嘘つき達の告白
全身が燃えるような熱に包まれて、痛くて苦しい――――。記憶の彼方にある、輪郭のない記憶。それはおぼろげで、幼い日の夜中に見た悪夢だったのかも知れないと思うほど。
大きくてごつごつした大人の手……あれはきっと父だ。医者を呼んで来る、と言ったのは母だろう。そして絶え間なく聴こえていた、震えて今にも泣きそうな声。あれは兄に違いない。
ぼんやり天井を見上げながら、リサは細い息を吐き出した。
この村に住むようになってから、子どもの頃のことなんて全く思い出さなくなっていたのに……。それでも詳しいことを覚えていないのは不幸中の幸いだと思う。断片的な部分がふと脳裏をよぎっては、体の芯が冷えて体が強張るのだ。何があったのかは両親も兄も教えてはくれなかったけれど、子どもながらに恐怖体験だったんだろう。大怪我でもして、それで高熱で魘されたのかも知れない。その頃の自分はお転婆だったらしいから。
ともかくリサは、少し安心していた。その時のことを引きずっていることを、兄のライネルには気づかれていないようだから。
「兄さん、心配性だもんねぇ……」
ちょっと熱を出しただけで、ひと晩つきっきりだったのだ。あれやこれや世話を焼いてくれるのは嬉しいものの、苦笑だって浮かぶに決まっている。もう大丈夫、自分のことは自分で出来る……そう言ってみても、ライネルは渋い顔をするだけだった。曖昧にぼかされた記憶に怯える姿なんて見せた日には、どうなることやら。
流行り病で亡くなった両親が健在だったなら、もしかしたら違った今があるのかも知れない。その代わりに、兄とふたりで苦楽を共にする生活もなかっただろうけれど。
「最低だわ」
無意識のうちに今の暮らしがなくなるのを想像してしまったリサは、思わず顔を歪めた。胸がちくりと痛む。病に倒れた母を泣きながら一緒に看取り、間もなく後を追うように亡くなった父。悲しいなんて言葉では足りないほどの喪失感に襲われたというのに。
その時だ。ふいにドアがわずかに開いて、隙間からユキが顔を覗かせた。
「勝手にごめん、寝てた?」
「……ん、ううん。起きてたわ」
声を落として尋ねながらも、ユキはリサの指先が目尻を拭ったのを見逃さなかった。だからつい、必要もないのに明るく振舞ってしまう。
「心配性なお兄様の言いつけで、様子を見に来たんだけど。
入ってもいい?」
「ライネルさん、ちょっと出かけてくるってさ。
あ、蜂蜜を入れたお茶が好きだって聞いたから、淹れてきたんだ」
そう言いながら部屋に入ってきたユキは、ベッドの上に体を起こしたリサにカップを差し出した。
受け取った手のひらが、じんわりと暖まっていく。ほわりと浮かぶ甘い匂いの湯気を吸い込んだ彼女は、頬を緩めた。
「ありがとう。
ユキは、体調はどうなの? なんともない?」
ついこの前まで自分が世話を焼く側に立っていたことを思うと、なんだかバツが悪いし恥ずかしい。上着を羽織らずに出歩いただけで熱を出すなんて。子どもじゃあるまいし。そんな思いが、リサの声を小さくさせる。
ユキはおもむろに椅子を引き寄せ、腰を下ろした。その顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。この期に及んで拾った猫の心配をするなんて、本当にお人好し。そう腹の底で冷やかに見ていたはずが、いつの間にか自然と顔がほころんでいた。
「全然、なんともない。
リサが気にかけて世話してくれたからだよ」
「私は何も。助けたの、兄さんだし」
くすぐったい気持ちになって、リサは笑い声を漏らした。ひと晩よく眠ったからか、熱を出して倒れた割に顔色は悪くない。そんな彼女の顔を横目に、ユキはカップの中身をひと啜りした。
「もちろん君のお兄さんにも感謝はしてるよ。怖いけど。
でももう、お世話になってばかりっていうのもねー……」
柔らかく揺れたリサの肩に、ユキは椅子にかけてあったカーディガンをかけてやる。
すると、礼を言おうとして口を開いた彼女の表情が曇る。今までの会話とは、何かが違う気がしたのだ。
「……ねぇユキ、もしかして出て行っちゃうの?」
別れの予感が漂っているのを肌で感じたリサは、カップの中身に視線を落として呟いた。蜂蜜の甘い匂いが、寂しさを誘う。正直なところ、一緒に料理をしたり洗濯物をたたんだりして過ごすのは楽しかったから。
「あー……っと……」
当たらずとも遠からず。ユキは口ごもった。今朝顔を合わせたライネルから、リサの体調が落ち着いたら出て行くよう言われたばかりだったから。
