嘘が嘘を溶かす
「そういえば、もう雪の時期は過ぎたかな」
テーブルに食器を並べていた手を止めて、リサは小首を傾げた。そして、ここ数日で小鳥の囀りを聞くようになったのを思い出す。
「んー……降ったとしても、ちらつく程度かな。
小鳥のつがいが巣を探し始めたら、もう春だって言うし」
「ふぅん……そっかぁ……」
ぐつぐつ煮えている鍋から、もくもくと湯気が上がる。中身はこの間ライネルが獲った、カモの肉の煮込みだ。
鴨南蛮は好きだ。渋いとかなんとか言われつつも、割と子どものころから好きだ。けれど今夜ばかりは、その匂いに包まれてもユキは幸せな気持ちになれそうになかった。昼食に近い朝食のあとの薪割りに精を出したおかげで、胃の中はからっぽのはずなのに。
唐突といえば唐突な質問もさして気にしなかったらしいリサは、手を止めることなく食事の準備をしている。
夕方に戻ると言っていたライネルは、まだ帰って来ない。でもユキは分かっていた。兄はもうそろそろ戻る。「これ以上リサの顔を暗くしたくなかったら、夕飯は一緒に食べないとダメですよ」と釘をさしたのは、他でもない自分なのだ。
ユキは何気なさを装いつつ、言葉を吐きだした。
「じゃあ、もう大丈夫かな。村の外に出ても」
刹那、リサの動きが止まった。食器棚から取り出したスプーンを手に振り向くと、ユキの顔を瞬きもせずに凝視する。
鍋底から上がる気泡の数が、少しずつ減っていく。
「え?」
思いもよらない言葉はリサを動揺させた。彼は今、村の外に出る、と言ったのか。この家から出て行くと言ったのか。
力の抜けた手からスプーンが落ちそうになって、慌てて握り直す。心臓の音がますます大きくなる。彼女のわなわな震える唇から、掠れた声が零れた。
「でもまだ……」
「もう春だって、リサが言ったのに」
上手く言葉を選べずに口ごもるリサを見て、ユキが苦笑交じりに言う。
彼女は慌てて彼に詰め寄った。呆れられたのか咎められたのか、そんなことはどうでもいい。
つい口を滑らせた自分が悪いのだけど、兄と目を合わせることが出来なくてどうしたらいいか分からないのだ。だから昨夜のことを兄が気にしているのかどうかも、さっぱり。今朝もユキが一緒にいてくれて、どれだけ心強かったことか……。いや、そもそも自分の気にしすぎだと分かってはいるけれども。
「もう少し居てくれないかな?!
わ、私もまだ病み上がりだし、居てくれたら安心なんだけど!」
「いや、それを言われると心苦しいんだけどさ……。
でも元気になったのに居座るのは、もっと心苦しいし」
スプーン片手に詰め寄られて、ユキの頬が引き攣る。そんなに必死に説得されると、悩ましげにしていた兄ライネルが可哀相に思えてくるから不思議だ。
懇願でもするかのようなリサを目の前にしたユキは、さてどうしたものか、と考えを巡らせる。
その時だ。小さな物音が耳に引っ掛かった気がして、ユキは視線を投げた。もしかして、ライネルが戻ったのだろうか。
雪解けの時期は雪崩れが起こるかも知れないし、お腹を空かせた熊の親子に出会ってしまうかも知れないし……とかなんとか話しかけてくるリサの言葉は聞いている振りをして、彼は耳をそばだてた。やっぱり、人の気配がする。迷っているのか、近づいてくる様子はないけれど。
目の前で必死に言葉を繋ぐ彼女は、自分のことで頭がいっぱいなのだろう。兄が戻って来たかも知れないとは、思いもしないようだ。
一緒に食事をすればお互いの気まずさも、それとなく消えるかと思っていた。実体験から、兄と妹なんてそんなものだろうと思っていた。けれど甘かったようだ。自分が出て行くことを伝えれば、それがキッカケになるかも知れないだなんて。
思っていたのと違う展開になりそうだ、とユキは胸の中で呟いた。
音を立てないように家の中に入ったライネルは、じっと聞き耳を立てていた。何と言いながら入っていけばいいか分からず踏ん切りがつかないでいるところに、話し声が聴こえてきたのだ。
声は男女のものだった。ユキとリサだ。
「じゃ、じゃあ、隣の……で……までの間だけでも……」
「うーん……」
リサの言葉に、ユキが困ったように唸っている。
ハッキリと言葉のひとつひとつまで聞こえないのがもどかしい。何の話をしているのだろう。ライネルは訝しげに眉根を寄せると、食堂のほんの少し手前まで近づいた。
すると今度は、焦ったようなリサの声が漏れ聞こえてきた。
「――――ちょっと?!」
非難の色を含んだ声だ。それに妹が大きい声を出すのを控えているような雰囲気を感じ取ったライネルは、それまでの自分の気持ちなど忘れて飛び出した。
ほかほかと湯気の昇る鍋を囲む食卓の前にあったのは、背を向けたリサ。そして、その背を包むように回された若い男の腕だった。
その光景が目に入った瞬間、ライネルは全身の血が沸騰したかのような感覚に陥った。熱くてドロドロした何かが自分の中で暴れて、皮膚を喰い破って出てくるようにも思えた。
背を向けているリサは、まだ兄がそこにいることに気づいてはいないらしい。困惑しながらも、もぞもぞと腕の中から抜け出そうとしている。
「え、そ、それは……っ」
何かを囁かれたリサが言葉に詰まった様子で動きを止める。
言葉にならない怒りに飲み込まれたライネルは、ユキの腕を思い切り引き剥がした。すると解放されたリサの目が、ようやく兄の姿を捉える。
