最初の嘘
夜半に降り出した雪は眠るように横たわる一人の女の上へ、まるで薄衣を掛けたようにうっすらと積もった。
一面の白に反射した光が彼女の黒髪を照らしている。
音すらも包み込む静かな雪の中、一人の男が近づきそのまま彼女の脇に屈み込んだ。それに合わせ装身具が冷たい音をかすかに鳴らす。
男は剣をしまうと目を閉じたままの女の息を確認し、彼女を抱え上げた。青白い頬に血の気はないが、少なくとも生きている。急がなければ――。
力強く雪を踏みしめ、男は足早に来た道を戻っていった。
リサは体を冷やして戻るであろう兄のために暖炉に火を入れ、すぐにでも温かい飲み物を用意出来るように湯を沸かしていた。おやすみの挨拶をして間もなく戸が乱暴に叩かれ、難しい顔をした村人から事情を聞いた兄が慌ただしく支度をして家を出て行ったのだ。先に寝ているようにと言われたものの、何かが起きたことは分かり切っている。気になって眠れるわけがなかった。
ぷつぷつと小鍋の底から浮かんでくる気泡を見つめて、溜息が零れる。日頃から村の人達の世話になっているとはいえ、何もこんな夜中に……と思わずにはいられないのだ。
「危ない目に遭ってないといいけど……」
薪の燃える気配しかない室内に、独り言がひっそりと響く。
もしかして薬箱を出しておいた方がいいんだろうか。あんまり考えたくないけど……と考えた彼女が、キッチンを離れようとした時だった。
ガタン、という音がその手を止めた。
帰ってきた!
「兄さん?!」
思っていたよりもずっと早い兄の帰りを予感して、リサは思わず声を上げた。ぱたぱたと足音を立てて戸口に駆け寄ると、息を詰めて覗き穴から外の様子を窺う。
軒下に立っているの男の顔を確かめた彼女は、勢いよくドアノブを下げたのだった。
「おかえりなさい!
早く入って、暖炉にあたっ……て……」
そこまで言いかけたリサの口から、言葉が消えた。同時に、ほんのりと浮かんでいた笑みも凍りつく。彼女の視線は兄が担いでいるモノに注がれていた。
無事に戻った兄は、その姿を見るなり絶句した妹に向かって「タオルと着替えを持って来てくれ。それから、毛布と薬箱も」と言い放った。
我に返ったリサは、もちろん急いで言われた通りのものを揃えた。まずは、今日乾いたばかりの自分の服とタオル。それから薬箱。こればかりは兄に使うことにならなくて良かった、と思わずにはいられない。神様ありがとう、と心の中で感謝した。礼拝に遅刻ばかりしてゴメンナサイ、とも。
「持ってきました!」
きびきびした動きで差し出された布のかたまりを受け取りつつ、リサの兄……ライネルは静かに頷いた。その表情は強張っている。
詳しい事情は一切聞かされていないし、聞く暇もなさそうだ。今はとにかく、兄に言われたものを揃えることが先決。
そう思った彼女は、持っていた薬箱を兄の傍らに置いて言った。
「ええと、あとは毛布だっけ。
使ってないのをベッドの下から引っ張り出してくるね。
少し時間がかかるかも知れないけど、出来るだけ急ぐから」
「構わないよ。
お前まで怪我をしたら元も子もない。
暖炉の前にいれば、これ以上体が冷えることもないだろう」
その顔にいつものような柔らかさはないものの、ライネルの声は落ち着いている。小さな頃から、リサを不安や恐れから守り続けてくれた声だ。
彼女はひとつ頷くと、兄の部屋に飛び込んでいった。
がたん、どたん。
毛布を探しているだけのはずなのに、部屋からまるで争っているような物音が聴こえてくるのは何故なのか。そういえばあの子はいつもそうだ。一生懸命になると、周りがまったく見えなくなる。
兄のライネルは沈痛な面持ちで溜息をつくと、行き倒れていた者の上着を脱がしにかかった。触れた布地は、たっぷりと水を含んでいて重い。
紫色になった少女の薄い唇が、かすかに震えている。
これ以上体温が奪われるのは避けたいところだ。早いところ着替えさせてやらなければ。
ちらりと視線を投げたものの、リサが部屋から出てくる気配はない。ライネルは視線を彷徨わせた。
「……仕方ない」
人命が第一。そう己に言い聞かせた彼は、ひとつ深呼吸をした。そして意を決したように少女を見据えると、手際よく服を脱がせ始めたのだった。