25-1.春の中庭~「ばいばい、ノア」
25.春の中庭
高校三年生になり、俺は受験勉強に本腰を入れた。五月の中間試験の一日目を終え、そのまま教室に残って勉強し、途中で自動販売機にアイスコーヒーを買いに行った。コーヒー片手に窓際の自分の席に戻ろうとして、中庭が見えた。
小柄な人影が、丸い石のオブジェに抱きついていた。ノア。
―――春と秋はとても良いです。丸い石が太陽で暖まりまして、抱きつくと気持ちがいいです。
息抜きがてら、からかってくるか。参考書と筆記用具を持って教室を出た。
中庭へ行くと、ノアは両手を頭の上に伸ばして、丸い石の上でうつぶせになっていた。
「ノア」
呼びかけても応答がない。ひょいとその顔をのぞき込むと、眠っていた。日本史の教科書とノートが丸い石のふもとに転がっている。
石の上で眠るとはまた。ノアの両手両足が丸い石に沿って伸び、宙に浮いている。バランス崩したら落ちるぞ。タイルで頭打つぞ。
しかたない見張っててやるか。隣の丸い石を背もたれに、春の日差しの中、ノアをそれとなく視界に収めつつ、数学の問題を解く。
小一時間たった。そろそろ起こすか。
「ノア、起きろ。勉強しろ。明日が日本史の試験なんだろ」
ノアの横にしゃがんで言うものの、起きない。
ううむ。
「ノア、起きろー」
髪、ちょっと伸びたな。三月までは毎日顔を合わせてたから気づかなかったが。ノアの髪を耳に掛けてやる。ノアの閉じてる目と唇が見えて、かわいいなと、ふと近づいた。
近づいて、触れる直前で身を引いた。
おかしい。このポンコツに惑わされている。受験勉強の疲れが溜まりすぎたか。とにかくこれ以上ノアに触らない方がいい。
はぁ、とため息をついて、携帯から黒石に電話をかけた。
しばらくの呼び出し音のあと、つながる。
「お前、今どこ?」
『図書室にいました。応答遅れてすみません。どうされました?』
「ノアが中庭で寝てる。こいつ眠りこけて下手したら終電逃すから、起こしてやって」
『あ、はい、行きます』
まぁ、しばらくならバランスもとれるだろ。
ノアに背を向けて教室に戻った。
中間試験が終わっても俺の挙動不審は続いた。学校で、つい視線がノアを探す。勉強のしすぎか。回転しすぎた頭が、ノアの、のほほんとした雰囲気を欲しているのか。一日まるごと頭を休ませてみたが、それでも収まらない。どうなってんだ。
このままでは受験勉強に支障をきたす。
ノアのことをシャットアウトした。自分の心の中から閉め出した。そうすると挙動不審は収まった。それから一週間ぐらい経った頃、黒石から電話がかかってきた。
『すみません、夜遅くに』
自分の部屋で電話をとる。夜十一時。
「どうした?」
生徒会は文化祭の準備に入る頃だ。問題でも起きたか。黒石が「それが」と言いよどむ。
『乃亜さんの名前が……、信号ノートに、載りました。いきなり赤が出たんです。仕事量が多いのかと、見回りを減らしたり、打ち合わせに出てもらうのをやめたりしているんですが、何をやっても、信号が赤から動かないんです。今週全部、赤なんです』
―――気をつけて。ノートをつけてる本人も危ないよ。
真野先輩のアドバイスを受けて、ノア自身のことも信号ノートにつけろと命じていた。
俺が生徒会にいたとき、ノアに信号が付いたことはない。今日は金曜だ。今週全部赤とは、一体何が起きているのか。眉をひそめる。
「黒石、ノアの話、聞いた? 何が問題かって。抽象的な質問だと、あいつなかなか答えきれないぞ。後輩と上手くいってないとか、ポンコツすぎて陰でいじめられてるとか」