「にっ……兄さん……?!」
困惑から驚愕へと表情を変えたリサを視界の隅に置きながら、ライネルはユキを思い切り投げ飛ばした。咄嗟に頭を庇ったユキは、ガタガタと椅子やテーブルにぶつかりながら床の上を転がっていく。
「あたた……」
突然のことに驚いて声が出ないらしいリサが、口元を覆って目を見開く。そんな彼女を自分の背に隠したライネルは、呻くように声を零して床の上に座り込んだユキに向かって口を開いた。
「リサに触れるな」
ユキは軽く頭を振って立ち上がると、「……さてと。それじゃあ俺は、朝までアルマさんの店に居させてもらおうかな」と言って出て行ってしまった。ライネルに言い訳も謝罪もしないで、ふらりと。
急に引き寄せられて息が止まりそうになったけれど、リサは気づいていた。ユキのあれは、演技だったのだと。どういうつもりだったのかは分からない。でも、きっと何か考えがあってのことだったのだと思う。
その彼が囁いた言葉が、リサの頭の中で何度も何度も響いている。“嘘ついてやり過ごしたって、いつかはダメになるんだ。少なくとも俺はそうだった。”
……そうかも知れない。嘘をついていること、その理由を話したあとのユキは、ずっと持っていた重い荷物を下ろした人のようだった。
私もそんなふうに、もう楽になってしまいたい……。
「――――兄さん」
息を吐きながら怒りに震える大きな背中を見つめていたリサは、そっと手を伸ばした。妹の手のひらから伝わる体温を感じて、ライネルの背がぴくりと揺れる。
そして一瞬体を強張らせた彼が振り向こうとするのと同時に、彼女は小さな声で言った。
「振り向かないで!
そのまま聞いて……」
ライネルは息を飲み視線を彷徨わせた。振り向くな、と言われたことにではなく、聞いて、と言われたことにである。
何の話を聞かされるんだろうか。まさかユキとの間に何かあったのか……。悪い予感が彼の頭の中を行ったり来たりする。
目も合わせずに出て行ったユキを呼び止め、詰問すれば良かった。今になってそう思うものの、我を忘れてしまいそうで出来なかったのだ。めちゃくちゃに殴り潰してしまわなかっただけでも、よく我慢したと思う。
背中に当てた手のひらに、兄の速くなった鼓動が伝わってくる。返事はなかったけれど、振り向く気配もない。リサは静かに口を開いた。
「こんな時に言うのも変かも知れないけど、私、兄さんに謝りたくて……」
「ユキとのことか」
きっと良くない話なのだ。“謝る”と聞いたライネルは、どうやっても絶望に掠れた声を誤魔化すことが出来なかった。
リサが声音を落として呟く。
「……ユキ?
ユキは全然関係ないわ」
「関係ない?
ユキといい仲になったのを黙っていたから……とかじゃないのか?」
今度はライネルが訝しげにする番だった。床に転がったスプーンを見つめて、彼は苦虫を噛み潰したような顔をする。
するとリサが間髪入れずに兄の背中を叩いた。
「そんなことあるわけないじゃない!
どうしてそんなこと……!」
鈍い痛みは、背中から胸に重く響く。予想が外れたことに安堵して、ライネルはつくづく駄目な兄だと自嘲した。
その時だ。リサの手が、一度は強く叩いた兄の背中にそっと触れる。そして彼女は祈るように声を振り絞った。
「夜中の話を聞いて、いろいろ考えて。謝らなくちゃと思ってたの。
私は兄さんの望む通りには……たぶん結婚は無理」
「え……?」
ユキとのことを思い切り否定されて安堵したのも束の間、突然、夜中に交わした会話のことを話題に出されて戸惑ってしまう。ライネルは思わず聞き返してしまった。
するとリサが目をぎゅっと閉じて吐き出した。
「だって私、誰のことも、そういう目で見られないんだもの。
兄さんよりも大切に思える人が見つからないの。大好きなの……!」
少年の頃には、それは太陽の光のように降り注ぐ言葉だった。自分のあとを追いかけてまわる小さな女の子が、ことあるごとに口にしていた。
疎ましく思ったこともあった。けれど、いつからか言われなくなって。そして、自分がその言葉を待ち望んでいることに気づいてしまって。
「……お前……」
ずっと頼れる兄でいようと意識してきたライネルの顔が、真っ赤に染まった。心臓の音がめちゃくちゃに響いて、感情をかき乱す。乱れた感情は、いとも簡単に彼の決意をひっくり返した。
くるりと体の向きを変えた彼が、同じように真っ赤になっている妹を見下ろす。するとリサが、彼よりも早く口を開いた。
「ごめんなさい」
後悔や恥ずかしさが、瞼にたまって揺れている。リサはそれを指で拭って俯くと、自分に言い聞かせた。自分が兄と一緒に暮らしていたら、優しい兄は一生独り身で終わってしまう。だから、今はっきり拒絶された方が大好きな兄のためになるのだ、と。
「……もう、取り消しはきかないからな」
ところが降ってきた言葉は、リサが思っていたのとは大きく違うものだった。てっきり“気持ち悪い”くらいのことを言われるかと思っていたのに……。
思わず顔を上げれば、困ったような笑みを浮かべた兄が小さく溜息をつく。
ライネルは彼女の頭を撫でると、静かに言った。
「実は俺も、お前に謝らなくちゃいけないことがあるんだ。
今までずっと、嘘をついてた」
「え……?」
ライネルは信じられないものを見るような表情のリサの手を引いて、自分の部屋に向かったのだった。