それは嘘じゃない
ぱたん、とドアを閉めたユキは沈痛な面持ちで溜息をついた。
なんだかもう、気力を根こそぎ奪われた気分だ。話を聞いただけだというのに、とんでもないものを背負ってしまったような気がする。
「お、重たい……」
彼が、うへぇ、と口を歪めて呟いた時だ。
「何だって?」
突然背後から声をかけられて、ユキの体がびくりと震えた。片手に2つ持っていたカップがぶつかり合って、かすかに音を立てる。
落とさなくて良かった。そう思ったのと同時に振り返って目に入ったのは、腕組みをして非常に怖い顔をしたライネルの姿だ。
「び、びっくりした……!
どうも……お、おかえりっす……」
条件反射的に頭を下げ挨拶をして、ユキは我に返った。じわじわと、怒りとも苛立ちとも違うものが頭の芯に集まってくる。そして気がついた時には目を細めて、じとりとライネルのことを睨むように見据えてしまっていた。
「な、何だよ……」
ライネルは、普段はおどおどと腰が引けている彼の態度が突然ころりと変わったことに戸惑いながらも口を開いた。ところが次の瞬間、彼の表情が驚くほど一変する。
「――――まさか、リサに何かあったのか?!」
ユキに詰め寄ったライネルは、ドアの前にいる彼を押しのけようとした。けれどユキはそんなライネルの取り乱し方をどこか冷静に見ながら溜息をつく。もちろんドアの前からどいたりせずに。
「いやいや、リサは眠ってますけど」
「……熱が上がったのか?!」
眠っていると言ったのに声を荒げるとはどういう了見なんだ。
半ば呆れつつ人差し指を唇に立てたユキは、ライネルの誤解を解いてやることにした。このまま暴走されたら良くなるものも良くならない。
「違うと思います。その前にぐっすり眠ったからか、顔色は良かったし。
たくさん喋って、疲れただけじゃないかな。たぶんですけど。
……って、おでこ触って確かめたわけじゃないんで!」
言葉の途中でライネルが握りこぶしを震わせているのに気づいたユキは、慌てて首を振る。
そんなに近づけたくないなら、せめてリサが良くなるまで家を空けなければいいのに。様子を見ておけ、なんて言わなきゃいいのに。あんたはヤマアラシか。
なんとなく納得のいかないユキは心の中で呟いた。カーディガンを肩に掛けてやったことは申告しないでおこう、と。
目が覚めると、部屋の中は真っ暗だった。きょとん、としたリサは何度か瞬きをして、ようやく自分が夜に目を覚ましたのだと気づいた。ふぅ、と息を吐いた彼女の手が、額を擦る。
朝まで、あとどれくらいだろう。もう一度眠ろう。
そう思いながらも、すっかり眠気は吹き飛んでしまっているのが分かる。たっぷり眠ってだいぶ軽くなった体を伸ばしたリサは、椅子に掛けてあった上着を羽織ると立ち上がった。
ベッドに入っている時間が長かったせいか、足が床についていないような気がする。
彼女はとりあえず何か飲もうと、こっそりと部屋を出た。獣の遠吠えがかすかに響くのを聞く限り、兄もユキも眠っているだろうから。
音を出さないように気をつけながら、ドアを閉める。振り返ったリサは居間から光が漏れているのに気づいて、踏み出そうとしていた足を止めた。
……居間で寝ているのは、ユキのはず。まだ寝てないのかしら。
そう思って小首を傾げたリサは、そっと居間を覗き込んだ。そして思っていたのとは違うけれど、よく知った背中を見つけたのだった。
思わず笑顔になったリサは、そっと呼びかけながら彼に近づいた。
「――――兄さん」
「眠れないのか?