言われたことに反感は抱かなかった。それはそうだ。可愛い妹とどこの馬の骨とも分からない男がひとつ屋根の下で過ごしているなんて、兄としては看過できないに決まってる。それなのに、行き倒れていた素姓の知れない人間に衣食住を与えてくれたのだ。十分恵まれていると思える。
彼は困ったような笑みを浮かべて言った。
「うん、まあね。
明日にでも、ってわけじゃないけど」
「……そうなの……?」
「やー、嘘までついて長居しちゃってごめんねぇ」
肩を落としたリサを前に、ユキは努めて明るい声を出した。湿っぽくなるのは性に合わないし、いっそのこと嘘をついていたことを詰って追い出してもらった方が気が楽だ。……ものすごく身勝手だと思うけれど。
彼がそんなことを考えている隣で、リサは我に返った。そうだ、この人嘘をついていたんだった。でもそれって、本当に本当なんだろうか。
「そういえばユキ、あなた本当に男の子なの……?」
ぱったりと意識が途絶える直前に耳にした言葉を思い返して、リサは眉値を寄せた。にわかには信じられなかったのだ。
すると、一瞬湿っぽくなった空気が消えたことに気づいたユキが、自嘲めいた笑みをへらりと浮かべて口を開いた。
「あ、ちゃんと聞こえてたんだ。
本当だよ。俺は男。
……こっちに来る前から間違われることはあったけど」
「そ、そう……」
リサは難しい顔をして曖昧に頷いた。その口から出た言葉も浮かんだ表情も、なんだか腑に落ちなくて。もしかして、まだ結構な熱があって彼の言葉が理解出来ないんだろうか。そんなことを自問してしまう。かといって、証拠を見せろというのも可笑しな……というか、とんでもない話だ。第一、見せられたって困る。
「ごめんごめん」
ユキは額に手をやって首を捻っているリサを見て、そっと苦笑を浮かべた。そして、真剣な目をして静かに言葉を紡ぐ。
「じゃあちゃんと説明……っていうか、話をするよ。
なんてことない、ただの身の上話なんだけどさ」
「その身の上話が、嘘をついた理由なの?」
「まあ、ね。
たいした話じゃないし、面白くもなんともないけど」
リサの手に収まったカップから、湯気は消えている。けれど彼女はそれを両手でしっかり抱えたまま、そっと頷いた。
妹至上主義のライネルが家を空ける……しかもその可愛い妹は昨日ぶっ倒れて安静にしているというのに、出て行けばいいと思っている男に留守を頼むとは。戸惑いはある。でもこの機会にリサに言い訳をしておくべきだ、と思い直したわけだ。あとになってライネルからナイフのように鋭い視線を投げられても、その時はその時。
それはそうと、自分のことを改めて話すとなるとどうしても気恥ずかしさが拭えないものだ。ユキは頬をぽりぽり掻きながら口を開いた。
「実は……」
ユキはリサをちらりと見遣ると口を噤んだ。そして緊張したような、心配そうな眼差しを向ける彼女に向かって再び口を開いた。
「俺が生まれ育った所は、すごく遠いところでさ。
こっちの方には割と最近……半年くらい前に来たんだ」
「そうなんだ……どのあたりの出身なの?
私は12の頃に、この村に移り住んだのよ。
その前は隣町に家族で住んで……って、ごめんなさい。続けて」
話の始めに口を挟んだリサが、慌てて手を振る。お互い余所者だったのかと思ったら、どうにも親近感が湧いてしまったのだ。
リサが居住まいを正すと、ユキが苦笑を浮かべて頷いた。
「うん、ええと……。
見ず知らずの土地に来て、どうしたらいいのか途方に暮れて……そんな時、ある人が声をかけてくれたんだ。
その人は自分が働いている屋敷で、俺を雇ってくれないか尋ねてみるって言ってくれてさ。親切な人もいるもんだなぁ、と思ってついて行ったんだ。
……で、ついて行った先で着替えろって渡された服が、女物だったわけ。その人、俺のこと女の子だと思ってたらしいんだ」
「その時に違うって言わなかったの?」
話の結末をなんとなく想像したリサが、難しい顔をする。するとユキは首を振った。
「まさか。だって、本当に途方に暮れてたんだ。職もない、家もない。食べるものどころかお金だってなかった。
藁にも縋る思いで、言われるまま服を着替えたよ。男だってバレないように」
「バレないようにって……そんなの無理だわ」
「俺もそう思ってた。
そのうちバレるだろうから、ほんの少しだけでも稼げたら辞めよう、って。
幸いカフェの経験はあったし、お屋敷の下働きもなんとかなったよ」
「え?