『はい、あれかこれかと聞いてるんですが、どうも、どれも違っていて。昨日も、理由を聞いている途中で乃亜さんが泣いてしまって、全然、会話にならないんです。女子にも話を聞いてもらったんですが、何も言わないみたいで、本当に、俺も他のメンバーも、どうにもできなくて……。お忙しいところ申し訳ないんですが、一度、乃亜さんと話していただけませんか』
うーむ。ノアと話すとまたノアをシャットアウトする手間がかかるのだが、仕方ないか。
「ん、わかった。じゃぁ月曜な。授業終わるの六時過ぎだから、六時半からどこか会議室とっといて」
『はい。すみません。会議室はメールします。よろしくお願いします』
そして月曜の放課後、黒石からの場所連絡をもとに第二会議室に向かう。
ノアがパイプ椅子に座っていた。俺の顔をみて泣き出した。
「どうした。何が問題だ」
言いながら、隣の椅子に座る。
ノアは泣くばかりで話にならない。
こいつがこんなに泣くのはいつ以来だ。生徒会を辞めようかと思い詰めていた時か。
「生徒会が辛いか?」
聞いてみるが、何も言わない。ただ泣いている。
「ほら、ノア」
仕方なく手を伸ばして、頭をなでる。
ノアが泣きながら言った。
「どうして、ですか」
また唐突だな。何のことだ。
「何が、どうして?」
ノアが泣き続ける。
「大丈夫だから。心配ないから。言ってみろ」
ノアの頭をなでる。
「……会長、が……私を、みてくださらない、のは、どうして、です、か」
原因は黒石か。
「黒石はお前のことみてるだろ。心配してた。俺にお前の話聞いてやってくれって電話してきたぐらいだし。黒石のフォローが、まだ足りないか」
ふたりで組ませて訓練してたときは問題なかったはずだが、黒石も会長になってノアの面倒ばかりみていられないということか。
「会長、です……。会長が、私を……」
ノアが泣く。
どうにも話がつながらない。これは黒石も苦労するな。
内心嘆息して、ひたすらノアの頭をなでる。
「ノア。大丈夫だ。黒石はちゃんと、お前をみてる。あいつはお前のこと好きだろ」
言い聞かせてもノアは泣きやまない。しゃくり上げながら言う。
「しばらく前、に、あたたかい、空気、が……、急に、なくなって、消えて、しまって」
ノアが赤信号続きで黒石の余裕がなくなったか。会長がまいればそりゃ部下も赤になる。悪循環だ。引退した身で生徒会に口を出すのは避けたいが、黒石をフォローできるやつがいるか。
「ノア。黒石は今、何信号?」
「信号、ついて、ない、です」
はぁ。こりゃどういうことだ。
「黒石くん、は、大丈夫、です。会長、が……会長、が、私、を……」
要領を得ないノアの言葉を頭の中で再生してはたと気づく。
黒石くん。会長。
こいつが言ってる「会長」って、現会長の黒石じゃなく俺のこと―――。
周りから音が消えた気がした。
「ノア」
低く、名前を呼んだ。ノアが顔を上げる。
「俺がお前をみてないって、言ってんの?」
ノアの目から涙が零れる。泣きながらノアが頷く。
「俺は生徒会を引退したんだ。もうお前の面倒はみれない。それは当たり前だ。受け入れろ」
ノアがますます泣く。
ノアに信号がついた理由。先週全部、赤。そうなるほどの、俺への依存―――。
手を伸ばして、泣いているノアの手首から無理矢理腕時計を外した。俺がクリスマスにやったピンクの腕時計。
―――その時計で、しっかり時間感覚を身につけろ。仕事中は常に時間を意識しろ。
こうなるとわかってたら、時計なんかやらなかった。自分のシャツの胸ポケットに放り込む。
「これは没収な。黒石から腕時計もらってそれをつけろ」
「いただいた腕時計、私の、お守り、です。時間を、見ます。会長の時計で、時間を見ます」
ノアが俺のポケットに手を伸ばす。その手首をつかんだ。
「会長は俺じゃない。黒石だ。黒石の時計をみろ」
