寝かせた嘘の食べごろは
足音が遠ざかっていく気配を感じて、ユキはゆっくりと詰めていた息を吐き出した。夜中に用を足しに行っただけで、別に隠れる必要はなかったはずなのに。
……あの話のせいか。
思い当たったのは昼間リサの口から飛び出した話だ。
自分が思いのほか動揺していることに気づかされたユキは、天を仰ぎたい気持ちで壁に背を預ける。そして聴こえてしまった会話を耳から追い出すために、そっと首を振った。そんなことをしても無駄だとは分かっているけれど。
日が昇ってずいぶん経つ頃に起き出したユキは、まだ眠い目を擦りながらキッチンを覗いてギョッとした。腕まくりをしたリサが、料理をしていたのだ。
言葉を失った彼が立ち尽くしていると、リサがその気配に気づいて振り向いた。
「ユキ!
おはよう!」
「お……おはよう」
ぱっと輝くような笑顔を向けられて、それに押されるようにして挨拶を返す。たしか彼女は病人なんじゃなかったか。一瞬、自分が長い夢でも見ていたのかと錯覚したユキは、慌てて口を開いた。
「熱は? もう平気なの?」
「うん、大丈夫。
あっ、まだちょっと眠いけど……でもそれは寝過ぎたからだと思うわ」
困ったように笑って肩を竦めたリサが、卵を割ってフライパンに落とす。
なんと分かりやすい嘘だろう。彼女の目の下には線が一本入っているし、瞼も腫れぼったく見える。彼女が自分と同じように寝不足なのだと知って、ユキは苦笑してしまった。ジュワ、と小気味良い音に腹の虫も笑っている。
その時だ。
「――――リサ」
キッチンに顔を覗かせたライネルの顔を見て、ユキは顔を強張らせた。
なんというか、覇気がないのだ。病人になったのかと思うくらいに。もしかしたら寝不足なのかも知れないけれど、だとしても元気がなさすぎる。いつものようにリサと談笑しているところに割って入って威嚇する......そんな気力もないのか。
いや、邪魔な気持ちが一周して存在をまるごと無視されているだけなのかも。そう思ったユキは、ひとまず兄妹のやり取りを見守ることにした。触らぬなんとやらである。
「なあに、兄さん」
リサが焼ける卵を見つめながら答えた。口元に笑みを乗せた彼女の声は明るい、けれど。ちらりとも視線を投げる気配がない。
こっちもこっちで、不自然だ。仲良し枝豆兄妹、という表現したのは飲み屋のアルマだったか。
「あ、兄さんも何か食べたくなった?
パンとスープと目玉焼きならユキのも作ってるから一緒に……」
「いや、少し出かけてくるよ。夕方には戻る」
「そうなんだ……いってらっしゃい。気をつけてね」
穏やかな言葉の割にどこかよそよそしい会話を聴きながら、ユキの視線がふたりの間を行ったり来たりする。そして、ふたりの表情を窺いながら考えを巡らせた彼が思い当たったことはひとつ。昨夜、偶然出くわした出来事だ。けれどそれをリサが引き摺るならともかく、ライネルも同じような顔をしているのが不思議でならない。
ユキは思わず首を捻ってしまいそうになりながらも、空気となるべく息を殺して佇んでいた。すると、ふいにライネルの視線が彼に向けられる。
「ユキ、頼みたいことがあるんだが」
「……っ、はい」
自分のことなど視界にも入っていないだろうと思い込んでいたユキの心臓が飛び跳ねる。声が裏返ってしまった。
けれどライネルは特に気にするふうもなく、ユキに言う。
「悪いな、薪を割ってもらえるか」
「え、あ、はい」
ユキは驚き、戸惑ってしまった。ライネルの口から“悪いな”なんて聞いたのは、たぶん初めてのことで。だから言い忘れてしまったのかも知れない。雰囲気に気圧されて頷いたけど薪割りなんてしたことないんです……と。
リサの用意してくれた遅めの朝食を胃に収めたユキは、ライネルに言われた通りに家の裏にまわることにした。先に出て待っていると言った彼は、すでに薪を割っているらしい。カコーン、と景気の良い音が響いている。
ライネルの姿を見つけて近づいたユキは、積み上げられた薪を見て申し訳なさそうに口を開いた。
「言いそびれちゃったんだけど……俺、薪割りしたことないです」
「問題ない。コツを覚えれば誰でも出来る」
顔色を窺うユキを見遣ったライネルが頷いた。ユキがやったこともないのに引き受けてしまったことに関しては、さほど気にならなかったらしい。
だから気が抜けてしまったのだろう。お前それでも男か、とひと睨みくらいもらうかと思っていたユキの心の声が零れてしまった。
「……ライネルさんが変だ……」
「悪かったな」
失言を自覚したユキが慌てて口を噤んだところで、さすがに聞き流せなかったらしいライネルが鼻で笑う。けれど次の瞬間ライネルは我に返ったのか、嘲笑の滲んだ口元を一文字に結んでしまった。
……やっぱりいつもと違う。
漠然とそう思ったユキは、転がった薪を拾おうと手を伸ばすライネルに声をかけた。
「何かあったんですか?」
……リサと。
さすがにそれは聞けなかった。あからさますぎる。昨夜の兄妹の会話を立ち聞きしてしまったことが知られてしまうだろうし。
ところが力の限りに何気なさを装って尋ねた言葉が、ライネルの伸ばした手を止めた。
「――――別に何も」
……嘘付け。
心の中で言い放ったユキは小さな溜息をついて、考えた。
リサに身の上話をしてずいぶんと心が軽くなったし、床に伏している間も甲斐甲斐しく世話してくれたのだ。ライネルの態度がおかしい理由が分かれば、少しはリサに恩返しが出来るかも知れない。それに昨夜の立ち聞きで湧き上がった罪悪感が薄らぐかも、と。
多少の野次馬根性は気のせいだ、と自分に言い聞かせたユキは、視線を合わせようとしないライネルを見据えて口を開いた。
「ライネルさんの元気がないって、リサも心配してましたよ」
「そうかな」
「そりゃ、たったふたりの兄妹だし。
良いコですよね、リサ。うちの妹と交換したいくらい」
「お前、妹がいるのか?」
その言葉は聞き捨てならなかったらしく、ライネルが食い付いた。するとユキは溜息をついて頷く。
「2つ下の妹がひとり。でもリサとは大違いですよ。
兄を下僕か何かと勘違いしてるような、しょーもない妹です」
「……それは、たしかに違うな」
口元が若干引き攣ったまま頷いたライネルは、手にした薪をあるべき場所に置くと薪割り台に腰かけた。
「うちは、俺が19の時に両親が流行り病で……。
リサはまだ10歳だったか。それからは俺が面倒見てきたんだが」
「それは大変でしたね」
「ああ、でもリサのためと思えば大した苦労じゃなかった」
どこか誇らしげなライネルを見て、ユキは思わず笑みを浮かべてしまった。これがいわゆる“手塩にかけた”ってやつなのか、とそんなことを思ったのだ。
「じゃあ、リサをあんな良いコに育てたのはライネルさんってことか」
「まあ、もともとの気質もあるとは思うけどな……。
これが昔住んでた街なら、今ごろ求婚者を追い払うのが大変だっただろうな。
リサが素晴らしい女性になってしまって、なんとも言えない気持ちだよ」
そう言った時のライネルが本当に苦虫を噛み潰したような顔をしているのを見て、ユキは頬をひくつかせた。なんかもう紫の上みたいだなぁ……などと心の中で呟きながら。