か、かふぇ?」
「あー……あんまり気にしないで」
訝しげな目をしたリサに向かって、ユキは苦笑しながら手を振る。こんなに話すのは久しぶりで舞い上がっちゃって、ごめん。と付け足して。
行き倒れていた物静かな女性としての彼だけを知っているリサとしては、なんだか不思議な気分だった。でも、ころころ笑って楽しそうにしている彼は悪くない。良い友達になれそうだ、と思える。
「……う、うん?
それで、それから?」
曖昧ながらも頷いて先を促すリサに、ユキも頷いて口を開いた。
「でもやっぱり、無理があった。ある夜、屋敷の主人の怒りを買ったんだ」
「それは……その、辛かったでしょう。仕方ないことだけど」
「うーん、まあ……。
次の日の朝食の下準備を終わらせて、部屋に戻ろうとしてた時だった。就寝前にホットミルクを……って、屋敷の主人がキッチンに入ってきたんだ。
珍しいことだったから不思議に思ったけど、小鍋にミルクを注いで。もうキッチンの火は消してしまったからストーブの火で暖めてくれるようにお願いしたんだけど……その、襲われちゃって」
「……っ」
手で口元を覆ったリサを見遣って、ユキは静かに笑った。
「そんな顔しなくてもいいのに」
「でも……!」
手で覆っても、悲鳴じみた声は止められなかった。その瞬間のことを想像したら、嫌悪や怒りが溢れ出てしまったのだ。昨日まで同性だと思っていたから、無意識のうちに自分に置き換えてしまったのかも知れない。
彼女が憤慨している様子に気づいていながらも、彼は言葉を続けた。怒ってくれるのは嬉しいけれど、うじうじと引きずっていると思われたくない。小さな小さな自尊心だ。
「すっごい気持ち悪かったけど、あっちから離れてくれたからさ。
男だって気づいたんだろうね、“騙された!”とか言って。
……今までも、ああやって気に入った子を喰ってたんだろうけど……」
いつか刺されるんじゃないの、あのおっさん……と物騒な言葉を付け足したユキが無理をしているようには見えない。リサはわなわなと震える唇を噛みしめた。沸騰した頭の中を落ち着かせようと、深呼吸する。熱が上がったら兄に要らぬ心配をかけてしまう。
そうこうしているうちに、ユキが続きを話し始めた。
「少しのお金を持たされた俺は、お屋敷を追い出された。
まあ、それは仕方ないよね。もともと嘘ついてたの俺だし。
……で、晴れて男の格好のまま次の職を探し始めたわけ」
「男の……?
でもユキ、あなた女の人の格好をして倒れて……」
怒ったり訝しげにしたり。忙しなく変わるリサの表情を見て、ユキは自嘲気味に続けた。
「今度は男として働いたんだけど、雇い主は男の子が好きだったみたい。
まあその、そういう相手をしろって迫られてさ。
仕事仲間のおばさんに事情を話して、真夜中に女装して逃げ出したってわけ。
……結局、途中で力尽きちゃったんだけど」
「えぇぇ……」
顔を歪めたリサは言葉を失った。上手いこと言葉に出来ないけれど、ついさっきの話を聞いた時とも違った気持ちが湧き上がってくる。
なんとも形容しがたい表情を浮かべるリサを見て、ユキが溜息をついた。
「なんかもう、いろいろ上手くいかなくて嫌になるよ。
人生って厳しい……いやいやハードモードにも程があるっちゅうの」
「は、はぁど……?」
「ああうん、こっちの話」
ぐちぐちと呟いた言葉の最後が引っ掛かったのか、リサがきょとんと目を瞬かせた。小首を傾げて聞き返す。けれどユキはどこか投げやりに手を振ると、おもむろに立ち上がった。彼女の手からカップをひょいと取って。
「……っていうのが、俺のたいしたことない身の上話」
「ユキ……」
「ありがとな。聞いてもらって、少しスッキリしたよ」
気恥ずかしそうに笑みを浮かべたユキは、もう嘘をついているようには見えない。リサはようやく頬を緩めて頷いた。そしてそれっきり、口を閉じた。
ふいに静かになったリサを見つめて戸惑ったユキもなんとなく口を閉じ、沈黙が落ちる。お互いに目を合わすことなく時間が過ぎていく。どこか居心地の悪い思いをしたユキは、心がけて穏やかに声をかけた。
「じゃあ俺、そろそろ……」
ライネルも帰ってくる頃だろう。その時にリサをちゃんと寝かせておかないと、どんなことを言われるか分かったもんじゃない。
心の中の台詞は口に出さずにユキが部屋を出て行こうとした、その時だ。それまで視線を彷徨わせていたリサが、まっすぐに彼を見つめた。
「待って。
あのね、私もユキに話したいことが……」
 