「嫌、です、会長の時計が、いい、です」
「ノア。しっかりしろ。俺がいなくても仕事できるようになれ。強くなれ」
「会長が、みていて、くださらないと、私は、私、は……」
「大丈夫だ。黒石はちゃんとお前ともうまくやっていける」
「ちがい、ます、会長、ちがうの、です。会長に、みていてほしいの、です。時計が、いります。私には、会長の時計が、必要、です」
ノアが俺につかまれた手首を振りほどこうと暴れる。泣きながら、時計を取り返そうと手を伸ばす。
どうしたらいい。泣いて泣いて、混乱しているノアを。
「ノア」
ノアの手首を離して、抱きしめた。ノアの動きが止まる。
「落ち着け。大丈夫だ」
「……は、い……」
「深呼吸しろ」
「はい……」
腕の中でノアが深呼吸する。ノアが落ち着く。シャツ越しに体温が伝わってきて、俺の心拍数が上がる。俺が混乱しかける。
冷静になれと自分に言い聞かせる。今、この手を放せない。
頭を切り換える。前生徒会長として、ノアを抱きしめたまま、根本を問う。
「ノア。今の会長は誰だ。答えろ」
「黒石くん、です」
「副会長は、誰だ」
「……私、です……」
「よくできた。正解だ」
抱きしめたまま、片手でノアの頭をなでる。ゆっくりと言い聞かせた。
「黒石会長にノア副会長だ。だから、お前の面倒は黒石がみるんだ。俺はお前の面倒をみない。それが正しい。わかるか」
「……はい……」
ノアが頷く。ノアの涙でシャツが濡れていくのがわかった。
「会長は、もう、私を、みてくださらないの、ですね。それが正しいの、ですね」
「ああ、それが正しい。ノア、俺はもう会長じゃない。俺を会長と呼ぶのはやめろ。お前の後輩も、まわりも、混乱する」
「はい……」
落ち着いたか。そっとノアを離した。
自分の手帳を開いて一枚千切った。ボールペンを机に置く。
「メモしろ。俺からの命令だ」
ノアがボールペンに手を伸ばす。
俺は静かに覚悟を決めた。ノアの俺依存を治す。そのために。
「言うぞ。そのまま書け。一、俺のことは忘れる。二、生徒会の仕事をしっかりやる」
あとは、なにがあればいい。
心臓が痛い。だけど。
黒石。ノアを頼む。
「三、黒石に告白されたら付き合う。四、付き合い出したら生徒会をやってる間は別れない。五、体育祭のハチマキは黒石と交換する。六、黒石に腕時計をもらう」
ノアの目から次々に涙が零れる。ノアが泣きながら書いていく。
「ノア。俺がいなくても平気になれ。お前ならできる。大丈夫だ。七、ノアならできる」
「……はい……」
ノアがメモに追加した七項目目。『ノアならできる』。
気づきやしないだろう、と、ずっとカタカナのつもりで呼んでいた。
ノアは知っていた。俺が「乃亜」じゃなくて「ノア」と呼んでることに気づいてた。
ここまで通じていて、どうして―――。
俺がいない生徒会で働くのが辛いなら、生徒会なんかやめればいい。
やめて俺のそばにいればいいんだ。
それでも。
ノア。
凍りつく気持ちを押し込めた。
「俺の最後の命令だ。きちんと守れ」
「はい。守り、ます」
ノアが頷いた。
「今まで、ほんとうに、ありがとう、ございました」
涙で濡れた顔で、俺に頭をさげた。
俺はハンカチでノアの顔を拭いてやって、これが最後だと、頭をなでた。俺のことを忘れろと命令した以上、この先、二度とノアに声をかけない。ノアは俺の命令を守ると言った。ノアから話しかけてくることも、もう、ない。
寂しくて、悲しくて、それでも俺は笑った。ノアのそばにいることより、ノアが俺から自立できる道を選んだ。
最後の一言を、かける。
「ばいばい、ノア」
「はい、さようなら、です。……アキラさん」
ノアは涙目で俺を見て、少しだけ笑った。