体の方は……だいぶ良さそうだな」
暖炉の火を絶やさないように薪をくべていたライネルが、遠慮がちにやって来た妹を見つけて頬を緩める。こんな時間に起きていることを咎める気にはなれなかった。兄なら兄らしく、ちゃんとベッドに入るよう言い含めるべきだと思うのに。
「たっぷり眠ったし、もう大丈夫」
渋い顔をされなかったことに安心したリサは、小さく笑って頷いた。そのまま暖炉の前で胡坐を掻いている兄の隣に腰を下ろす。
ライネルは何も言わずに自分用の毛布に手を伸ばした。それを妹の肩に掛けて、ぐるりと包んで胸の前で閉じてやる。
ここに居てもいい、と言われたようで、嬉しくなったリサは微笑んだ。思わず零れたといってもいい。ところが彼女はそんな自分を隠すように、兄の匂いが染みついた毛布を口元まで手繰り寄せた。
「兄さんの方こそ眠れないの?
……もしかしてユキがベッドで寝てるから?」
「いや、今夜はユキにベッドを譲ったんだ。
お前が夜中に起きるかも知れないと思ったから」
炎の具合を確かめながら言うライネルの横顔を見つめて、リサは口をぽかんと開けた。自分のすべてを把握されているようで、なんとなく落ち着かない。
ライネルが小さく笑った。やっぱり目は炎を見つめたままで。
「熱がぶり返すかと思ったんだよ。
小さい頃は、夜中にしんどくなって起きて泣いてたし」
「それは、本当に小さい時のことでしょ?
もう子どもじゃないのに、心配しすぎよ」
「……そうだな」
ライネルの唇が自嘲気味に歪む。
子ども扱いする兄の腕を抓ってやろうかと思ったリサは、伸ばしかけていた手を引っ込めた。そして、毛布をぎゅっと握りしめる。なんだか距離を感じるのだ。たったふたりの兄妹なのに。
リサが表現しようのない違和感に何も言えずにいると、ライネルは静かになった妹の頭を撫でて言った。
「でも心配くらいは、させてくれ」
「そ、そんなの……」
いつになく穏やかで優しい声色を聞いて、リサは頬に熱が集まるのを感じて言葉に詰まってしまった。暖炉の炎のせいだろうか、熱くて仕方ない。
いろいろ気のせいだ、と自分に言い聞かせた彼女は、少しばかり語気を強めて言い返した。
「私だって、兄さんのこと心配してるんだからね」
「え?」
まるで予想もしなかった言葉に、ライネルの目が丸くなる。そんな兄の反応を目の当たりにして、リサは溜息混じりに肩から力を抜いた。
「もういい歳なのに……。
村には好みの人がいないの?」
「うーん……」
ライネルは曖昧に唸って、困ったように笑って言った。
「そういうのは、お前が先だろ。
俺のことは、可愛い妹が幸せになるのを見届けてからでいいんだよ」
「私に遠慮することないのに」
「……遠慮してるわけじゃない」
ライネルが唇を尖らせるリサから目を逸らし、暖炉の炎が爆ぜるのを見つめる。その姿は、これ以上の会話を拒んでいるようで。
毛布の端を握りしめたリサは、それを体から剥がして兄に押しつけた。
「そろそろ寝るね。毛布、ありがとう」
「あ、ああ」
少々強引な仕草をした妹の様子に戸惑いつつも、ライネルは毛布を受け取って頷いた。柔らかいはずのウールの毛先が、頬をちくちくと刺す。
リサはゆっくりと立ち上がると、自分を見上げている兄に向って静かに口を開いた。
「本当に、私に遠慮したりしないでね。
幸せになってほしいの、兄さんには。世界で一番大切だから……」
「……なんて。恥ずかしいね。また熱が上がったのかも。おやすみなさい」と小さな声で早口に言い残して、リサは自分の部屋へと戻って行った。暖炉の前に残されたライネルは、ただその後ろ姿を呆然と見送っただけだ。
「なんだよ……急に……」
完全に不意打ちを食らってしまったことが妙に腹立たしい。言われたことが、なんだか面映ゆい。兄として受け取るなら、あれ以上の誉はないだろう。
くしゃりと髪を乱して、ライネルは大きく溜息をついた。ユキが来てからというもの、いろいろ翻弄されてばかりだ。
「俺だって、お前のことが大事だよ……」
押しつけられた毛布は、まだ温かい。




