく……。
リサが着替えを先に持ってきてくれたから助かったよ」
そんなことを言われて嫌な気分になるリサではない。大好きな兄に褒められた気がした彼女は、開きかけていた口を渋々閉じた。「まったくもう……」という溜息混じりの呟きが、炎が暖炉で爆ぜる音に飲み込まれる。
……ひとまずこれ以上は責められないだろう。そう胸の内でこっそり胸を撫で下ろしたライネルは無意識に逸らしていた視線を戻し、妹の持っていた毛布を受け取った。
「きれいな髪……」
泥のように眠っている少女を見つめて、リサはぽつりと呟いた。
黒髪が艶やかなのは、まだ濡れているからだろうか。吸い込まれそうな夜空よりも、ずっと深い黒。いくらか色の戻った頬は、白ではなくカスタードクリームを薄くしたような美味しそうな色をしている。目が覚めたら、ひと舐めさせてもらいたいくらいだ。
行き倒れていた女の子を相手にこんなことを思うほど食い意地が張っているなんて……と自分にガッカリしながらも、彼女はついさっきまで交わされていた兄との会話を思い出して口を尖らせた。
「まったくもう、兄さんったら……」
詰りたい相手は今、自警団の詰め所に行っている。行き倒れていた人間を発見して連れ戻ったことを知らせるためだ。
とはいえ、ライネルは自警団に所属しているわけではない。普段の彼は山や野で狩りをして、鹿や猪の肉を商店に売ることで兄妹の慎ましい暮らしを支えている、いわゆる狩人である。そんな事情もあって、野山を知り尽くしている彼に手を貸してくれるよう話が回ってきたというわけなのだが。
「それにしても、この人もこの人よね。
こんな夜中に村の外に出るなんて、行き倒れるに決まってるじゃない」
兄から村の外の恐ろしさを聞かされているリサにとっては、とてもじゃないが理解出来ないことだ。雪の降り始めとはいえ、とても寒い夜に軽装で。しかも身を守るための装備が一切ないじゃないか。そんな状態で、かがり火を焚いて獣たちから守られている村の外に出るなんて……自殺行為でなければ何なのか。
呆れ半分で溜息をついたリサは苦しげに眉根を寄せている少女の手を握り、さすってやる。体温は戻すことが出来ても、毛布に包まっただけじゃ心は休まらないだろうから。心の底から呆れはするが、だからといって見放せるほど冷たくはないのだ。そういうところは、兄妹でよく似ているかも知れない。
ライネルが言うところのお人好しであるリサは、欠伸を噛み殺して囁いた。
「まあでも、もう大丈夫だからね。
冬の間の食糧も十分あるし、ひと冬ゆっくりしていけばいいわ。
ちゃんと休んで、元気になって」
夜が明けようとしている。夜半に降り始めた雪は、いつの間にか止んでいたらしい。うっすらと降り積もった雪が、段々と白い輝きを放ち始めた。獣達が鳴き交わしているのが遠くに聴こえる。
彼女が助かって良かった。そんなことをおぼろげに思いながら、リサは目を閉じた。古くなった椅子が、ぎしりと軋んだ。
ふと意識が戻って、反射的に瞼が持ち上がる。ついさっきまで何か夢を見ていたと思うのに、それは目の前の世界にかき消されてしまう。
何か苦しい夢だったのだろうか。詰まっていたものを吐き出すように息をすると、呼吸が楽になった。けれど急に体の中を何かが巡ったせいで頭がクラクラして仕方ない。
う、と呻くように息を止める。ぎゅっと瞼を閉じて、そして開けた。
天井がある。それから、壁。体は重くて動かない。だから視線を走らせた。理解できたのは、ログハウスのような造りの部屋に寝かされているということ。それから自分の手のひらが、ひとまわり小さな手を握っていることだ。
その温もりに思わず目を細めて、自然と手の主を探した。そして椅子に腰かけたまま頭を垂れて眠りこけているのを見つけて、また目を細める。
瞼がゆっくりと落ちてきた。眠くないのに、意識が引きずり込まれるのが分かる。けれど恐怖は感じない。触れた部分から体温が伝わってくる。
不思議と安らいだ気分で、暗闇に身をゆだねたのだった。
「ごめんリサ、遅くな――――」
そっとドアを開けたライネルは、目の前の光景に言葉を失った。それはほんの少しだけ、衝撃的だったのだ。
椅子に腰かけた妹がしおれた花のように頭を垂れて、ぐらぐら揺れながら眠りこけていたのだから。それも、行き倒れて気を失っている人間の手を握ったまま。
小さな溜息をついたライネルは、足音を立てないようにしてリサに近づいた。起こさないようにしてやるのは、やはり兄としての優しさなのだろう。結局ほぼ徹夜で付き合わせてしまったのだから、申し訳ない気持ちも加わっているのかも知れない。
「器用なことだ」
苦笑混じりに呟いたライネルが、繋がれている手をそっと離す。ふたつの手のひらから同じ温度を感じて、なんだか言いようのない気持ちが湧きあがった。
「まったく。俺を差し置いて……」
思わず突いて出た言葉の続きを飲み込んだライネルは、手を離した途端にぐにゃりと傾いだリサの体を抱き上げる。こんなことは、いつ以来だろうか。
「小言はまた後日改めて、だな」
久しぶりに妹をベッドに運んでやることになった兄の頬には、ちょっとばかり疲れの色の滲んだ笑みが浮かんでいた。